第385話 黒曜宮「報せ」
夜。
黒曜宮は静かだった。
静かであること自体が、
ここでは秩序だった。
回廊の灯りは一定。
足音は抑えられ、
声は低い。
騒がないことが、
この宮の規則だった。
◇
ルーカスは執務机の前に立っていた。
座っていない。
座ると判断が遅れる気がした。
机の上には航路図。
王船。
海軍船。
港までの距離。
すでに出航して二日。
海は順調なはずだった。
その時。
扉が叩かれる。
一度。
二度。
三度。
規程の回数。
クロイツだ。
「入れ」
扉が開く。
クロイツは入室すると同時に言った。
「急報です」
封書を差し出す。
海軍旗の封蝋。
ルーカスは受け取った。
読む。
数行。
それだけ。
だが、空気が変わる。
◇
落水。
王太子。
境界神の聖女。
原種。
三名。
海上。
捜索中。
◇
ルーカスは紙を机に置いた。
顔は変わらない。
変わらないが、
沈黙が重くなる。
クロイツが言う。
「海軍船より直接です」
「王船ではありません」
「……正しい順序だ」
ルーカスは低く言った。
王船が報せる前に、
海軍が動いた。
それはつまり。
事故が起きた瞬間、
海軍が事態を理解したということだ。
ルーカスはもう一度紙を見る。
三名。
王太子。
クラリス。
ロウ。
視線が、そこに止まる。
◇
ルーカスは椅子に座らない。
立ったまま言う。
「生存の可能性」
クロイツが即答する。
「海況によります」
「現在、波高三」
嵐ではない。
だが人には厳しい。
クロイツは続ける。
「海軍船が即時捜索」
「灯火増設」
「王船も捜索に参加」
ルーカスは短く頷いた。
「……レナートか」
クロイツは否定しない。
海軍がそこまで早く動く理由。
医師として乗船している伯爵家の子息。
◇
沈黙。
長くはない。
だが、決断には十分だった。
ルーカスは言う。
「記録は」
「事故」
クロイツが頷く。
「現時点では」
「当然だ」
ルーカスの声は静かだ。
だが硬い。
「薔薇の線は」
「まだ出ていません」
クロイツが言う。
「だからこそ」
ルーカスが続けた。
「出すな」
事故は事故。
そう扱う。
今は。
今は、それが最善だ。
◇
ルーカスは窓へ歩く。
黒曜宮から海は見えない。
それでも視線は港の方へ向く。
クラリス。
ロウ。
レオンハルト。
三人の影が頭をよぎる。
だが感情は置く。
置かなければ、線が歪む。
ルーカスは言う。
「神殿へ」
クロイツが答える。
「灰の司祭へ連絡済み」
早い。
ルーカスはわずかに息を吐く。
◇
クロイツが次の書類を差し出す。
「もう一件」
ルーカスは受け取る。
封蝋。
アルヴェーン公爵家。
ルーカスの眉がわずかに動く。
「これは」
「本日届いたものです」
クロイツが言う。
「聖女殿下から、公爵家宛」
ルーカスは封を見つめた。
まだ開かれていない。
クラリスが書いた手紙。
出航前。
◇
ルーカスはしばらく何も言わない。
やがて、低く言った。
「……届けろ」
クロイツが確認する。
「今夜ですか」
「今夜だ」
ルーカスは視線を上げた。
「父親は、先に知るべきだ」
クロイツが一礼する。
「承知しました」
扉が閉まる。
◇
黒曜宮は、また静かになる。
だが静けさは変わった。
沈黙の種類が違う。
嵐の前ではない。
嵐の中の静けさ。
ルーカスは窓の外を見た。
見えない海へ。
そして、短く言った。
「……生きていろ」
命令でも祈りでもない。
ただの言葉だった。
黒曜宮の夜は、
まだ終わらない。




