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第15話 机の上から逃げない

 土曜日の朝は、空気が薄い。

 制服の襟元を指でつまむたび、布が心臓の音を拾っている気がした。


「……どう? 緊張してる?」

「は、はい」


 ミレナシティモールのときとは違う緊張が不安をじわじわ押し上げる。

 先週と同じ校門なのに、今日は越えるべき壁みたいに見えた。

 体は熱いのに、指先だけがひんやりしている。


「ねえ、雪ちゃん。たった数日でも、雪ちゃんはちゃんと頑張った。だから大丈夫」


 友希さんはわたしの手を一度だけ握って、すぐに離します。

 背中を押す代わりみたいに。


 職員室までの靴音が二人分、規則正しく並ぶ。

息を吸って、吐く。

 怖い。けれど昨日より少しだけ、前に進める気がしました。


 職員室で霧宮先生を呼んでもらいます。


「では、教室に案内しますね」

「よ、よろしくお願いします」

「雪ちゃん、私は体育館に行ってるから、終わったらそこに来て」

「……はい」


 友希さんは手を振り、背を向けます。

 その背中が離れるのを見届けていると、わたしは無意識に口を開きました。

 言葉を発しようとしたところで気づきます。

 ……わたしは何を言おうとしたのでしょう?

 戸惑いを振り払うように首を横に振ります。


 霧宮先生の案内に従い、校舎内を歩きます。

 静寂が少し息苦しく感じます。


「雪さん」

「は、はい!」


 不意の出来事で、思わず声が上擦ってしまいました。


「ゆき……華さんとのお勉強はどうでしたか?」

「え、えと……すごく……嬉しかったです」

「嬉しい……ですか」


 そう言う霧宮先生の横顔は、少し喜んでいるように感じました。

 その表情はどこに向けたものか、わたしにはわかりません。

 でも、先生の足取りは優しく、スキップをしてるかのように軽やかになりました。


「雪さんはお勉強好きですか?」

「え、えと……き、嫌いです」

「あら、意外な回答ですね」

「……そうですか?」


 でも、霧宮先生の言っていることは間違いではありません。

 昔は……勉強が好きでした。

 わからないところがわかった時の楽しさ、学んだことが将来的にどんなことに使われるか期待していました。

 しかし、夢は夢でした。

 奴隷という烙印を押され、わたしは勉強をする意味を見失いました。


「勉強をしても、使わないのであれば、それは骸と一緒です。だから……嫌いなんです」


 言ってからハッとします。

 ……わたしは何を言っているのでしょう?

 まるで八つ当たりをするような、失礼な言動を発した自分を嫌悪します。


 怒られると思い、恐る恐る霧宮先生の顔を見ます。

 しかし、少し笑った表情でわたしを見つめていました。


「雪さんの言っていること、すごくわかります。昔のわたくしも……同じことを考えていましたから」


 霧宮先生は歩く速さを少し落とした。

 窓から入る光が先生の横顔を一瞬だけ白くする。


「昔、雪さんと同じことを思った時……わたくしは、教員への道を目指すことを決めました」


 その言葉が不思議と怖くなくて、喉の奥の硬さが少しほどけた。

 先生は小さく息を吐いた。懐かしいものを撫でるみたいな声だった。


「せっかく勉強したのに、それを使わないなんて……何だか切なくて。だったら、意味のほうを作る側になりたかったんです」


 先生は苦笑して、廊下の先を見た。


「ですが、ある人と出会い……勉強とは何なのかを教えてくれました」


 その声は押しつけじゃなく、救われた人の温度だった。


「使う使わないじゃない。問題に向かって、どれだけ自分を進められるか。どれだけ人を頼れるか。間違えてもいい。問題に向かう姿勢こそが勉強だと……そう教えられました」


 胸の奥が音もなくきゅっと縮んだ。

 その言葉は、わたしの中で別の声に重なる。


『問題を見て、何を聞かれてるかが分かれば、それだけで前進』


 机の上で震えた指先。

 わからないと認めるのが怖くて、でも「読めるだけで前進」と言われて、少しだけ息ができた。


 霧宮先生は、わたしの様子を確かめるように一度だけ横目を向けた。

 けれど深追いはせず、歩幅を合わせるだけで先へ進む。


「着きましたよ、雪さん」


 先生が立ち止まったのは、廊下の突き当たり近くの教室だった。

 扉のガラスに貼られた紙に、大きな字で「テスト中」と書かれている。


 鼓動が耳元で鳴り響く。

 制服の袖が汗で肌に張り付いた。


「席は指定されていますから、わたくしの指示に従ってください」

「……はい」


 返事は出来ました。

 でも、声が自分のものじゃないみたいに遠い。


 霧宮先生が扉を開ける。

 教室の中は思ったより明るくて、でも空気が硬い。

 黒板には試験の注意事項が整然と書かれていて、机の上には何も乗っていなかった。


 でも、机を目の前にして、緊張はさらに高まる。


 ここに座って、解けなかったら?

 笑われたら?

 友希さんに迷惑をかけたら?


 頭の中で、勝手に最悪が並ぶ。


「雪さん、こちらです」


 先生に促され、指定された席へ向かう。

 椅子を引く音が、教室にやけに大きく響いた。

 机の木目が目に入るだけなのに、胸の奥が忙しい。


「荷物は椅子の下へ。筆記用具だけ、机の上に出してください」


 言われた通りにする。

 カバンの中で消しゴムを探す指先が、少し震えた。


 席について、ふと思う。

 友希さんがいない。

 当たり前だ。今日はテストで、友希さんは体育館に行っていると言っていた。


 それでも、心が勝手に探してしまう。

 どこかにあの人の気配がないか、声が届かないかって。


 ……情けない。


 そう思った瞬間、友希さんのことを考えた。

 体育館で友希さんも頑張っている。

 近くに友希さんを感じるだけで、ほんの少しだけ安心した。

 終われば、会える。


 先生は教壇の前に立ち、淡々と説明を始めた。

 禁止事項、途中退室の手順、テスト時間。

 言葉は全部理解できるはずなのに、右から左へ抜けていく。


 でも、その中で一つだけ、耳に残った。


「わからない問題があっても、白紙は避けてください。途中まででもいいので、書けるところを書きましょう」


 途中まででもいい。


 その言葉が、胸の奥で友希さんの声と重なる。

 ……先生の言葉なのに、少しだけ安心した。


 教室の時計がカチリと音を立てる。

 開始まであと数分。


 周りにはわたしだけ。

 静寂に響くのは時計の針とわたしの鼓動。

 わたしは膝の上で手を握った。

 指の先が冷たい。


『大丈夫。嫌だったら、途中で帰ろう』


 友希さんの声が胸に残る。

 今日まで、友希さんは一緒に勉強をしてくれました。

 だから、わたしは友希さんの期待に応えたい。


 先生がプリントを持って歩き出す。

 紙が配られる音が静かな教室に波紋のように広がっていく。

 白い紙が置かれると、心臓が一度跳ねた。


 わたしは深く息を吸って、吐く。

 その小さな動作が、わたしの中の今を固定してくれる。


「それでは、始めてください」


 わたしはペンを握る。

 紙の上の一行目を、ゆっくり追う。


 何を聞かれている?


 友希さんが作ってくれた道を思い出す。

 わたしはまだ弱い。まだ怖い。

 それでも、今だけは机の上から逃げないと決めた。

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