第386話 アルヴェーン公爵邸「手紙」
夜。
アルヴェーン公爵邸は、灯りが落とされていた。
社交の家ではない。
軍の家だ。
夜は静かであるべきだと、
この家では昔から決まっている。
廊下の足音は抑えられ、
扉は静かに閉じられる。
だが今夜は、
その静けさにわずかな揺れがあった。
◇
執務室の扉が叩かれる。
公爵は顔を上げた。
書類の束。
机の上に並ぶ軍務報告。
すべて通常の夜だ。
「入れ」
扉が開く。
家宰が一礼する。
その後ろに、
黒曜宮の使者が立っていた。
公爵の目が細くなる。
夜の黒曜宮使者。
良い知らせではない。
使者は静かに言う。
「黒曜宮より」
封書を差し出す。
封蝋。
アルヴェーン家の紋章。
公爵は手を止めた。
これは黒曜宮の書簡ではない。
自分の家の封蝋だ。
「……娘か」
使者は答えない。
答える立場ではない。
公爵は封を切った。
◇
紙は短い。
クラリスの字だ。
整っている。
震えていない。
娘らしい、
真っ直ぐな字。
公爵は声に出さず読む。
――父上へ。
――海へ出ます。
――国益の任です。
――境界は曖昧な場所ほど必要です。
公爵の指が、
紙の端を少しだけ強く押さえた。
クラリスの理屈だ。
小さい頃から変わらない。
正しい方を選ぶ。
それがこの娘だ。
続きを読む。
――ですが、もし。
そこから先は短かった。
――何かが起きる前に、
――娘として伝えます。
――私は必ず帰ります。
――それでももし帰れなかったら。
公爵の目が止まる。
次の行。
――父上の娘でいられたことを、
――誇りに思います。
◇
沈黙。
部屋には誰も声を出さない。
使者も。
家宰も。
公爵も。
しばらくして、
公爵は紙を畳んだ。
丁寧に。
乱暴には扱わない。
そして机の引き出しを開け、
そこへ入れる。
鍵は掛けない。
必要な時はすぐ取り出す。
それが軍人の癖だ。
◇
家宰が低く言う。
「お嬢様は――」
公爵は手を上げる。
言わせない。
「報せは」
使者が答える。
「海上にて事故」
「王太子殿下」
「聖女殿下」
「原種」
「三名落水」
部屋の空気が止まる。
だが公爵の顔は変わらない。
軍人は、
最悪を想定して生きる。
想定していることは、
驚かない。
◇
公爵はゆっくり立ち上がる。
窓へ歩く。
外は夜。
遠い海は見えない。
だが風の匂いは分かる。
海風だ。
「捜索は」
「海軍船が即時」
使者が答える。
公爵は短く頷く。
「……ヴァルディエか」
それなら遅れない。
海軍は海を知っている。
◇
家宰が言う。
「兵を出しますか」
公爵は首を振る。
「海だ」
陸軍は無力だ。
出しても邪魔になる。
それは軍人として理解している。
理解しているが。
指が、
窓枠をわずかに握った。
ほんの一瞬だけ。
◇
公爵は振り返る。
声は平静だ。
「報告は」
「黒曜宮へ」
「王家へ」
「海軍へ」
順序を言う。
軍の順序。
感情は挟まない。
家宰が頷く。
◇
使者が去る。
扉が閉まる。
部屋には公爵だけが残る。
机へ戻る。
引き出しを開ける。
クラリスの手紙。
もう一度だけ読む。
――必ず帰ります。
公爵は紙を見つめた。
そして低く言う。
「帰れ」
命令だった。
父の言葉ではない。
軍人の命令。
アルヴェーン公爵の命令。
「生きて帰れ」
夜は静かだ。
だが遠い海では、
まだ嵐が続いていた。




