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第20話 自分の中にしかないもの

 月曜日の朝は少しだけ空気が違った。

 同じ部屋、同じ時間、同じ朝の光。

 それなのに、友希さんの纏う空気だけが、いつもよりキリっとして見える。


 白いブラウスに細身のスラックス。

 部屋の端の机に備えられたデスクトップとモニターの前に座り、カタカタとキーボードを弾く。

 その画面を見つめる横顔は、家の中にいるはずなのに、どこか遠い場所にいる人みたいだった。


 ……かっこいい。


 そんな言葉が胸の奥にぽつりと落ちる。

 慌てて飲み込んだけれど、落ちたものは簡単には消えなかった。


「雪ちゃん?どうかした?」


 いつの間にか見つめすぎていたらしい。

 視線に気づいたのか、友希さんがこちらを振り向いて、小さく首を傾げる。


「い、いえ……その、何をしているのかと思いまして」

「ああ、実は今日から仕事なんだけど、在宅にしたから、その準備かな」


 そう言って笑う顔はいつもの友希さんなのに、さっきまで見ていた横顔とはまた少し違う。

 仕事をする人の顔。

 学校にいた時とも違う……またわたしの知らない友希さんだった。


 知らない顔は、まだ少しだけ胸をざわつかせる。

 けれど、そのざわめきは前よりずっと穏やかだった。


「あ、あとこれ」


 友希さんは机の上からヘッドホンを持ち上げ、わたしに差し出してきた。


「これは……」

「タイプ音が少しうるさいかなと思って。耳栓の代わりに」

「い、いえ、大丈夫ですよ」

「でも……ううん、一応持ってて。こんな音で雪ちゃんの邪魔はしたくないから」


 優しく諭すような声色だった。

 それでも大丈夫だと言おうとして、わたしはふと考え直す。

 友希さんは今から仕事をするのだ。

 何か聞かれてはいけない話があるかもしれないし、集中したいことだってあるだろう。

 そう思った時、そこまで考えられなかった自分が少しだけ情けなくなった。

 

「……では、ありがたくお借りします」


 わたしは友希さんからヘッドホンを受け取る。


「それじゃあ、何かあったらすぐ呼んでね」

「は、はい」


 そう言うと、友希さんは再びモニターと向き合った。

 仕事を始めると、部屋の空気はさらに変わる。


 キーボードを叩く音。

 時折聞こえるマウスのクリック音。

 普段は静かな部屋に、軽快な音が響く。


 しかし、友希さんが通話を始めた瞬間、わたしは意識をはっとさせる。

 慌ててヘッドホンをして、目の前の机に視線を落とす。

 机の端には、昨日まで読んでいた『ひとり分の明日』が置いてある。

 最後まで読み終えたはずなのに、まだ胸の中で物語が息をしていた。


 大切なものを失った少女が遠回りをしながら、自分の明日を見つけていく物語。

 少し……胸にくるものがあった。

 時々、息をするみたいに、その子の気持ちが胸に入ってきて、ページをめくるのが重かった。


 その気持ちのまま、昨夜、原稿用紙を広げて書き始めた。

 けれど、最初の1文を書いたきり、その先が出てこない。


 感想文を書くのは初めてだった。

 でも、そういう問題ではない気がした。


 感想はある。

 胸の中で動いたものも、ちゃんと残っている。

 なのに、それを言葉にしようとした瞬間、急に薄れてしまう。


 書きたいことはあるはずなのに、いざ紙の上に置こうとすると、どれも違う気がする。

 これじゃない。こんな言葉じゃない。

 そうやって消して、迷って、また止まる。


 真っ白な原稿用紙は、何も書いていないはずなのに、ひどく息苦しかった。

 自分が何を感じたのかを書けばいい。

 そのはずなのに、自分の中を覗き込むこと自体が、少し怖かった。


「……ちゃん……雪ちゃん……おーい、雪ちゃん」


 肩を揺さぶられて、わたしははっと顔を上げる。


「……!は、はい!どうしました?」


 慌ててヘッドホンを外し、友希さんの顔を見る。


「あ、いや……険しい顔してたから、どうしたのかな?って」

「……い、いえ、何でもありません……ご心配……おかけしました」


 わたしが不甲斐ないせいで、逆に友希さんの邪魔をしてしまった。

 再びヘッドホンをつけようとした瞬間、友希さんはぽつりと口を開いた。


「感想文って難しいよね。私も苦手だな」


 思いがけない言葉に、わたしは目を瞬かせた。


「ゆ、友希さんでも……ですか?」

「そうだよ。だって、正解がないから」


 そう言って、友希さんはわたしの机の上に置かれた原稿用紙へ目を向ける。


「勉強の問題なら、答えが合ってるかどうか分かるでしょ?でも感想文って、自分の中にあるものを出すから、逆に難しいんだよね」


 それは、今のわたしの苦しさをそのまま言い当てられた気がした。

 間違っているのかどうかも分からない。

 だからこそ、どこから書き出せばいいのかも分からなくなる。


「なら、雪ちゃんにはオススメのやり方を教えるね」


 友希さんはそう言って、わたしの原稿用紙の横にメモ帳を1枚置いた。


「一度、各章ごとに思ったことを書いてみて。『面白かった』や『辛かった』でも、簡単なことで良いから」

「……そ、それだけで、いいんですか?」

「いいよ。むしろ最初は、それくらいの方がいい」


 友希さんは本を手に取って、ぱらぱらとページをめくる。


「感想文って、最初から綺麗に書こうとすると苦しくなるから。まずは自分がどこで止まったかを見つけるのが大事」

「止まった……」

「うん。悲しかったでも、むかついたでも、安心したでもいい。読んでる時に心が動いた場所があるなら、それが感想の入口になるから」


 わたしは机の上の本へ視線を落とす。

 心が動いた場所。

 そんなもの、ありすぎて困っていたのに。

 今こうして言われると、そのありすぎるものの中から、1つだけなら掴めそうな気がした。


「一緒に考えてあげたいけど……これは雪ちゃんの中にしかないもの。だから、自信を持って」


 そう言われて、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 わたしの中にあるものを、わたしが信じていいのだと、初めて言ってもらえた気がした。


「……わたしの中にしか、ない……」


 わたしはメモ帳を引き寄せて、ペンを持つ。

 そして、おそるおそる最初のページを思い出した。


 寂しい。

 少し怖い。

 でも、最後は前を向いていて羨ましかった。


 たどたどしい言葉を三つ書いただけなのに、さっきまで白すぎた紙が、少しだけ近く見えた。


「……か、書けました」


 友希さんは嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥のつかえがほんの少しだけほどける。


 友希さんは立ち上がり、また自分の机へ戻っていく。

 けれど、さっきまでとは少し違った。

 部屋の中に響くキーボードの音も、画面越しの声も、今はわたしを急かさない。

 むしろ、「大丈夫」と背中を押してくれているみたいだった。


 わたしはもう一度、本を開く。

 ページの隅に差し込んだ栞を指でなぞりながら、昨日の自分が選んだ題名を思い出す。


 『ひとり分の明日』


 あの時は、どうしてその本が気になったのか分からなかった。

 けれど、今なら少しだけ分かる気がする。


 ひとり分の明日。

 それはきっと、誰かに決められるものじゃなくて、自分で少しずつ選んでいくものなのだ。


 まだ全部は分からない。

 でも、昨日よりは少しだけ、その言葉を信じてみたいと思えた。


 わたしはペンを握り直す。

 月曜日の朝は、まだ始まったばかりだ。

 それでも、昨日より少しだけ、明日に手が届きそうな気がした。

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