第12話 自分のことだけではなく
翌週の金曜日。暦は11月に入り、ゆっくりと冬の気配が忍び寄ってくる。出口さんはネイビーのセットアップの上にベージュのコートを羽織り、先週よりも少し着ぶくれた格好で現れた。18時半になっていた。
「いらっしゃい」
「いらっしゃいませ」
「こんばんは〜」
金曜日は休日前日ということと、保さんファンクラブの活動からの流れで、その曜日の来店が習慣にありつつあるのかも知れない。
出口さんはコートを壁際のハンガーに掛けて、保さんの横に腰を降ろした。
「今日も晩ごはんは、ちゃんと食べた?」
保さんの問いに、出口さんは「うん」と満面の笑みを浮かべた。
「今日はちょっと奮発して、ボストンでデミグラスハンバーグ。美味しかった!」
「あっこのハンバーグ美味しいよね。ぼくもたまに行くわ」
お兄ちゃんと那津も、ランチで行くことがあるお店である。本店は大阪メトロ御堂筋線昭和町の駅前にあり、大阪府内でいくつかの店舗を展開している。
出口さんが食べたデミグラスハンバーグは、いちばんお手頃にいただくことができるメニューで、もちろん絶品なのだが、ボストンが名物としているのは、煮込みスープハンバーグだ。
和と洋が融合した透明感のあるブラウンのスープで、ことことと丁寧に煮込まれたハンバーグは、ふっくらと仕上がっていて、自慢の一品だと頷ける美味なのである。
「出口、今日はウィスキーどうする? コークハイするか?」
お兄ちゃんの女装は今日も完璧だ。ウィッグは目が痛くなるほどのレモンイエロー。ワンピースはネイビーと草色の細い縦ストライプだ。それをネイビーのエプロンが中和している。
「今日はジンジャーエールで割ってみたいな」
「オッケー。ちゃんとなんか食いながら飲むんやで。今日もなっちゃんの惣菜は美味いから」
「うん、ありがとう」
出口さんは黒板に視線を移した。今日のお惣菜は、さつまいものレモン煮、にんじんしりしり、ツナと白菜のくったり煮だ。
にんじんしりしりは沖縄の郷土料理である。沖縄のご家庭には、しりしり専用のおろし器が常備されているなんて言われている。
このしりしり器は一般的な千切り用のおろし器とは違い、切り口がやや甘めになっていることで、人参の断面がぎざぎざになるのだ。そうなることで調味料などが馴染みやすくなるそうだ。那津は持っていないので、千切りのおろし器で代用している。
千切りにした人参をごま油で炒め、しんなりしたら日本酒とお塩で味付けをして、削り節を混ぜ込み、最後に溶き卵でとじる。
にんじんしりしりも様々なレシピがあり、中には味付けはお塩だけなんてものもある。だが那津としては旬の人参の甘さを引き立たせるために、少量の日本酒と削り節を使っている。お酒にも合う味になっていると思う。
白菜も旬になり、葉がみちみちに詰まっている。それをだし汁で、時間を掛けてくたくたになるまで煮込んだ。日本酒とみりん、薄口醤油で味を整えて、最後にツナをオイルごと入れる。オイルにもツナの旨味が滲み出ているので、特に煮物のときには使わない手はない。
小鉢に盛り付けてから、がりがりと粗挽き黒こしょうを散らす。ぴりっとしたアクセントで、ますますお酒に合う一品になるのだ。
出口さんが頼んだのは、さつまいものレモン煮である。輪切りにしたさつまいもをお水から火を入れ、お砂糖とたっぷりのレモン汁を加えてことことと煮る。さつまいものしっとりとした甘さとレモンの爽やかな酸味が融合した一品である。
どちらかというと、スイーツに近いだろうか。だが那津はウィスキーのほろ苦さと合うと思っていて、さつまいもが出回ると作りたくなるのだ。今日も艶やかに仕上がった。
「あ、ジンジャーエール割りも美味しい。これ、えっと確か、ジンジャーハイって言うんやっけ?」
「そうそう。これに柑橘果汁混ぜたらマミー・テイラーってカクテルになるんや。レモン果汁常備しとるから、今度よかったらそれもな」
「うん」
出口さんは嬉しそうだ。もしかしたら、まだほんの少しだけ、お兄ちゃんに気持ちが残っているのかも知れない。だがそれは当たり前のことだ。簡単に吹っ切れるのなら、忘れられるのなら、人は傷ついたりしない。
「あのね、あれから、元ちゃんと姫ちゃんとグループ作って、深ちゃんの様子とかね、聞いてみたんよ。もうね、やっぱり松比良くんとが決定的にあかんくなったっていうのもショックやったけど、あたしにやっぱり裏切られたって思ってるって。でもね、でも」
出口さんは柔らかな笑みを浮かべて、言った。
「深ちゃんが自分のことしか考えてへんてことを、思い知らされたって」
「ああ……」
お兄ちゃんが嘆息する。きっとお兄ちゃんは、あのときの出口さんの言葉を覚えているのだ。もちろん那津も。
そう、深川さんの思いのあり方が決定的になったのは、出口さんの言葉だった。それは出口さんが、心の底からお兄ちゃんを思っている、いたからこそ、出たものだったのだから。




