閑話
――不思議な場所だった。
一面、水晶質の壁に覆われた小部屋――だと思う。
だが、俺が寝そべるのは床じゃなく、土の匂いがはっきりと感じられる草原。
視線を巡らせると、すぐそばに光耀樹のように虹色にきらめく若木が伸びている。
そこからさらに見上げた天井は四角錐の頂点になっていて、透き通った壁の向こうには大きな青い月と、それより小振りな白い月が夜空に浮かんでいるのが見えた。
……どこだ? ここ……
「――お、気づいたみたいだね」
笑いを含んだ涼やかな声に視線を下ろせば、そこには腰まで届く色素の薄い茶髪の毛先を、紅い結紐でまとめた少女の姿があった。
――いつの間に……
そう思う間にも、俺のすぐそばにはテーブルセットが出現していて――
「よいしょっと!」
と少女はそばまでやってきて、俺を抱え上げた。
――んんっ!?
そこで俺はようやく気づく。
――俺の身体が変わっている事に……
言葉も出てこない。
今の俺は、赤い体毛を持った、クロのような愛玩躯体体型となっていた。
「ああ、驚くよね。
ここはさ……本当ならわたし以外は、存在できない場所なんだ」
と、少女がいつの間にかテーブルの上にあった手鏡を手に取り、俺を映した。
まん丸い――ぬいぐるみのような紅い狼だ。
いや、身体が思うように動かないのを思えば、『ような』ではなく、本当にぬいぐるみになっているのかもしれない。
「でも、物としてなら――本とか玩具としてなら届けられるって、ヒロシくんが気づいてくれてね……
その法則を強引に解釈して、セイラちゃん――キミにはアジュアちゃんって言った方が伝わるのかな――は、クロちゃんっていう、わたしまで届く願望器を創り上げた……」
少女は俺を抱いて椅子に腰掛け、丸テーブルにいつの間にか現れていたカフェオレ入りのマグカップを口元に運ぶ。
「そしてキミはわたしの願望に従い、その定義づけられた流脈を流されてきて、いまこの場に居るって事だね」
……ああ、こいつはアレだ。
この聞き手を無視した意味のわからなさ――クロやババアの名前を出してる事からして、たぶんババアの同類だ。
――白ババアもそうだったしな。
彼女はなぜ俺がここに居るのか説明しているようだが、恐らく俺は夢でも見ているんだろう。
ババアやクロだけでもアレなのに、白ババアまで直接、俺に語りかけてくるようになりやがったからな。
それできっとこんな夢を観るハメになってるんだ。
俺がそんな事を考えている間にも、少女は俺の頭を撫でながら言葉を続ける。
「……そだね。キミにとって『今』は夢のようなものだろうね……」
まるで心を読んだかのような少女の返事に、俺はますます自分が夢を観ているのだと確信した。
「……それはわたしにも言える事だけど――」
と、膝に座らされた俺からは、その表情までは見えなかったが、少女は苦笑したようだった。
「わたしが観ている夢の中じゃ、キミはとびきりすごいね」
テーブルの上に古ぼけた本が現れていた。
その横には上下と中央に女の彫刻が施された砂時計があって、それがクルリと上下反転すると、中の虹色の砂が流れ出す。
本の周囲に、クロによく似た――けれど手のひらサイズの純白の竜型愛玩躯体が三体ほど現れて、大変そうに本のページをめくっていく。
絵本――というより、ババアの庵にあるマンガという形式の、絵が多めの書物のようだ。
「……最初はね、アリシアちゃんが主役だったんだよ」
小さな愛玩躯体がページをめくると、大ゴマでアリシアがカイルに剣を突きつけている。
「――でも……」
ページの内容が不意に描き変わり、倒れているのはアリシアになっていた。
カイルは王騎と合一し、手にした長剣の切っ先でアリシアの腹を引き裂いていた。
『――アイツの憧れの騎体を傷つけるなんて……できないよね……』
そう言い残して事切れるアリシア。
「……悲劇好きの彼女はいつだって、こんな風にわたしが好きになった子を終わらせちゃうんだ……」
愛玩躯体がページをめくっていく。
――イリーナ叔母上が。
――スクォールとウェザーが。
――ロイド兄とエレーナ姉が。
俺――アルベルト・ローダインがカイルによって玉座を追われた事をきっかけに、数奇な運命に巻き込まれていく。
その終わりはいずれも壮絶な死で――ひどい場合は世界そのものが壊されて終わるという……笑い話にもならないようなオチさえあった。
ダグとマチネまでもが俺の意思を継ぐのだと勇者を名乗り、カイルに……いや、アイツの身体に入り込んだ先代コートワイル侯に立ち向かっていた。
「……正直なところ、どうあってもこの物語は悲劇になるから、もう諦めてたんだ。
でも……」
二体の竜型愛玩躯体がページを戻していき、砂時計の中を落ちていた虹色の砂が逆流した。
やがて最初の白紙ページへと戻った本の、そのど真ん中に羽ペンを担いだ小柄な愛玩躯体が――
『――これは民を想って立ち上がった、真の王者による大逆転の物語である』
と、そう書き加えると、少女にドヤ顔で胸を張って見せた。
その愛玩躯体を両手で持ち上げ、少女は嬉しそうに頬ずりする。
「……この子がね、こうやって新たな物語を――流れを創ってくれたの。
そして、キミは――ううん、キミ達は、だね――とにかく、わたし達も思いもしない方法で、このどうしても壊れちゃう世界に、新たなページを加えてくれた!」
少女は愛玩躯体をテーブルに降ろし、今度は俺を頭上に抱え上げる。
「これがどれほどすごいことか!
きっとキミもキミの周囲もわからないだろうね。
アルベルトくん、キミは〈世界の法則〉さえ巻き込んで……ううん、わたしだって応援したくなっちゃってた。
そうして文字通り――そう記されたからじゃない、邪神でさえ認めざるを得ない、この物語の主役になったんだ。
――これって本当の本当にすごい事だよ!」
――なんだかよくわからんが、絶賛だな。
長々と俺を褒め称えた少女は、俺をぎゅっと抱き締めると囁くように続ける。
「……主役級の駒に認められる端駒なんてさ、本当にすごいよ……
……でも、だからこそ、わたしはキミをここに呼んだんだ……」
それは本当に小さな声で。
「……今回の事で、キミは明確に邪神に、この盤面――ううん、ここから続く物語の主役として認識されてしまった……
きっとこれからキミは、ひどく理不尽だと感じる……悲しい出来事に苛まれると思うんだ……」
そうして少女は俺を離し――いつの間にか首から下げられていた〈伝承宝珠〉に指を這わせる。
「でも、キミなら……亜神と化した悲しい心さえ救って見せたキミなら……きっときっと乗り越えられると思うんだよ」
少女が俺の顔を覗き込む。
「――きっとキミは、今でも自分のすごさを知らない……ううん、信じられないんだろうね。
だから……だから、挫けそうな時、心が壊れちゃいそうな時はイリーナちゃんの言葉を思い出して……」
叔母上の言葉……
「――君が認めさえすれば……それらは君の輝きを映してスフィアとなって……君自身の輝きとなるだろう……」
独り切りだと嘆く俺に、リディアが、イライザが――バートニー村のみんなが、家族だと言ってくれたあの日……
「そして真実、君はラグドールでも絶望に塗り潰されていたみんなに希望を示して、奇跡を引き起こして見せたんだ」
――それこそが君の……
――俺達の魔法。
……あの幸福過ぎる夜――俺はそんな言葉を思い描いたんだったな……
「そう。そしてその担い手にこそ〈伝承宝珠〉は輝くんだ」
少女は俺を本の上に置く。
「……ヒロシくんはさ、大多数の無意識が希望を求めた結果、空想感応物質が〈伝承宝珠〉を通して、現実と因果を都合よく書き換えてるだけだ――なんて言ってたけどね」
――そう苦笑して。
「この冷たく悲しい世界だからこそ、わたしはそれを――めでたしめでたしで終わる物語は、みんなで創り上げた『本当の魔法』の結果だと思うんだ」
俺の身体がゆっくりと本の中に沈み込んでいく。
少女は俺の頭を撫でて。
「――だから、負けないでね。がんばれ、アルベルトくん!
彼女が……邪神が歪めた〈世界〉の思惑さえぶっ飛ばして、キミはキミの思うままに――」
口元までもが本の中に沈み込んだところで――先程、ペンを担いでいた小さな愛玩躯体が俺の鼻先を拳で小突いた。
――負けんなよ。相棒……
そんな風に口元が動いて――
俺の意識は遠のいていく……




