『歩ける距離』
大きな選択のあとには、何も起きない時間が続く。
戦いも、決断も、終わったはずなのに。
世界はすぐには変わらない。
ただ歩く。
ただ並ぶ。
ただ同じ方向を見る。
それだけの時間が、静かに積み重なっていく。
触れるほど近くはない。
でも、離れる理由もない。
その曖昧な距離の中で、
少しずつ形になっていくものがある。
これは、何も起きない時間の中で、
確かに進んでいく関係の話。
道は、長かった。
空は高く、風はやわらかく流れている。雲がゆっくりと形を変えながら、同じ方向へ進んでいく。地面は乾いていて、足音は軽い。
何も起きない。
魔物も出ない。追手もいない。誰かの悲鳴も聞こえない。
ただ、歩く。
それだけの時間が続いていた。
以前なら、警戒を緩めることはなかった。静けさは嵐の前触れで、何も起きない時間は何かが起きるための“溜め”だった。
けれど今は違う。
本当に、何も起きない。
それが、少しだけ不慣れだった。
クチナシは、その静けさの中を歩きながら、小さく息を吐く。
嫌ではない。
むしろ、落ち着く。
ただ――慣れていないだけだ。
ネリネたちは少し前を歩いている。
アスモデウスが何かを言い、ネリネが短く返す。言い合いにはなっていない。ただのやり取り。軽い会話。
ヴァレフォルはランタンを抱えて、その二人の後ろをちょこちょこと進む。昼でも離さないのは癖だ。
ナベリウスは時々文句を垂れながらも、鼻先を上げて匂いを拾う。前方の様子を探る癖は抜けていない。
クチナシとヘルハウンドは、自然と少し後ろになっていた。
意図したわけではない。
遅れたわけでもない。
ただ、気づいたらそうなっていた。
横並び。
近い。
肩は触れない。
でも、手を少し動かせば届く距離。
その距離が、ずっと続いている。
クチナシは、ふと自分の手を見た。
歩くたびに、指先がわずかに揺れる。
そのすぐ横に、ヘルハウンドの手がある。
大きい手。
骨ばっていて、傷もある。
壊すための手。
終わらせるための手。
でも、花を持てる手。
あの夜、壊さないように力を抜いた手。
触れそうになる。
ほんの少しだけ。
距離を詰めれば、触れる。
でも、触れない。
触れそうになって、止まる。
また触れそうになる。
また止まる。
その繰り返し。
「……」
クチナシは、少しだけ手を引っ込めた。
自分でも分かるくらい、不自然な動きだった。
その瞬間。
「何してる」
低い声。
ヘルハウンドだった。
前を向いたまま。
だが、確実に見ている。
「……なにも」
「挙動が変だ」
「変じゃない」
「変だ」
短い応酬。
クチナシは少しだけ唇を結ぶ。
気づかれていた。
何も言わないでいようと思ったのに。
しばらく黙ってから、小さく聞く。
「……近い?」
自分でも、何を聞いているのか分からない。
ヘルハウンドは前を向いたまま答える。
「別に」
「……そう」
一拍。
クチナシはもう一度だけ聞く。
「近くない?」
「歩ける距離だ」
「……うん」
答えになっているようで、なっていない。
でも、嘘ではない。
歩ける距離。
離れすぎず、近すぎず。
並んで進める距離。
その言葉が、妙にしっくりきた。
クチナシはそれ以上聞かなかった。
聞かなくてもいいと思った。
今の二人には、それで足りている。
そのまま歩く。
同じ速さで。
同じ方向へ。
道の石に、クチナシの足先が軽く引っかかった。
「……っ」
ほんのわずか。
身体が傾く。
その瞬間。
ヘルハウンドの手が伸びる。
迷いがない。
腕を掴む。
強くはない。
だが、確実に支える。
クチナシの身体が戻る。
足が踏み直す。
安定する。
そのまま、手は離れた。
一瞬だった。
触れていた感覚だけが、少し遅れて残る。
「前見ろ」
「……見てた」
「見てねぇ」
「見てた」
「足取られただろ」
「転んでない」
「倒れる手前だ」
言い方は変わらない。
遠慮も、飾りもない。
クチナシは少しだけむっとする。
「それ、前にも言った」
「事実は変わらねぇ」
同じ言葉。
同じ調子。
なのに。
クチナシは、少しだけ笑いそうになる。
ヘルハウンドは気にした様子もなく歩く。
何もなかったみたいに。
クチナシも並ぶ。
また、手が揺れる。
触れそうになる。
触れない。
でも、さっきより気にならない。
触れなくても、離れていない。
それが分かるから。
さっき触れた一瞬。
支えられた感覚。
それが、残っている。
だから、今はいい。
急がなくていい。
言わなくてもいい。
クチナシは前を見る。
道は続いている。
静かなまま。
何も起きないまま。
それでも、足は止まらない。
隣にいる。
それだけで、十分だった。
近づくことは、簡単じゃない。
触れれば変わる。
言えば壊れるかもしれない。
だから、人は止まる。
けれど。
離れないことは、もっと確かな選択だ。
同じ速度で歩くこと。
同じ方向へ進むこと。
必要なときに手を伸ばすこと。
それだけで、十分な距離がある。
触れなくても、残るものはある。
触れた一瞬。
支えられた感覚。
言葉にならなかったもの。
それらは消えない。
歩ける距離にいる限り、
その先は、いつでも選び直せる。




