『足りないものの正体』
それは、確かに終わったはずだった。
繰り返していた死は流れ、
止まっていた時間は動き出し、
残るべきものだけが残った。
――そう、思っていた。
けれど。
完全に終わることなんて、最初からなかったのかもしれない。
残らなかったもの。
零れ落ちたもの。
思い出せないまま、引っかかり続けるもの。
それは形を持たないまま、
匂いだけを残して、そこにある。
触れられない。
思い出せない。
それでも、確かに“足りない”。
これは――
喪失が、ようやく形を持ちはじめる物語。
「……足りない」
自分の声が、思ったより小さく落ちた。
前を歩いていたクチナシが振り返る。
ヘルハウンドも視線だけを向けた。
アスモデウスは少し離れた場所で足を止める。
いつもなら軽く茶化してきそうなのに、その気配が来ない。
ネリネは自分でも驚いて、口を押さえた。
「……今の、忘れて」
言ってから、眉を寄せる。
「……違う。今の、なし」
言い直す。
けれど、それでもおかしい気がした。
「ネリネ」
クチナシが近づいてくる。
「……大丈夫?」
少し間を置いてからの問い。
「大丈夫よ」
反射で返す。
けれど、クチナシはすぐには頷かない。
「……顔、ちょっと変」
「失礼ね」
「うん」
「そこは否定しなさいよ」
「……ごめん。でも、いつもと違う」
アスモデウスが歩いてくる。
笑おうとして、少し遅れる。
「疲れてるんじゃない?」
「疲れくらい、あんただってあるでしょ」
「ボクはか弱いからね」
「どこがよ」
「心が」
「嘘つき」
「ひどいなぁ」
軽い。
けれど、ほんの少しだけ間が空く。
「……あんた、何か知ってる?」
アスモデウスの笑みが止まる。
一瞬だけ。
「何を?」
「それを聞いてるの」
「難しい質問だなぁ」
「茶化さないで」
声が少し強くなる。
アスモデウスは少しだけ目を伏せる。
「……今は、言えない」
「“今は”?」
「うん」
「じゃあ、いつなら言えるの」
沈黙。
返事はない。
「……最悪」
「うん」
「うんじゃない」
「……ごめん」
その謝罪は軽くない。
「……おい」
ナベリウスの声。
全員の視線が向く。
「変なのが混じってる」
「何だ」
ヘルハウンド。
「死の匂いだ」
「戦場の残りか」
「違ぇ」
即答。
「もうあの戦場の死は流れ始めてる。あれは“回ってる匂い”だった。これは別だ」
少し間を置いて、鼻を鳴らす。
「……俺っちの嫌いなやつだな」
「……フォルネウス?」
クチナシ。
「いや」
ナベリウスは顔を上げる。
「フォルネウスの匂いじゃねぇ。あいつのはもっと綺麗だ。感情ごと削って、すぱっと終わる」
その言葉に、空気がわずかに冷える。
「なら何だ」
「……死に損なった匂いだ」
ネリネの胸が、強く軋む。
「……死に損なった?」
「ああ。死んでねぇ。終わってねぇ。流れもしねぇ」
ナベリウスは顔をしかめる。
「ずっと引っかかってる。腐りもしねぇ。……気持ち悪ぃ」
「……っ」
ネリネが額に手を当てる。
「ネリネ?」
「平気」
少し遅れて。
「……平気よ」
「そ、その匂い……追う、の……?」
ヴァレフォル。
「追える。……追いたくはねぇけどな」
ナベリウス。
「辿る価値はあるのか」
ヘルハウンド。
「あるだろうな。フォルネウスじゃねぇが、ここまで歪んだ死はそうねぇ」
「悪魔絡み、ね」
アスモデウスが小さく言う。
「……行くの?」
ネリネ。
「行く」
クチナシ。
一拍置いて。
「フォルネウスじゃなくても、放っておけない」
「……そう」
「終わってないなら」
クチナシは続ける。
「そのままにするの、嫌だ」
ヘルハウンドは何も言わない。
ただ隣に立つ。
「……何よ」
ネリネがアスモデウスに向く。
「何も」
「嘘」
「うん」
「認めるな」
アスモデウスは、今度は少しだけちゃんと笑う。
「行こうか」
「気持ち悪いのは、放っておくと増えるからね」
「お前が言うと腹立つな」
ナベリウス。
「褒め言葉?」
「違ぇよ」
クチナシは荷物を背負い直す。
「……いないと、だめだった気がする」
ネリネの小さな声。
アスモデウスだけが、ほんの一瞬だけ足を止める。
振り返らない。
何も言わない。
けれど、その笑みは消えていた。
この形でいきましょう。
空白一拍ベースもかなり読みやすいです。
違和感は、小さいほど厄介だ。
名前がつかない。
形にならない。
けれど、確実にそこにある。
“いないはずの何か”が、
感覚だけを残して、消えない。
思い出せないなら、忘れたことにも気づけない。
触れられないなら、失ったとも言えない。
それでも――
身体は覚えている。
感情だけが、残っている。
だから、人は立ち止まる。
「足りない」と、口にしてしまう。
それが、はじまりだ。
喪失は、思い出すことから始まるんじゃない。
気づいてしまうことから、始まる。




