『残していくもの』
失ったものは、思い出せなくなる。
名前も。
顔も。
声も。
時間が経てば、形はほどけていく。
けれど。
何も残らないわけじゃない。
理由のない違和感。
説明できない痛み。
触れなかった距離。
それだけが、残る。
これは、思い出せない喪失の話だ。
そして、思い出せないままでも、
それを抱えて生きていく話だ。
夕方の光は、やわらかかった。
橙色に傾いた空が、木々の隙間から細く差し込んでいる。風は弱く、葉の擦れる音も小さい。どこにでもある、普通の終わりかけの一日だった。
野営の準備は、もう終わっている。
ネリネは水を汲みに行き、アスモデウスはナベリウスと言い合っている。声の調子は軽い。内容もどうでもいい。ただ続いているだけのやり取りだった。
ヴァレフォルはランタンのそばで羽を整えている。落ち着いているときの仕草だった。
クチナシは、少し離れた場所に座っていた。
荷物を広げる。
必要なものを確認して、整えて、またしまう。
それだけの作業。
けれど、手は止まらなかった。
何かを探しているわけではない。
ただ、動かしていないと落ち着かない。
袋の奥へ、手を入れる。
布の感触。
指先が、そこで止まる。
「……」
ゆっくりと引き抜く。
小さく包まれた布。
見覚えがある。
開く前から分かっていた。
指先でほどく。
中から出てきたのは、白い花だった。
乾いている。
触れれば崩れそうなほどではないが、もう柔らかさはない。花びらはわずかに縮み、色も淡くなっている。
それでも。
形は残っていた。
崩れていない。
あの日、もらったままの形を、なんとか保っている。
クチナシは、それをじっと見ていた。
春祭りの街。
子どもに渡された花。
理由なんてなかった。
ただ、綺麗だから。
それだけだった。
その花を、今も持っている。
意味はない。
役にも立たない。
でも、残っている。
胸の奥で、何かが静かに引っかかる。
アンドロスの戦場で見た花とは違う。
あの小さな手が差し出した花とも違う。
でも。
どこかで、繋がっている気がした。
理由のないもの。
壊さなかったもの。
残ったもの。
「捨てるのか」
低い声が落ちる。
クチナシは顔を上げる。
ヘルハウンドが立っていた。
いつの間にか、近くに来ている。
足音は聞こえなかった。
ただ、そこにいた。
クチナシは首を横に振る。
「……迷ってる」
「枯れてるだろ」
「うん」
「持ってても意味ねぇ」
「……うん」
全部、正しい。
否定できる言葉はない。
この花に価値はない。
使い道もない。
持っている理由も、説明できない。
それでも。
クチナシは、花から目を離さない。
「でも」
一拍。
言葉が、ゆっくり出る。
「残ってるなら、それでいい」
言った瞬間、胸の奥がわずかに震えた。
同じ言葉だった。
あの場所で。
あの戦場で。
アンドロスに向けて言った言葉と。
全部じゃなくていい。
綺麗じゃなくていい。
意味が分からなくてもいい。
残っているなら。
それでいい。
ヘルハウンドは何も言わない。
ただ、花を見る。
しばらく、そのままだった。
クチナシはもう一度、花を布で包む。
今度は、さっきより丁寧に。
崩れないように。
形が残るように。
そして、袋の奥ではなく、少し取り出しやすい場所へしまった。
「捨てねぇのか」
「うん」
「そうか」
それだけだった。
否定も、肯定もない。
ただ、受け入れただけの返事。
それで十分だった。
クチナシは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
夜が来る。
焚き火の火が小さく揺れる。
ぱち、と音が鳴る。
もう驚かない。
その音は、ただの音だと分かっている。
横になる。
地面の硬さにも、もう慣れている。
仲間たちの気配が、近くにある。
ネリネの寝息。
アスモデウスの微かな笑い声。
ヴァレフォルが寝返りを打つ音。
ナベリウスが低く鼻を鳴らす気配。
そして。
少し離れた場所に、ヘルハウンドの背中。
いつも通り、起きている。
見張り。
何も変わらない。
そのはずなのに。
胸の奥が、少しだけざわついていた。
目を閉じる。
意識が、ゆっくり沈む。
夢を見ていた気がした。
はっきりとは分からない。
でも、何かがあった。
白い手。
細い指。
すぐ近く。
触れそうで、触れない距離。
当たり前みたいに隣にいる気配。
温度。
声。
何かを言われた気がする。
でも。
思い出せない。
顔も、名前も、分からない。
なのに。
胸の奥だけが、少し痛む。
「……なんで」
小さく呟く。
理由が分からない。
何も失っていないはずなのに。
失ったみたいな感覚だけが残る。
おかしい。
でも、消えない。
喉が動く。
「……だ」
声が出かけて、止まる。
名前だったのかもしれない。
違うかもしれない。
自分でも分からない。
クチナシは目を開けた。
焚き火の向こう。
ヘルハウンドの背中がある。
変わらない位置。
変わらない距離。
そこにいる。
それを見た瞬間。
胸の奥のざわつきが、少しだけ静まった。
「……なんでもない」
誰にも聞こえない声で言う。
そのまま、もう一度目を閉じる。
今度は、何も見なかった。
ただ、静かな夜が続いていた。
残すと決めたものは、綺麗な形では残らない。
乾いて、歪んで、意味を失っていく。
それでも。
捨てなかったものは、確かにそこにある。
思い出せない誰か。
言えなかった言葉。
届かなかった手。
それらは、形を変えて残る。
理由にならなくても。
名前を持たなくても。
それでも、消えない。
選ばなかったものではなく、
選んだ結果として残ったものだから。
それが、次に進むための重さになる。




