第387話 海「ロウ」
夜の海は黒かった。
空と海の境目がない。
星の光が、水面の上で割れているだけだ。
波はまだ荒い。
落ちた衝撃で、肺に残っていた空気が一度全部抜けた。
塩水が喉に入り、焼けるように痛む。
ロウは必死に息を吸った。
(……沈む)
体が重い。
服が水を吸っている。
靴も重い。
腕を動かす。
水がまとわりつく。
波が横から叩く。
冷たい。
骨まで冷える冷たさだった。
(……だめだ)
頭のどこかが静かに言う。
海は、人の場所じゃない。
その時だった。
海の下で――
何かが動いた。
◇
突き上げる力。
水が、下から持ち上がる。
波とは違う。
うねりとも違う。
下から、押す。
ロウの体が一瞬浮いた。
水面に押し上げられる。
息が入る。
咳き込む。
また波が来る。
だが沈まない。
また、下から押し上げられる。
(……何だ)
海の底。
見えない場所。
そこから、何かが触れている。
手ではない。
魔物でもない。
もっと広い、圧のようなもの。
水の流れそのものが、
ロウを運んでいる。
◇
ロウは必死に腕を動かした。
泳ぐというより、
沈まないようにするだけだ。
波はまだ高い。
だが、
流れがある。
横ではない。
どこかへ運ばれている。
岸。
そんな気がした。
(……クラリス)
頭に浮かぶ。
白い髪。
落ちる瞬間。
波。
見えなくなった。
(無事か)
声は出ない。
息を使えない。
腕が重い。
足の感覚が鈍い。
体温が落ちている。
分かる。
医者じゃなくても分かる。
(……まだ)
意識が遠い。
暗くなる。
それでも、下から押す力は続いていた。
沈ませない。
流す。
どこかへ。
◇
波が変わる。
荒さが違う。
岩に当たる音が混じる。
ロウの体が横へ流される。
次の波。
砂が足に触れた。
(……岸)
次の波で、体が転がる。
砂。
硬い。
咳き込む。
水を吐く。
また波が来る。
だが今度は、
体を引き戻さない。
砂浜だった。
◇
ロウはしばらく動けなかった。
横向きのまま、
ただ息をする。
肺が痛い。
喉が焼ける。
体が震える。
寒い。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
空はまだ暗い。
夜は終わっていない。
◇
ロウはゆっくり顔を上げた。
砂浜。
波の音。
風。
海の匂い。
そして――
少し先に、
何かが倒れている。
金色。
月明かりで光る。
(……)
ロウは這うように近づいた。
人だ。
金髪。
レオンハルトだった。
◇
ロウは歯を食いしばった。
体が動かない。
だが波が近い。
このままだとまた海に引かれる。
「……っ」
声が出ない。
それでも腕を伸ばす。
レオンハルトの肩を掴む。
重い。
王太子は背が高い。
体もある。
砂の上で、
少しずつ引きずる。
一歩。
二歩。
波が届かないところまで。
そこで力が切れた。
ロウはその場に崩れ落ちる。
◇
しばらく息を整える。
胸が痛い。
指が震える。
それでも顔を上げる。
周囲を見る。
浜。
岩。
暗い海。
誰もいない。
「……クラリス」
声はほとんど出なかった。
目で探す。
波打ち際。
岩の影。
何もない。
白い髪は見えない。
◇
ロウはもう一度海を見る。
暗い。
黒い。
波はまだ荒い。
クラリスは――
いない。
ロウの胸が締めつけられる。
(……無事でいろ)
祈りでも願いでもない。
ただの言葉。
ロウは砂の上に手をつき、
もう一度海を見た。
波は何も答えない。
遠くで、
夜の海が揺れているだけだった。




