第18話 わたしのまま向き合う時間
中庭を離れて、わたしは面接室へ向かった。
胸の奥に灯った小さな勇気は、わたしの足取りを軽くした。
面接室の扉の前に立つと、喉がきゅっと縮む。
制服の裾を握る指先に、じわりと汗が滲んだ。
でも、前みたいな恐怖ではなかった。
コンコンコンと扉を叩く。
すぐに中から「どうぞ」と声が返ってきた。
「失礼します」
中へ入り、部屋の中央にポツンと設置された椅子の横に立つ。
わたしの目の前には、応接室で見た時と同じように、霧宮先生が机の向こうでこちらを見ていた。
けれど、今はあの時よりもずっと、この部屋が遠く感じる。
「雪さん、どうぞ楽にしてください」
「……失礼します」
先生はそう言って微笑んだ。
わたしは着席の意だと受け取り、そばにある椅子に腰をかける。
椅子に腰を下ろした瞬間、膝の上の手が小さく震えた。
それに気づかれたくなくて、指先をぎゅっと組む。
これは、試される時間じゃない。
わたしが、わたしのまま向き合う時間なのだ。
そう思った時、霧宮先生がゆっくりと口を開いた。
「それでは雪さん、始めましょうか」
わたしは背筋を伸ばしたまま、次の言葉を待った。
「それではまずお聞きしたいのは、前の学校での出席率ですね」
来ました。わたしが1番恐れていた質問。
「ゴールデンウイーク明けから、一度も学校に行ってないようですけど……何かあったんですか?」
何があったかなんて、今でも鮮明に覚えている。
わたしが……奴隷として売られた日のことを。
そして、奴隷としての教育が始まった日のことも。
「えっと……」
喉の奥に、言葉が引っかかった。
答えは、わたしの中にちゃんとある。
けれど、口にしようとすると、暗い水の底みたいに沈んでしまう。
霧宮先生は、すぐには何も言わなかった。
急かすことも、責めることもなく、ただ静かに待ってくれる。
「……今ここで、無理に話さなくても構いません」
やわらかな声だった。
「事情があることは分かりました。大切なのは、雪さんがこれからこの学校でどう過ごしていきたいかですから」
その言葉に、胸の奥が少しだけほどけた。
聞かれたくないことを、無理やり暴かれずに済んだ。
それだけで、椅子の上の身体が少し軽くなる。
「では、少し質問を変えましょう」
霧宮先生は書類に目を落とし、それから穏やかにわたしを見た。
「この学校で、やってみたいことはありますか?」
やってみたいこと。
そんなふうに聞かれたのは、いつぶりでしょうか。
何をしたいかより、何をしなければいけないかばかり考えて生きてきたせいで、すぐには答えが出てこない。
けれど……。
「……勉強を……ちゃんとやりたいです」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
でも、それは嘘じゃない。
友希さんと机を並べた時間を思い出せば、少しだけ胸が温かくなった。
「そうですか」
霧宮先生は小さく頷いた。
その頷きは、正解か不正解かを測るものではなく、わたしの言葉をそのまま受け取ってくれるものだった。
「では、そのためにも、無理のない形で少しずつ慣れていきましょう。ここで学ぶ時間が、雪さんにとって良いものになるように、わたくしもお手伝いします」
その言葉が、思った以上に胸にしみた。
霧宮先生はそこで一度言葉を切り、ふとわたしの首元へ視線を向けた。
びくりと肩が揺れそうになるのを、わたしは必死でこらえる。
「最後に、この学校の校則について、一点だけお伝えしておきますね」
わたしは無意識に背筋を伸ばした。
「この学校では、イヤリングやネックレスなどのアクセサリーは問題ありません。ですが、タトゥーやピアスなど、身体に傷を入れて着けるものは禁止されています」
淡々とした説明。
それだけのはずなのに、首元が急に熱を持った気がした。
先生は、わたしの表情を見ながら少しだけ微笑む。
「ですので、そのチョーカーも着けていて大丈夫です。安心してください」
……一瞬、意味が理解できなかった。
思わず、首元のそれに手が伸びる。
自分ですら忘れかけていた。首元に繋がれた鎖を。
意識した瞬間、首が重く感じた。
「チョーカーがお好きなのかな、と思いまして。学校生活の中で不安が一つでも減った方がいいでしょう?」
……先生は何も知らない。ただ、そういう印象を持ってくれただけ。
その思い違いが、今はありがたかった。
「……ありがとう……ございます」
掠れた声でそう言うのがやっとだった。
霧宮先生は静かに頷いて、書類を閉じる。
「では、今日の面接は以上です。雪さん、よく頑張りましたね」
うまく答えられたかは分からない。
言えたことや、飲み込んだままのこともある。
それでも……ここから先のことを考えるのが、少しだけ楽しみに思えた。
「面接はこれで終わりですが、もう一点だけ。夏休みの課題についてお話ししますね」
「は、はい」
そう言われて、わたしはもう一度背筋を伸ばした。
面接が終わったはずなのに、不思議と今度はさっきほど怖くない。
霧宮先生は机の上から一枚の紙を取り、わたしに見えるように持ち上げる。
「課題は読書感想文のみです。小説であれば、ジャンルは問いません。こちらの原稿用紙に書いて、始業式の日に提出してください」
提示された400字詰めの原稿用紙。
霧宮先生は立ち上がり、わたしにその原稿用紙を手渡してきました。
「慣れないことが多くて大変だと思いますが、雪さんとの学校生活、楽しみにしています」
その言葉に、胸の奥がふわりと温かくなる。
期待されることが怖いはずなのに、今はそれが少しだけ嬉しかった。
「……ありがとう、ございます」
原稿用紙を受け取る。
たった一枚の紙なのに、少しだけ重い。
でも、その重さは嫌ではなかった。
これから先の時間が、そこに乗っている気がしたから。
椅子から立ち上がる足は、来た時よりも少しだけ軽かった。
扉を開けて、わたしは体育館へ向かう。
そこに行けば、また友希さんがいる。
そう思うだけで、わたしはちゃんと前を向くことができた。




