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第19話 最初の一冊

 体育館へ近づくにつれて、床を打つ音が少しずつ大きくなる。

 校舎の静けさを抜けた先にあるその音は、今のわたしには不思議と心地よかった。


 開いたままの扉の前で、わたしはそっと足を止める。

 中では、午後の練習がまだ続いていた。

 ボールの跳ねる音、シューズの擦れる音、短い掛け声。

 熱気を含んだ空気が、頬にまとわりつく。


 その中で、すぐに友希さんの姿は見つかった。


 コートの端で後輩たちに何かを指示しながら、自分でも軽くボールを回している。

 さっきの一対一の時のような鋭さとは少し違う。

 今はもっと、全体を見渡すような落ち着いた顔だった。

 けれど、ひとたび後輩に声をかければ、その場の空気が自然とそちらへ向く。

 やっぱりこの人は、この場所でもちゃんと特別なのだと思った。


 知らない顔。

 知らない時間。

 知らない関係。


 それでも、前みたいに胸が苦しくなるだけじゃなかった。

 わたしの知らない友希さんが、ここにはたくさんある。

 そのことが少し寂しくて、でも少しだけ誇らしかった。


 今はまだ練習の途中だ。

 邪魔をしてはいけない。

 そう思い、わたしは体育館の壁際に寄り、空いている長椅子にそっと腰を下ろした。


 膝の上には、面接でもらった400字詰めの原稿用紙。

 白い紙の感触を指先で確かめながら、わたしはコートの中の友希さんを目で追う。


 終わるまで待とう。

 そう決めただけで、胸の奥が少し静かになった。


 気づけば、時間は17時を回っていた。

 バスケ部は終了したのか、体育館に挨拶をして、生徒のみんなは各々帰宅の準備を始めた。

 遠くでまだ後輩と話していた友希さんがこちらを振り向く。

 その視線がまっすぐこちらを捉えた瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。

 そして、駆け足気味にわたしへと近づいて来る。


「雪ちゃんごめん、待たせたよね?」


 汗をタオルで拭きながら、友希さんは少しだけ申し訳なさそうに笑う。

 わたしは慌てて首を横に振った。


「い、いえ……待つのは、嫌じゃありませんでした」


 そう答えると、友希さんは嬉しそうに笑いました。


「そっか……ならよかった」


 友希さんは、ほっとしたように肩の力を抜いた。

 その時、わたしの膝の上に置いていた原稿用紙に目を留める。


「ん? それは?」

「え、えっと……夏休みの課題で、読書感想文を書くことになりまして」


 そう言って、400字詰めの原稿用紙を少しだけ持ち上げる。

 白い紙は面接室の中で受け取った時よりも、今の方がずっと軽く感じた。


「読書感想文か……実はウチに小説とかって置いてないんだよね」


 友希さんは困ったように眉を下げた。


「本棚の本あるでしょ?あれ、ほとんど勉強か仕事関係のやつだから。感想文に使えそうなのは無いんだ」


 確かに、あの本棚に並んでいたのは難しそうな本ばかりだった。

 物語の本は一冊もなかった気がした。


「じゃあ……どうしましょう」

「帰りに本屋さん寄ろっか」


 あまりにも自然に言われて、わたしは目を瞬かせた。


「ほ、本屋さん……ですか?」

「うん……もしかして、行ったことない?」

「な、ないです」


 口にした瞬間、自分でも少しだけ寂しくなった。

 本は読んだことがある。

 でも、それは自分で選んで読んだわけではなかった。


 友希さんは変に驚くことも笑うこともなく、ただ「そっか」と小さく頷いた。


「じゃあ今日は、雪ちゃんの最初の一冊を選ぶ日だね」

「……最初の一冊」


 その響きが胸の奥で小さく転がる。

 不安はまだあるのに、それより少しだけ、くすぐったさの方が勝っていた。


 友希さんは後輩たちに軽く手を振り、バッグを肩に掛けた。


「それじゃ、帰ろっか」

「は、はい」


 体育館を出て、まだ陽が高い外へ足を踏み出す。

 校門へ向かう道のりは、朝よりもずっと短く感じた。


 並んで歩きながら、友希さんがこちらを見る。


「面接はどうだった?」

「……全部は言えませんでした」


 そう答えると、自分の足元ばかり見てしまう。

 言えなかったこと。

 飲み込んだこと。

 あの部屋に置いてきたものは、きっと少なくない。


「でも、笑ってる」

「……え?」


 友希さんにそう指摘されて、思わず頬に手をあてる。


「辛いことも聞かれたと思う。でもそれが、雪ちゃんにとって、とても大切な言葉になったんじゃないかな?」

「……はい」

「なら、それで十分だよ」


 その言葉に、喉の奥が少し熱くなる。

 わたしはまだ、全部を言葉にできない。

 でも、今はそれで良いのだと許された気がした。


 学校を出て、しばらく歩く。

 やがて見えてきた大きな書店の看板に、わたしは思わず足を止めた。


「……ここですか?」

「そうそう。結構大きいでしょ」


 自動ドアが開く。

 扉を潜り抜けた瞬間、紙とインクの匂いが鼻腔をくすぐる。


 店内には高い棚がいくつも並び、本がぎっしりと詰まっていた。

 背表紙の色も、文字も、大きさも全部違う。

 視界いっぱいに本があって、どこを見ればいいのか分からなくなる。


「……すごい……」


 気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。


「ふふ、でしょ」


 友希さんはそんなわたしの反応を見て、小さく笑う。


「本って読むのも楽しいけど、選ぶのも結構楽しいんだよね」

「選ぶのが……ですか?」

「まあ、最初は何が何だか分からないと思うけど」


 その通りだった。どれも同じように見える。

 けれど、どれも違っていて、何を手に取ればいいのか分からない。


「……ちゃんと選べるでしょうか」

「大丈夫。難しく考えなくていいよ」


 そう言って、友希さんは一番近くの棚を見上げた。


「読書感想文って、正解を書くものじゃないから。雪ちゃんが読んでみたいって思った本を選べばいいよ」

「……読んでみたい、ですか」


 その言葉を胸の中で繰り返す。

 今までは、与えられた本を読むだけだった。

 何を読むかを自分で決めていいなんて、考えたこともなかった。


 わたしはゆっくりと棚へ近づき、並んだ背表紙にそっと視線を滑らせた。

 すると、その中の1冊で視線が止まった。


『ひとり分の明日』


 白地の表紙に、淡い青でその題名が書かれている。

 どうしてか分からない。でも、その題名だけがやけに気になった。


 思わず手を伸ばし、そっと引き抜く。

 表紙はつるりとしていて、少しひんやりしていた。


「どう?気になったのあった?」


 友希さんが隣から覗き込む。


「……題名がその……少し気になって」

「『ひとり分の明日』か」


 友希さんはその題名を口の中で転がすように繰り返した。

 わたしは小さく頷き、裏表紙に目を落とす。


 そこには、短いあらすじが書かれていた。


 『大切なものを失った少女が遠回りをしながらも、自分だけの明日を見つけていく物語。』


 たったそれだけの文だった。

 それなのに、胸の奥が小さく揺れる。


 失ったもの。

 遠回り。

 明日。


 どの言葉も、今のわたしには少しだけ痛くて、少しだけ眩しい。


「……わたし、これにします」


 そう言うと、友希さんはほんの一瞬だけ目を伏せた。

 けれどすぐに、嬉しそうに目を細める。


「うん。いいと思う。雪ちゃんの……最初の一冊だね」

「……最初の一冊」


 その言葉を胸の中でそっと繰り返す。

 誰かに渡された本じゃない。

 誰かに決められた本でもない。

 今、わたしが自分で手に取った本だ。

 胸の奥が落ち着かなくて、でもそのざわめきは嫌じゃなかった。

 早くページを開いてみたいと、そう思えたのは初めてだった。


 本を胸の前で抱く。

 たったそれだけのことなのに、少しだけ未来を掴んだ気がした。


「それじゃあ、買ってきな」

「あ、ありがとうございます」


 友希さんからお金を受け取り、わたしは会計へと向かった。


 本屋を出たわたしの手の中には、ブックカバーを掛けられた本があった。


「どうだった?初めての本屋さん」

「……すごく……楽しかったです。また来たいです」

「じゃあ、今度は私と雪ちゃんで、お互いに選んだ本を交換してみるのも面白そうだよね」

「それは……少し恥ずかしいですね」

「でも、やってみたい」

「……わたしもです」


 夕陽が、わたしたちの帰り道を長く照らしていた。

 胸の前で本をそっと抱き直す。

 今日、自分で選んだ1冊の重みは、少しだけ未来に似ていた。


「ねぇ、夕飯何にしようか?」


 そう言って笑う友希さんの声を聞きながら、わたしは小さく息を吐く。

 今日一日は、もう少しだけ続いている。

 それが何だか嬉しかった。

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