第21話 ちゃんと自分の名前を
8月31日、金曜日。
その日、目を覚ました瞬間から、胸の奥が落ち着かなかった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光も、キッチンの方から聞こえる小さな物音も、いつもと同じはずだった。
けれど、今日だけは全部が少し違って見える。
今日から学校へ行く。
頭の中でそう呟いた途端、布団の中で指先に力が入った。
もう決まったことだ。
テストも受けた。面接も終えた。課題の読書感想文も、ちゃんと自分の言葉で書きあげた。
それでも、今日から本当にあの場所に通うのだと思うと、胸の奥がきゅっと縮こまる。
「……起きないと」
小さく呟いて、わたしは布団から身体を起こした。
隣に畳んで置いていた制服に目を向ける。
菊の花学園の制服。
ホーリー女子高等学校からの貸し出しはあったものの、自分に合うサイズがなかったため、いったんはこの制服のままで登校することとなった。
新しい生活が始まるのに、わたしはまだ過去の制服を着ている。
それはまるで、過去がわたしを逃さないようにも見えた。
でも、あと少しの辛抱だ。
あと少し……自分で何を言っているのかわからなかった。
たぶん、これは期待と不安が混ざった思いだ。
……そう思うことにした……。
ゆっくりと制服に着替えて、鏡の前に立つ。
ブレザーの襟を整え、スカートの裾を手で押さえる。
そこに映っているのは、制服を着せられている自分だった。
数回しか袖を通していないせいか、まだ不格好で少し大きかった。
学校へ行くわたし。
誰かに連れて行かれるのではなく、自分の足で教室へ向かうわたし。
そう思った瞬間、喉の奥が少し熱くなる。
けれど、鏡の中の自分を見ているうちに、ふと首元へ視線が向いた。
チョーカー。
黒いそれは、今日もわたしの首元にある。
先生は、アクセサリーなら問題ないと言ってくれた。
だから、校則としては大丈夫なのだと思う。
でも、わたしにとってこれは、ただの飾りではない。
指先でそっと触れる。
柔らかいはずなのに、そこだけ少し冷たく感じた。
学校のみんなは、これを見てどう思うのだろう。
変だと思われないだろうか。
聞かれたら、何と答えれば良いのだろうか?
考えれば考えるほど、胸の奥がざわついてくる。
「雪ちゃん、起きてる?」
扉の向こうから、友希さんの声が聞こえた。
「は、はい。起きています」
慌てて返事をすると、少しして扉が開く。
顔を出した友希さんは、わたしの姿を見るなり、ふっと柔らかく目を細めた。
「うん、準備バッチリだね」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥にあった不安が少しだけ揺らいだ。
わたしはもう一度、鏡の中の自分を見る。
首元のチョーカーも、慣れない制服も、震えそうな指先も全部そこにある。
けれど、それでも友希さんは、今のわたしを肯定してくれた。
「朝ご飯できてるよ」
「……はい、いただきます」
朝食を運び、机の前に座ってお箸を取る。
いつもと変わらない風景。
でも、制服の存在がわたしの胸をざわつかせる。
そんなわたしを汲み取ったように、友希さんは口を開いた。
「緊張してるね」
「……はい」
「でも、大丈夫」
友希さんは微笑んだ。
「あそこの生徒はみんな良い子だから、雪ちゃんのこと温かく迎えてくれるよ」
その言葉を聞いて、強張っていた肩の力がほんの少し抜ける。
友希さんのその言葉が胸の奥にゆっくりと染み込んでいく。
学校へ行くのはまだ不安だ。
知らない教室。知らない人たち。知らない一日。
けれど、友希さんが背中を押してくれる。
そう思えただけで、足元が少しだけ確かになった気がした。
「あ、そうだ雪ちゃん」
「な、何ですか?」
「今日、学校が終わったら、真っ直ぐ帰って来てほしくて……大丈夫かな?」
「は、はい。もちろんです」
何だろう。少しだけ、友希さんがそわそわしているように見えた。
食事を終え、わたしは玄関へ向かう。
靴を履き、鞄を持ち、扉の前で一度だけ息を吸った。
「雪ちゃん……行ってらっしゃい」
「……い、行ってきます」
まだ少し震えた声でそう言うと、友希さんは嬉しそうに笑った。
夏休みの終わりの日。
わたしの新しい学校生活が今日から始まる。
久しぶりに訪れたホーリー女子学園は、活気に満ちていた。
校門をくぐる生徒たちは、みんな同じ制服を着ている。
白いセーラー服に、整ったスカーフ。
見慣れないはずのその制服がここでは当たり前の景色として溶け込んでいた。
そんな中で、わたしだけが浮いている。
菊の花学園の制服。
少し大きな袖。
慣れない鞄。
それから、首元のチョーカー。
前に進もうとするけど、誰かがこちらを見た気がして、思わず足が止まる。
本当に見られていたのかは分からない。
けれど、一度そう思ってしまうと、周りの声が全部自分に向けられているように聞こえた。
胸の奥がざわつく。
鞄の持ち手を握る指に、知らないうちに力が入っていた。
大丈夫。
友希さんが大丈夫だと言ってくれた。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、足はなかなか前に出てくれなかった。
「雪さん」
ふいに名前を呼ばれて、肩が小さく跳ねた。
振り向くと、校門の少し先に霧宮先生が立っていた。
柔らかな笑みを浮かべて、こちらへ歩いてくる。
「おはようございます」
「お、おはようございます」
頭を下げると、先生はわたしの顔を見て、また柔らかく笑った。
「……そんなに不安にならなくても大丈夫です」
見透かしたように、先生は朗らかに笑う。
「わたくしがそばについていますから」
その一言で、胸の奥の強張りが少しだけほどける。
「今日は教室に入る前に、まず始業式があります。体育館へ向かいましょう」
「は、はい」
霧宮先生の隣を歩きながら、わたしはもう一度だけ周りを見た。
知らない制服。
知らない朝。
けれど、さっきより少しだけ、足は前に進んでいた。
体育館へ近づくにつれて、生徒たちの声は遠のく。
開かれた扉の向こうには、まだ誰もいなかった。
準備された壇上。
壁に掛かった校章。
前に訪れた時とは違い、静寂がやけに耳に残る。
霧宮先生が体育館の中に入って行く。
わたしは小さく息を吸い、体育館の中へ足を踏み入れた。
壁の端に設置された椅子へと案内され、そこに腰を下ろした。
「改めて、雪さん。今日からよろしくお願いしますね。始業式まで時間がありますので、本日の予定について説明しますね」
先生は今日の日程やクラスのこと、始業式が終わった後の流れを、ひとつずつ丁寧に説明してくれた。
「そんな具合です。ここまでで、わからないことはありますか?」
「だ、大丈夫です」
話を聞けば聞くほど、ここがわたしの生活になるのだと実感していく。
わからないことだらけ……でも、恐怖だけではなかった。
友希さんが信じた学校をわたしも信じてみたいと思ったからだ。
しばらくして、体育館は多くの人で溢れた。
さっきまで静かだった空間に、話し声が満ちていく。
久しぶりに会ったのか、嬉しそうに手を振る人。
夏休みの出来事を話している人。
眠そうにあくびをしている人。
膝の上に置いた手をぎゅっと握る。
この胸の高鳴りは嫌ではなかった。
それから始業式が始まった。
壇上に校長先生が立ち、声が体育館に響く。
内容を全部覚えている余裕はなかった。
それでも、わたしは椅子に座ったまま、最後までそこにいた。
話が終わると、生徒たちはそれぞれの教室へ向かっていく。
あっという間だった。
「雪さん、行きましょうか」
「……はい」
霧宮先生に促され、わたしは立ち上がった。
体育館を出て、校舎へ向かう。
廊下には、たくさんの足音と声が響いていた。
その中を歩くたびに、心臓の音が少しずつ大きくなっていく。
やがて、霧宮先生が一つの教室の前で足を止めた。
扉の上には、1年4組と書かれた札が掛かっている。
ここが、今日からわたしの教室。
机を動かす音。
椅子を引く音。
誰かが笑う声。
その全部が少しだけ昔を思い出させる。
「雪さん」
霧宮先生が静かに名前を呼ぶ。
「大丈夫です。上手に話そうとしなくて構いません。雪さんのペースで話してください」
「わたしの……ペース」
「それに……ここの生徒は、皆良い子たちです。雪さんのこと温かく迎えてくれますよ」
その言葉を聞いて、わたしは少し笑いそうになる。
「……ありがとうございます」
友希さんがこの学校で何を見て、何を感じていたのかは、まだ分からない。
けれど、霧宮先生を見ていると、友希さんがここで過ごした時間の一部に触れた気がした。
雪華雪。
友希さんの苗字。
わたしの名前。
まだ、自分のものだと言い切るには少し怖い。
けれど、今日だけは、この名前を大事にしてもいいのかもしれない。
「では、入りましょうか」
「……はい」
霧宮先生は教室の扉を開けた。
ざわめきが一瞬だけ薄くなる。
教室の中にいた生徒たちの視線がいっせいにこちらへ向いた。
たったそれだけなのに、緊張で足元が頼りなくなる。
おぼつかない足取りで教壇の横に立つ。
「皆さん、おはようございます。いきなりですが、今日からこのクラスに新しい生徒が加わります」
霧宮先生の声は、教室の中に落ち着いて響いた。
「では、自己紹介をどうぞ」
先生に促され、わたしは一歩前へ出る。
黒板の前。
たくさんの机。
たくさんの視線。
どう見られているかわからない。
不安で胸が押し潰れそうになる。
でも、友希さんの言葉を信じた。
「ゆ、雪華……雪……です。こ、これから皆さんと仲良くしていけたら嬉しいです。よろしくお願いします」
そう言い終えた瞬間、胸の奥に溜まっていた息が一気に抜けた。
少し遅れて、教室に拍手の音が広がる。
思っていたよりも、ずっと柔らかい音だった。
怖くなかったわけではない。
今でも指先は少し震えている。
それでも逃げなかった。
今日のわたしは、ちゃんと自分の名前を言えた。




