第20話 ペンと剣
月曜日の昼休み。
春のうららかな陽射しが降り注ぐ中庭のベンチで、坂下は一人、膝の上に広げた弁当箱を見つめていた。
彩り豊かに詰められたおかずは、いつもなら食欲をそそるはずなのだが、今日の坂下にはただの色の塊にしか見えなかった。
箸を持った右手は宙で止まったままで、もう5分以上、一口も食べていない。
坂下「(……どうすればいいんだろう)」
彼女の脳内を占めているのは、ただ一つ。
今週の土曜日に迫った、百山との練習試合のことだ。
「__オーホッホッホッホ!!」
突然、中庭の平和な空気を切り裂くような、高く澄んだ笑い声が響き渡った。
ビクッとして坂下が顔を上げると、そこには腕を組み、自信に満ちた笑みを浮かべる西園寺 麗の姿があった。
縦巻きロールの髪が、春風に揺れてサラサラと音を立てている。
西園寺「見つけましたわよ、坂下さん! 新入生代表ともあろうお方が、このような場所でひっそりとお弁当を……って、あら?」
勢いよく捲し立てていた西園寺だったが、坂下の顔を見るなり、ピタリと動きを止めた。
西園寺「……随分と思い悩んでいるお顔ですけれど。どうかなさいましたの? お弁当、全く減っていませんわよ」
坂下「西園寺さん……」
普段なら、彼女のペースに乗せられて適当にあしらうか、軽く言い返すところだが、今日の坂下にはその気力すらなかった。
ふう、と小さくため息をつき、箸を弁当箱の隅に置く。
坂下「実は……最近、セパタクローっていうスポーツの部活を立ち上げたばかりなんだけど……。今週の土曜日に、さっそく練習試合を組まされてしまって」
西園寺「セパタクロー? ああ、東南アジアの、足を使うバレーボールのような競技でしたわね。……部活の立ち上げは結構なことですけれど、それが何か問題なのかしら? 試合が決まったのなら、喜ばしいことではありませんの」
西園寺が不思議そうに小首を傾げる。
坂下は自嘲気味に笑った。
坂下「問題だらけよ。部員は私を含めて3人しかいない上に、私以外の2人は……まだルールすらよく知らない、完全な未経験者なの。私は海外にいた時にやっていたから経験はあるんだけど……」
西園寺「なるほど。未経験者を2人抱えての、初めての試合。……でも、相手もその力量に合わせた学校を選んだのでしょう?」
坂下「……相手は、全国クラスの強豪校なの」
西園寺「___は?」
お嬢様らしからぬ声が、西園寺の口から漏れた。
坂下「圧倒的な実力差がある。恐らく、大人と子供以上の差が出るはず。だから、どうやってこの1週間で彼らを試合に出せるレベルにすればいいか……全く答えが見つからなくて」
坂下が再び俯くと、西園寺は静かにベンチの隣に腰を下ろした。
そして、鋭い視線で坂下の横顔を見据える。
西園寺「……勝負は目に見えている、ということね。それで? あなたは、負けるのが怖いのかしら。新入生代表としてのプライドに傷がつくのが?」
挑発するような響きを含んだ問いかけ。
だが、坂下はゆっくりと首を横に振った。
坂下「負けることはいいの。それは覚悟してる。……でも、大惨敗して、手も足も出なくて……もし、そのせいで二人が『セパタクロー』というスポーツ自体を嫌いになってしまったらと思うと。……そのことが、怖くて」
絞り出すような声だった。
坂下の言葉には、自身の好きな競技への深い愛情と、部員である染谷と寺田への責任感が滲み出ていた。自分が巻き込んでしまったばかりに、彼らに惨めな思いをさせてしまうのではないか、という恐れ。
その言葉を聞いた西園寺は、ふっと目を伏せ、やがて静かに口を開いた。
西園寺「……以前、わたくしは剣道部で全国を目指す、と言いましたわよね」
坂下「え? ええ……」
唐突な話題転換に、坂下が顔を上げる。
西園寺「実は、今の剣道部に、女子部員はわたくし一人しかおりませんの」
坂下「えっ……一人?」
西園寺「ええ。ですから、日々の練習相手は必然的に男子生徒になりますわ。……坂下さん。男女の筋力差、体格差というものがどれほど残酷か、お分かりになります?」
西園寺の言葉は淡々としていたが、その奥には確かな熱がこもっていた。
西園寺「毎日、毎日……竹刀を交えるたびに、圧倒的な力の差を思い知らされていますわ。弾き飛ばされ、打ち据えられ、床に転がされる日々ですの」
坂下「西園寺さん……」
西園寺「ですが__わたくしは、ただの一度も『剣道』を嫌いになったことなどありませんわ」
西園寺は凛と胸を張り、青空を見上げた。
西園寺「わたくしの祖父は、それは見事な剣の使い手でした。幼い頃、道場で汗を流す祖父の背中に感銘を受けて……わたくしもあのように気高く、強くなりたいと心から思いましたの」
その横顔は、誰よりも誇り高く、美しかった。
西園寺「『ペンは剣よりも強し』という言葉がありますわね。でも、わたくしはどちらかを選ぶつもりはありませんの。ペンでもトップを取り、剣でもトップを取る。どちらも強くあろうとすることこそが、わたくしの歩む道ですわ」
ビシッと坂下を指差し、西園寺は力強く告げた。
西園寺「わたくしは、常に前だけを見ています。……3人で部を立ち上げるほど、あなたの仲間も生半可な気持ちで始めたわけではないのでしょう? であれば、たかが1度や2度の惨敗で立ち尽くすほど、彼らは柔なのかしら?」
「___あ」
坂下の脳裏に、二人の顔が浮かんだ。
「……ほう? 実戦か。血が騒ぐな」と、どこまでも不敵に笑う染谷。
想い人の為ならば、日々の過酷な筋トレも苦にしない寺田。
(……柔なわけ、ないか)
あんな得体の知れない自信の塊みたいな男と、あんな不純な動機で努力を続けられる男が、一度ボコボコにされたくらいで心が折れるはずがない。
……何を私一人で、勝手に彼らの限界を決めていたんだろう。
坂下「ふふっ……」
自然と、坂下の口から笑みがこぼれた。
憑き物が落ちたように、彼女の顔から陰りが消え去っていた。
西園寺「……あら。わたくしのライバルたるあなたが、やっといつもの顔に戻りましたわね」
坂下「……ありがとう、西園寺さん。なんだか、目が覚めた気がする」
坂下は姿勢を正し、膝の上の弁当箱を取り上げた。
止まっていた時間が動き出したように、卵焼きを箸でつまみ、口に運ぶ。
坂下「美味しい……」
西園寺「当たり前ですわ。食事は万物の活力ですのよ。しっかりお食べなさい」
坂下はふと顔を上げ、立ち去ろうとする西園寺の背中に声をかけた。
坂下「ねえ、西園寺さん。……もしよかったら、一緒にお弁当食べない?」
西園寺「……へ?」
西園寺の足がピタリと止まる。
ゆっくりと振り返った彼女の顔は、先ほどの凛々しい表情から一転、鳩が豆鉄砲を食ったようにキョトンとしていた。
西園寺「わ、わたくしと!? ライバルであるこのわたくしと、一緒にお昼を食べるというんですの!?」
坂下「ええ。だめ、かしら?」
坂下が少し首を傾げて微笑むと、西園寺は慌ててコホンと咳払いをした。
そして、顔をほんのりと赤くしながら、ツンと顔を背ける。
西園寺「べ、別に……そこまでおっしゃるのなら、ご一緒して差し上げてもよろしくてよ!? ちょうど、中庭の空気が吸いたい気分でしたし!」
そう言って、西園寺は坂下の隣に、少しだけ距離を空けて座り直した。
春の柔らかな風が、二人を包み込む。
強豪校との無謀な戦いを前に、坂下の心には、もう一握りの迷いも残っていなかった。




