ポピーの新しい人生
ポピー目線です^^
王太子妃のマーガレット殿下のおかげで、私に子どもを産ませた男が逮捕された。そして私は、妃殿下の幼馴染みで親友だというリロイさんが店長を務めるカフェで雇ってもらえることになった。
忌まわしい思い出が詰まったシェルターを出て、カフェの近くのアパートで息子のカエラスと二人暮らし。カエラスがまだ小さいから、泣き声なんかで迷惑をかけてしまうんじゃないかと心配したけれど、私まで泣きそうになりながら「うるさくてすみません」と謝ったら、住人はみんな「気にしないで。ここは老人が多いから、みんな耳が遠いし大丈夫。それに、赤ちゃんが来てくれたのが嬉しくってねぇ。泣き声を聞くと若返るような気分だよ」と言ってくれた。仕事で遅くなることもある私のために、ご飯のお裾分けをしてくれたり、カエラスが熱を出して仕事場に連れて行けないときには預かってくれたり、いい人ばかり。
六歳から母の再婚相手に暴力を振るわれて育ち、十三歳で耐えきれなくなって家から逃げた。逃げた先のシェルターでは伯爵に好きなようにされて十六歳で彼の子どもを産み、ボロボロだった私の人生も、少しずつ上向き始めているのかもしれない。
リロイさんは、ちょっと目つきが悪い。妃殿下には「信頼できる人」だと言われたし、カエラスや他のスタッフの子どものためにカフェでシッターを雇ってくれたりと働く母親に理解があるし、経営者の息子なのに偉ぶったところもないし、私がお客さんに「お姉さん、どこに住んでるの?」なんて絡まれてたら助けてくれたり。多分、いい人だ。でも…男性ということもあってなんだか怖い。カウンターで隣に立つとき、仕事を教えてもらうとき、何となく距離をとってしまう。
彼は利き腕だった右手を怪我して使えないらしく、左腕一本で仕事をこなしている。利き手ではない左手でコーヒーを運んだり、注文をメモしたり。
そう、注文をメモ。
利き手が使えるのに、私にはそれができない。家の仕事だ子守だとこき使われ、学校にはほんの少ししか通えなかったから。シェルターでも読み書きの授業はあったけど、サルムの相手をしている子たちは教えてもらえなかった。たぶん、手紙を書かれたりするとまずかったからだ。
…だから、注文をとるときは、全部頭で記憶して厨房に伝える。記憶力がいいほうで良かった。
だけど…
「これちょうだい」
そうやって、商品名ではなくてメニュー表を指差して注文されたら、なす術がない。
「お嬢さん、聞こえてる?これ、ホットでお願いね」
「あ、あの…」
どうしよう。字が読めないなんて、恥ずかしくて言えない。困っていたら、通りかかったリロイさんがメニュー表にぐっと顔を近づけて睨みつける。
「うーん…カフェモカ…ですね?」
お客さんは笑い出す。
「リロイ、そんなに目が悪いなら眼鏡をかければいいじゃないか」
「ですね」
「お嬢さんもリロイと同じで目が悪いのかな?」
「はあ…」
リロイさんは「カフェモカひとつ、ホットでね」と私に言って、別のお客さんの注文を取りに行った。場を和ませながら、助けてくれた…
ちゃんとお礼を言わなきゃ。ちょっと怖いとか言ってられない。上司なんだから。
「リロイさん!あの…さっきはありがとうございました」
「どういたしまして。困ったときは遠慮せずに呼んで」
「私、字を読むことすらできないんです。こんなのでお店の迷惑にならないでしょうか」
「大丈夫」とリロイさんは微笑んでくれる。笑顔がすごく柔らかい。
「メグ…あ、妃殿下からポピーさんの事情は聞いていたからわかってる。それに、ポピーさんは接客態度がいいし真面目だから、すごく助かってるんだよ。備品の整理整頓とか掃除も率先してやってくれるから、テーブルもカウンターもいつもきれいな状態が保たれてるし。うちの店に来てくれてありがとう」
そんなふうに褒めてもらえるなんて、初めてだ。「こんなことしかできないから、せめてきちんとやろう」と細々した仕事をやっていたのを、ちゃんと見ててくれたなんて。嬉しい。
「他にも何か困ったことがあったら、何でも相談して」
「あの!じゃあ…」
「うん?」
「字を教えてもらえませんか?時間がある時、たまにでもいいので。とにかくメニューくらいは読めるようになりたいんです!」
どうしてこんなことを頼む勇気が出たのか自分でも分からない。字が読めなくてあんなに困ったのが初めてだからか、リロイさんの優しい笑顔に安心したのかもしれない。
「もちろん、喜んで」
休憩中やお店が終わったあと、時間をとって字を教えてもらう。「僕はいいけど、休憩時間はちゃんと休んでもらわないと」と言われたが、カエラスのために早く帰りたいので、休憩を削るほうがいいのだ。リロイさんの教え方が上手いのか、必要に迫られているからなのか、シェルターで教えてもらっていたときよりも頭に入る。
「リロイさんに教えてもらって、メニューは自信を持って読めるようになりました。ありがとうございます」
「よかった。書くのも上手になってきてるよ」
「読み書きができるようになるなんて、嬉しいです」
リロイさんは休憩中やバックヤードでは眼鏡だ。あのお客さんに言われたようにかなり視力が低いらしい。眼鏡をかけていると、笑顔以外もすごく柔らかい表情だから、目つきが悪いのは目が悪いせいだったんだ。
「接客業だから、極力眼鏡じゃないほうがいいと父さん…あ、オーナーに言われて」
「仕事に支障をきたしてるなら、かけたほうがいいと思います。それに…眼鏡姿の方が優しそうで素敵です。何だかそっちのほうが話しかけやすいですし」
「…ありがとう。そうだね、じゃあかけるようにしようかな」
字をマスターし始めた私に、リロイさんは「計算も勉強してみる?」と提案してくれた。一桁の簡単な足し算引き算はできるけれど、数が大きくなったら難しいし、掛け算や割り算は全然わからない。できるだろうか。不安そうな顔をした私に、リロイさんは「無理にとは言わないけど、計算ができれば、もしこのカフェ以外で働くことになっても役立つよ」と言ってくれる。リロイさんの優しい口調は、身体に染み込むみたいな説得力がある。私は計算も教えてもらうことにした。
カフェで働き始めてしばらく。隣に住むネモフィラおばあちゃんに「おはよう、おばあちゃん」と挨拶すると、彼女は挨拶ではなくて「ポピー、最近綺麗になったね」と返してきた。
「そう?」
「ここに来たときはカエラスと二人、緊張して不安そうでビクビクしているというかね。母親と子どもっていうよりは子どもが二人いるように見えたもんだよ。けど最近あなたはすっかり顔つきが落ち着いて、綺麗な母親になったわ」
「落ち着いたのはきっと、ネモフィラおばあちゃんとか、ここのみんなが優しいから」
「それだけじゃないと思うけどねえ、綺麗になった理由は」とおばあちゃんは目をキラリとさせる。
「いい人でもできたんじゃないの?肌のハリと目の輝きが尋常じゃないわよ」
「まさか。恋してる余裕なんてないよ。仕事を覚えて、カエラスと二人で生きていくのに精一杯」
「恋ってのはね、余裕があるとかないとか関係なく始まるものなんだよ。こう見えて私だって若いときはね…」
私が、恋?
リロイさんの顔が頭に浮かんで、「男の人に親切にされるのが初めてだから、そんな気がするだけ」と考えを打ち消した。私は字を読むのもやっとの子持ちの貧乏娘で、彼はお客さんからも従業員からも好かれているお金持ちの元騎士。釣り合うはずがない。
そもそも私、恋なんてしたこともないのに。本当の父以外は、怖い男性しか知らない。
仕事中リロイさんと目が合うたびに、ネモフィラおばあちゃんの言葉が頭に浮かんで落ち着かない。あまりに態度がおかしかったのか、「僕の顔に何かついてる?それか髪型が変?寝癖ついてる?」なんて聞かれてしまった。
「いいえ、違います」
「そう…あ、ところで今日はちょっとやっておきたい仕事があるから、勉強は見てあげられないんだ。ごめんね」
「わかりました」
そっか…寂しい。今日も一緒に勉強できると思っていたのに。お店を閉めて掃除を終えた後、店内のテーブルのひとつにノートを広げて何か考え込んでいるリロイさんに「お疲れ様でした」と声をかける。
「お疲れ様。また明日」
「はい…あの、それは何ですか?」
「店で出す春っぽいお菓子を新しく考えないといけないんだけど、難しくてね。これまではお菓子作りが得意な副店長に任せてたんだけど、彼女が出産のために休んでるから」
そういってリロイさんは大きな息を吐いた。
「ポピーさんからも、意見だけでも聞かせてくれたら嬉しい。もうかなり煮詰まってて。そもそも僕、甘いものあんまり好きじゃないんだよね」
「そんな、私なんかが…たいそうなこと言えないですし」
「どんなものが食べたい、とか、そういうことでいいんだよ。若い女の子…お客さん目線で」
「時間があったら、ちょっと家で考えてみて」と頼まれて、私はカエラスを寝かしつけた後、リロイさんからもらった紙に向かった。




