第22話 知らない教室、3つの名前
拍手の音が、教室の中に広がっていく。
思っていたよりも柔らかい音だった。
けれど、その音にどう反応すればいいのか分からず、わたしは少しだけ頭を下げたまま固まってしまう。
顔を上げるのが少し怖い。
どんな目で見られているのだろう。
変だと思われていないだろうか。
ちゃんと自己紹介になっていただろうか。
そんなことばかりが頭の中をぐるぐると回る。
「雪華さんの席はあちらです」
霧宮先生の声に、わたしはようやく顔を上げた。
先生が指し示したのは窓際から二列目の後ろ寄りの席だった。
「は、はい」
返事をして、わたしは鞄を抱え直す。
教壇の横から席へ向かうまでの短い距離が、やけに長く感じた。
歩くたびに、いくつもの視線が自分に向いている気がする。
実際に見られているのか、それともわたしがそう思い込んでいるだけなのかは分からない。
それでも、足元が少し頼りなくなった。
菊の花学園の制服。
首元のチョーカー。
小さく震える指先。
全部がわたしだけ違うもののように思えてしまう。
席の前に立ち、椅子を引く。
なるべく音を立てないように座ったつもりなのに、椅子の脚が床を擦る音が小さく響いた。
それだけで胸が跳ねる。
わたしが席に着くと、霧宮先生の声が教室に響いた。
「それでは、ホームルームを始めます」
先生は何かを話していたけれど、わたしの耳には残らなかった。
自己紹介で何か間違えていなかったか、変なことを言っていなかったかと、自分の言葉を頭の中で何度も繰り返す。
「そんなに固まってたら、昼まで持たないわよ」
ふいに、隣から声がした。
驚いて顔を向けると、隣の席の女の子がこちらを見ていた。
ふわりとした髪に整った目元。
可愛らしい顔立ちなのに、その表情にはどこか気の強さが滲んでいる。
「あ……す、すみません」
「謝るところじゃないでしょ、今の」
少し呆れたように言われて、わたしはさらに言葉に詰まる。
怒らせてしまったのだろうか。
そう思った瞬間、女の子は小さく息を吐いた。
「別に責めてるわけじゃないから。あんたが緊張してるの、見ればわかるし」
「……はい」
「あたしは七条愛理。分からないことあったら聞きなさい」
七条愛理さん。
名前を心の中で繰り返す。
その響きを覚えようとしていると、七条さんの視線がほんの一瞬だけ、わたしの首元で止まった。
見られた。
そう思った途端、指先が冷たくなる。
何か聞かれるかもしれない。
どうして着けているのかと、聞かれるかもしれない。
けれど、七条さんは何も言わなかった。
ただ、少しだけ声を落として、前を向いたまま言う。
「……まあ、困ったことがあったら言いなさい。先生に言いにくいことでも、多少なら聞くから」
「……え?」
思わず聞き返すと、七条さんはちらりとこちらを見る。
「何よ」
「い、いえ……ありがとうございます」
「別に。隣の席がずっと青い顔してたら、こっちまで落ち着かないだけ」
口調は少し強い。
けれど、不思議と怖くはなかった。
チョーカーに気づいたはずなのに、七条さんは何も聞かなかった。
それがどうしてなのかは分からない。
でも、何も聞かれなかったことが、今は少しだけありがたかった。
隣にいる七条さんの存在が、さっきより少しだけ教室の空気を近くしてくれた気がした。
しばらくして、チャイムが鳴り響く。
「では、これでホームルームを終わります。次の時間は文化祭の準備ですので、皆さん頑張りましょう」
そう言って、先生は一度教室を退出した。
1時間も経っていないはずなのに、途方もない時間を過ごしたような気分だった。
休み時間になると、1人の生徒が近づいて来た。
「初めまして、雪華雪さん」
「え、あ、は、初めまして」
「私はクラス委員長の真滝あかねと言います。以後、よろしくお願いします」
「こ、こちらこそ……よ、よろしくお願いします」
真滝さんが丁寧に頭を下げたので、わたしも慌てて頭を下げる。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。私達もかなり緊張していますから」
そうなんだ。
普通に話していたから、緊張しているのはわたしだけだと思っていた。
「皆さん、興味ないフリをしてますけど、内心は『爆美女来たー!』って喜んでいますから」
「ばく?……へぇ?」
「コホン、つまり、皆さん雪さんと話したいと思っているということです」
よく分からない部分もあったけれど、みんなも自分と同じように緊張している。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
「てなわけで、次の授業で皆さんを軽く紹介させてもらいますね」
「お、お願いします」
そう答えたものの、わたしは少し後悔することになった。
やがて次の時間を知らせるチャイムが鳴り、文化祭の準備が始まった。
真滝さんは宣言どおり、一人ひとりの前へわたしを連れていった。
名前、笑顔、それから「よろしくね」という言葉。
そのたびに頭を下げる。
名前を覚えようと何度も心の中で繰り返す。
けれど次の人が話しかけてくる頃には、もう最初の名前が遠くなっていた。
みんなが丁寧に名前を言ってくれるのに、すぐに曖昧になってしまったことが申し訳なかった。
「そうそう、雪華さんにも文化祭のお手伝いをしてもらいますね」
クラスメイトとの顔合わせが一通り終わった頃、真滝さんがそう言った。
「は、はい。わたしでよければ、何でもやります」
「では、一緒に作業をする方々を紹介しますね」
そう言って、教室の隅で1つの机を囲んでいる3人のもとへ案内される。
「ではまず、ツンデレの七条愛理さん」
「は?」
七条さんが低い声で返す。
けれど真滝さんは気にした様子もなく、隣へ視線を移した。
「そして、小動物系の川崎日和さん」
「ん……」
川崎さんは小さな声で返事をし、ぺこりと頭を下げた。
「最後に、ギャルの乃木瀬里奈さん」
「よっろしくー」
乃木さんは満面の笑みを浮かべ、こちらへピースを向けた。
「以上の4人で、文化祭で出すメニューを考えてもらいます」
真滝さんの声とともに、机の上へ資料が並べられていく。
今日一日だけで、わたしはたくさんの人と出会った。
七条愛理さん。
川崎日和さん。
乃木瀬里奈さん。
今日聞いたすべての名前を覚えられるかは、まだ分からない。
でも、この三人の名前だけは忘れない気がした。
知らない人ばかりだった教室に、3つだけ知っている名前ができた。




