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悪役令嬢ですが、泣き落としには法と魔法で対処します  作者: ちわいぬ
第8章 薔薇と王冠編(ルーカス/レナート/クラリス)

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第387話 海「ロウ」

夜の海は黒かった。


空と海の境目がない。

星の光が、水面の上で割れているだけだ。


波はまだ荒い。


落ちた衝撃で、肺に残っていた空気が一度全部抜けた。

塩水が喉に入り、焼けるように痛む。


ロウは必死に息を吸った。


(……沈む)


体が重い。


服が水を吸っている。

靴も重い。


腕を動かす。

水がまとわりつく。


波が横から叩く。


冷たい。


骨まで冷える冷たさだった。


(……だめだ)


頭のどこかが静かに言う。


海は、人の場所じゃない。


その時だった。


海の下で――


何かが動いた。



突き上げる力。


水が、下から持ち上がる。


波とは違う。

うねりとも違う。


下から、押す。


ロウの体が一瞬浮いた。


水面に押し上げられる。


息が入る。


咳き込む。


また波が来る。


だが沈まない。


また、下から押し上げられる。


(……何だ)


海の底。


見えない場所。


そこから、何かが触れている。


手ではない。


魔物でもない。


もっと広い、圧のようなもの。


水の流れそのものが、

ロウを運んでいる。



ロウは必死に腕を動かした。


泳ぐというより、

沈まないようにするだけだ。


波はまだ高い。


だが、

流れがある。


横ではない。


どこかへ運ばれている。


岸。


そんな気がした。


(……クラリス)


頭に浮かぶ。


白い髪。


落ちる瞬間。


波。


見えなくなった。


(無事か)


声は出ない。


息を使えない。


腕が重い。


足の感覚が鈍い。


体温が落ちている。


分かる。


医者じゃなくても分かる。


(……まだ)


意識が遠い。


暗くなる。


それでも、下から押す力は続いていた。


沈ませない。


流す。


どこかへ。



波が変わる。


荒さが違う。


岩に当たる音が混じる。


ロウの体が横へ流される。


次の波。


砂が足に触れた。


(……岸)


次の波で、体が転がる。


砂。


硬い。


咳き込む。


水を吐く。


また波が来る。


だが今度は、

体を引き戻さない。


砂浜だった。



ロウはしばらく動けなかった。


横向きのまま、

ただ息をする。


肺が痛い。


喉が焼ける。


体が震える。


寒い。


どれくらい時間が経ったのか分からない。


空はまだ暗い。


夜は終わっていない。



ロウはゆっくり顔を上げた。


砂浜。


波の音。


風。


海の匂い。


そして――


少し先に、

何かが倒れている。


金色。


月明かりで光る。


(……)


ロウは這うように近づいた。


人だ。


金髪。


レオンハルトだった。



ロウは歯を食いしばった。


体が動かない。


だが波が近い。


このままだとまた海に引かれる。


「……っ」


声が出ない。


それでも腕を伸ばす。


レオンハルトの肩を掴む。


重い。


王太子は背が高い。

体もある。


砂の上で、

少しずつ引きずる。


一歩。


二歩。


波が届かないところまで。


そこで力が切れた。


ロウはその場に崩れ落ちる。



しばらく息を整える。


胸が痛い。


指が震える。


それでも顔を上げる。


周囲を見る。


浜。


岩。


暗い海。


誰もいない。


「……クラリス」


声はほとんど出なかった。


目で探す。


波打ち際。


岩の影。


何もない。


白い髪は見えない。



ロウはもう一度海を見る。


暗い。


黒い。


波はまだ荒い。


クラリスは――


いない。


ロウの胸が締めつけられる。


(……無事でいろ)


祈りでも願いでもない。


ただの言葉。


ロウは砂の上に手をつき、

もう一度海を見た。


波は何も答えない。


遠くで、

夜の海が揺れているだけだった。

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