『言葉にならない距離』
言葉にしなくても、分かるものがある。
触れなくても、離れていないと知れる距離がある。
それは曖昧で、形にならなくて、
名前をつけた瞬間に壊れてしまいそうなもの。
だから、そのままにしておく。
確かめない。
決めつけない。
言い切らない。
それでも残るものだけを抱えて、
人は前に進んでいく。
同じ速さで歩く誰かが、隣にいるなら。
夜が近づいていた。
空はゆっくりと色を落とし、昼の青は薄く溶けていく。遠くの山の輪郭は黒く沈み、地平は静かに閉じていく。
風は冷たくはない。
ただ、昼とは違う重さを持って流れていた。
道は緩やかに続いている。
足元の土は乾いていて、踏むたびにかすかな音を立てる。
誰も急いでいない。
けれど、誰も止まっていない。
進むことが、もう当たり前になっている。
ネリネは少し前を歩いていた。
背筋は伸びているが、どこか力が抜けている。警戒はしている。だが、張り詰めてはいない。
アスモデウスが何かを話しかける。
軽い声。
ネリネが短く返す。
面倒そうに。
それでも、会話は続いている。
ヴァレフォルはランタンを揺らしながら、その少し後ろを歩いている。
夜になる前でも手放さない。
光を持っているだけで、現実に繋がっていられるみたいに。
ナベリウスは鼻を鳴らした。
「静かすぎるのも気味悪ぃな」
小さくぼやく。
けれど、その声に張りはない。
ただの文句。
ただの癖。
クチナシは、その少し後ろ。
ヘルハウンドの隣を歩いていた。
自然な距離。
近すぎず、遠すぎない。
肩は触れない。
手も触れない。
でも、離れない。
その距離が、続いている。
風が吹く。
クチナシの手が、わずかに揺れる。
指先が、隣の手に近づく。
触れそうになる。
ほんの少しだけ。
でも、止まる。
触れない。
そのまま、離れる。
それでよかった。
無理に触れる必要はない。
確かめる必要もない。
離れていないと分かっているから。
それでいい。
言葉にしたら、何かが変わりそうだった。
名前をつけたら、形が決まってしまいそうだった。
決まれば、壊れるかもしれない。
だから、言わない。
触れない。
でも、離れない。
ヘルハウンドも何も言わない。
ただ、同じ速さで歩いている。
クチナシがほんの少し遅れれば、分からないくらいに歩幅が緩む。
クチナシが前を向けば、同じ方向を見る。
振り返らない。
止まらない。
それだけ。
それだけで、崩れない。
クチナシは、ふと空を見上げる。
薄暗い空に、ひとつだけ星が浮かんでいた。
小さい。
でも、確かにそこにある。
あの戦場で見た白い花。
夢の中で触れかけた白い手。
神父の手。
ヘルハウンドの手。
いくつもの感触が、胸の奥に残っている。
全部は分からない。
全部は残らない。
触れられなかったものもある。
名前も知らないものもある。
それでも。
残ったものは、確かにある。
形が違っても。
意味が分からなくても。
ここに残っている。
だから、歩ける。
前を向ける。
「……」
クチナシは、何か言おうとした。
言葉が浮かぶ。
ありがとう。
隣にいてくれて。
止まらないでいてくれて。
歩幅を合わせてくれて。
いくつも浮かぶ。
どれも本当だった。
でも。
どれも、少しだけ違う気がした。
言葉にすると、足りなくなる。
言葉にすると、こぼれる。
だから、言わない。
そのままにしておく。
胸の奥に残したまま。
ヘルハウンドが、視線だけを向ける。
気配で分かる。
「何だ」
短い声。
クチナシは首を横に振る。
「……なんでもない」
「そうか」
「うん」
それだけ。
会話は終わる。
続かない。
でも、それで十分だった。
沈黙は空白じゃない。
何もないわけじゃない。
そこには、積み重なったものがある。
代わりに、足音が続く。
二人分の足音。
少し前には、仲間たちの足音。
夜の道に重なっていく。
規則的に。
崩れずに。
前へ。
言葉はいらない。
何も言わなくても分かる。
同じものを見た。
同じ場所を越えた。
同じ理由で、止まらなかった。
そして今。
同じ方向に進んでいる。
それだけで。
もう、十分だった。
クチナシは、もう一度だけ空を見る。
星が、少し増えていた。
夜が、ちゃんと来ている。
それを確かめてから、前を向く。
足は止まらない。
隣に、同じ速さの気配がある。
そのまま。
何も変えずに。
進み続けた。
伝えたい言葉は、確かにあった。
けれど、どれも少しだけ足りなかった。
言葉にすれば、こぼれてしまう。
形にすれば、狭くなってしまう。
だから、言わない。
触れない。
確かめない。
それでも、残っているものがある。
同じものを見て、同じ場所を越えて、
同じ理由で止まらなかった。
その事実だけで、もう十分だった。
夜は深くなる。
星は増えていく。
足音は途切れない。
言葉にならないままでも、
それは確かに、ここにある。




