『呼ばれた名前のない春』
春は、何もかもをやわらかく見せる。
花は咲き、風は優しく、
痛みも、過去も、どこか遠くへ流れていくように思える。
けれど。
本当に流れているものと、
流れずに残るものは、同じではない。
思い出せないのに、消えないもの。
名前がないのに、確かにそこにあるもの。
それは、季節に関係なく残る。
たとえ春の中でも、
それは静かに引っかかり続ける。
――これは、“呼ばれたのに思い出せない”物語。
春の村は、花の匂いがした。
道の両側に低い石垣が続き、その向こうで薄桃色の花が風に揺れている。畑の土は柔らかく湿っていて、遠くでは水車がゆっくり回っていた。
戦場のあとに見るには、あまりにも穏やかな場所だった。
クチナシは村の入口で少しだけ足を止める。
「……春だ」
小さく呟く。
ネリネはその横を通り過ぎながら、肩をすくめた。
「見れば分かるでしょ」
「うん。分かるけど」
少しだけ考えてから、続ける。
「ちゃんと分かるの、前より増えた気がする」
ネリネは一瞬だけ言葉に詰まる。
「……なにそれ」
「よく分からないけど」
クチナシは軽く首を傾げる。
「前より、ちゃんと見えてる感じ」
ネリネはそれ以上何も言わなかった。
村の中では、小さな市が開かれていた。
野菜。パン。布。針。瓶詰めの果物。薬草の束。
そして、花。
「花、どうですかー! 春の花ですよー!」
ヴァレフォルがランタンを抱えたまま、少しだけ花に近づく。
「き、きれい……」
ネリネにはその声がはっきり聞こえる。
だが子どもには、小さなフクロウの鳴き声にしか聞こえない。
「ホウ……?」
「え、フクロウ……?」
周囲がちらりと見る。
「見るだけならただ!」
子どもは気にせず笑った。
クチナシがその隣にしゃがみ込む。
「……きれいだね」
「お姉さんも見る?」
「うん。少しだけ」
花を一つずつ見ていく。
触れはしない。
ただ、見ている。
ネリネは少し離れた場所に立っていた。
白い花。赤い花。黄色い花。
その中に、黒に近い紫と白が混じった小さな花があった。
視線が止まる。
理由は分からない。
でも、逸らせない。
「お姉さん」
子どもの声。
「なに」
「これ、似合いそう」
白い小花が差し出される。
ネリネは眉を寄せる。
「いらないわよ」
「えー、きれいなのに」
「花なんて持ち歩いてどうするの」
その時。
風が吹いた。
花の匂いが揺れる。
「――リ……」
ネリネは息を止めた。
振り返る。
誰もいない。
「どうしたの?」
子どもは首を傾げている。
村人たちは普通に動いている。
誰もネリネを見ていない。
誰も呼んでいない。
それなのに、耳の奥に声だけが残る。
「……え?」
ネリネは喉に手を当てる。
「……今、誰か呼んだ?」
クチナシが振り返る。
「呼んでない」
少しだけ考えてから続ける。
「少なくとも、ここにはいなかった」
ヘルハウンドが周囲を見る。
「気配はねぇ」
ナベリウスが鼻を鳴らす。
「……死者の声でもねぇな。少なくとも今のは」
「じゃあ何よ」
「知らねぇ」
アスモデウスだけが黙っている。
ネリネはそれに気づく。
「……あんた」
アスモデウスは、少し遅れて笑う。
「何?」
「今の、聞こえた?」
「何か、引っかかった感じはしたかな」
「何」
少し間が空く。
「……風じゃない?」
ネリネの目が細くなる。
「嘘」
「即答だね」
「隠すときの顔してる」
アスモデウスは肩をすくめる。
「ひどいなぁ」
「何隠してるの」
アスモデウスは答えない。
ネリネは一歩近づく。
「ねえ」
「私、今、誰に呼ばれたの」
ほんの一瞬。
アスモデウスの表情が揺れる。
「……いや」
視線を逸らす。
「なんでもない」
ネリネの胸が冷える。
「何よ、それ」
「今は、本当に分からない」
「今は、って言った」
「言ったね」
「またそれ?」
ネリネの中に、少しずつ何かが溜まる。
子どもがまだ花を差し出している。
「……いらない」
子どもの顔が曇る。
その瞬間、胸が少し痛む。
でも、手は動かない。
アスモデウスが横から花を一輪買う。
「じゃあ、ボクがもらおうかな」
「買うの?」
「うん。なんとなく」
ネリネはその手を見る。
花を持つ指。
その光景に、胸がざわつく。
誰かの手。
花。
でも、思い出せない。
「……気持ち悪い」
「花が?」
「私が」
ナベリウスが横に並ぶ。
「自覚あるだけマシだな」
「うるさい」
「でかい穴空いてんのに、平気な顔して歩いてる方がよっぽど気持ち悪ぃ」
ネリネは言い返せなかった。
クチナシが静かに言う。
「……分からないままでも、いいと思う」
ネリネが見る。
「分からないって言えるなら、それでいい」
少し間を置いて。
「無理に埋めなくていいと思う」
「……あんた、そういうとこあるわよね」
「そういうとこ?」
「別に」
ネリネは視線を逸らした。
アスモデウスは花を指で回す。
白い花が揺れる。
ネリネは見ないようにして歩き出す。
「宿、探すんでしょ」
「うん。日が落ちる前に見つけたい」
ヘルハウンドが先に進む。
ヴァレフォルは花を名残惜しそうに見てからついていく。
「き、きれいだった……」
ナベリウスがアスモデウスの横に並ぶ。
「お前、やっぱ知ってんな」
「さあね」
「その顔で誤魔化せると思うなよ」
「思ってないよ」
「なら最初から言え」
「言えたら楽なんだけどね」
ネリネは前を歩く。
名前は思い出せない。
声も、顔も。
でも。
呼ばれた感覚だけが残る。
春の村は、普通に賑わっている。
その中で。
ひとつだけ、拾われなかった名前が、どこかに残ったままだった。
呼ばれたはずの名前は、残らなかった。
声も、顔も、形も。
どこにも見つからない。
それでも。
“呼ばれた”という感覚だけが、消えない。
それは記憶ではなく、
痕跡でもなく、
もっと曖昧で、もっと確かなものだった。
埋めようとすれば、壊れる。
無理に思い出せば、歪む。
だから、今はまだ、そのままでいい。
分からないままでも、残っているなら。
それはきっと、消えてはいない。
春の中に紛れても、
その違和感は、確かに続いていく。
――名前を思い出すその時まで。




