第6話 33
私の話を聞いたイリーナは、しばらく考え込んだ末にカイルの封印を解く事に同意した。
『――ただし、それをしたらあなたはいよいよ、世界の敵として認識されるようになるよ。
アレを施したのは文字通り、この世界の護り手だからね。
それでも……あなたはあの子の封印を――ヒトの業を解き放つ覚悟があるかい?』
師の試すような視線と言葉。
だが、私は臆す事なくうなずいた。
「元々、カリーナ姉さんを復活させようという願い自体が、サティリア教会の禁忌に触れる所業なんだ。
神に睨まれようという私が、いまさら世界の護り手の敵になる事など恐れるものか」
それよりも……
「そう、それよりも――いずれあの狂人に付け狙われる事になるであろうカイルに、少しでも抗う術を与えてやりたい」
それがイリーナへの……魔道の深淵を惜しみなく私に与えてくれた師匠への、せめてもの恩返しになるはずだ。
『……なら、さ』
と、彼女は周囲を取り巻く霊脈をつまみ上げ、手の中でくるくると回した。
『――応えなさい……<世界の法則>』
初めて聞く前置詞。
イリーナの胸がまばゆく輝きだし、恐ろしい勢いで周囲の霊脈が彼女の手の中に流れ込んでいく。
『――我は遥か彼の地にて今も微睡む、夢穹の乙女が奏でた音なり……』
それはヘンルーダ師と共に旅をしていた時に巡り合った、土着民族が儀式に用いる歌にも似た韻律で――
『あらゆる嘆きを消し去る者よ……
――あらゆる痛みを癒やす者よ。
我は汝に像を与える……』
イリーナの手の中で霊脈が圧縮され――物質としての形を持っていく。
『――それは忘却の彼方に繋がりし『誰か』……
それは『いつか』を繋ぎし夢……
我は汝に名を与える』
長い……六節を超える魔道の詞――それは明らかに、彼女が儀式魔法に準じるそれを喚起しようとしていることを示していた。
「……銀晶……なのか?」
いまや彼女の手の中には、銀色に輝く球に近い多面体が生み出されていた。
『――失われし刻を超え、『いつか』と『誰か』を繋ぐ為――
――今ここに生まれ目覚めよ……』
さらに二節の詞を加え、彼女は虹色に染まった目で手の中の多面体を見下ろし――
『……やっぱり、肉体を縛られた今のわたしじゃ、これが限界か――』
と、苦笑。
『……そうだね……これは――<模造宝珠>。
込める唄は、<青の記憶>……だからこれは――』
転調――韻律が変わったことで、彼女が本来喚起しようとしていた魔法を切り替えたのがわかった。
イリーナの胸の輝きが、多面体の中に吸い込まれて行く。
『……結べ、<賢者の偽鍵>』
銀色の閃光が室内を染め上げた。
それが収まると――
『――おっとっと……』
イリーナの手から銀晶が落ち、乾いた音を立てて床を転がって私の爪先にぶつかった。
私がそれを拾い上げようとして触れた途端――多くの魔道器がそうであるように、その使い方が……そしてそれを喚起するための詞が、魔道器官の奥底から流れ込んでくる。
「――イリーナ、これは!?」
『わたしが識る限りの……先生の<書庫>から抽出した、あなたの目的のために必要な魔道知識さ』
意味がわからなかった。
「なぜ、そんなモノを私に?」
そう問えば、彼女はいつもの困ったような微笑みを浮かべた。
『……あなたの覚悟を見たからかな。
ああ、誤解しないで欲しいんだけど、いずれそれはあなたに与えようと思っていたんだ。
あなたの成長や理解力がわたしの想定より早くてね。
事実、今のあなたはそれに封じられている魔道知識を理解できているだろう?』
私はうなずく。
『なら、さ……ちょっと早いけど、卒業ってわけさ』
「――なぜ突然そんな事を!?」
思わず詰め寄る私に、イリーナは――心の底から嬉しそうに笑った。
『あなたがあの子を――カイルの事を気にかけてくれたから。
その為なら世界の敵となっても良いとまで言ってくれたから……私はあなたの為にこの身を世界に捧げるのさ。
……こんなわたしを師と呼んでくれた弟子のためにね』
「……そう、呼んでも良いのか?」
しかし、イリーナは微笑みのまま首を横に振る。
『わたしの事は、あなたのその願いが叶うその時まで、決して口に出しちゃいけない。
そんな事をしたら、あの鬼ババ様はまたたく間に嗅ぎつけて、あなたの願いそのものを消し去ってしまうだろうからね』
おどけるような笑みは、決して短くはなくなっていたこれまでの付き合いの中で、初めて見せるものだ。
『――さて、それじゃあ……はじめにした約束――わたしの願いを叶えてもらおうかな?』
「そ、そうだ! 私はまだ君の願いを叶えていない!」
レオン翁を封じる事がそうなのかと考えていた事もあったが、それを成した後も彼女は変わらず私への教示を続けてくれていて、どうやら違ったらしいと私も気づいていた。
『じゃあ、最後の授業だ。
先日教えた<記憶収集>は理解しているね?』
「ああ。君がくれた<賢者の偽鍵>で、恐らく喚起もできるはずだ」
『――その反転……<記憶消去>は?』
<賢者の偽鍵>には記されていないが、論理的には可能なはず――そう考えて、私はうなずき……
「……いや――まさかっ!?」
『そのまさかさ。わたしの記憶から、あなたに関する事柄すべてを消去して欲しい』
「――なぜっ!?」
怒鳴る私に、やはり彼女は困ったような微笑みを顔に貼り付けたまま、視線を上に向けた。
『……はじめから決めていた事だよ。
当初は別の理由でそうしたいと考えていたけど……』
「別の理由?」
『わたしがわたしであったという記憶を……消してもらおうと思ってたんだよ……』
私は息を呑んだ。
イリーナの意識があまりにも自然体だったから、私は失念していたんだ。
今も彼女の肉体は、聖泉によって癒やされるたびに切りあばかれ、ドニールの弟子達に日々、弄ばれている。
身体から遠く離れられないイリーナは、痛みこそ感じずに済んでいるようだが、肉体の生理反応を試すような実験――いや責め苦を、ひたすらに見続けてきたのだ。
その凄惨な記憶を消したいと願っていたとしても、不思議ではない。
『でもさ、あなたと出会い……リグルドやフローラ、アイリスやあの子の事を知れて……なにより、あなたという教え子を持てた事で気が変わったんだよ』
「じゃあ――!!」
記憶を消す必要などないだろう――と続けるはずの言葉は、イリーナが首を横に振った事で潰された。
『――本当はミハイルくんが主役かと思ってたんだ……』
ぽつりと呟いたのは、先王太子の名前だった。
『あの日、ベルノールに駆けつけてくれたみたいにさ……レリーナ姉さんやサリュートくんと共に、あの狂人を打ち倒してくれるって、ね……でも、違った』
王太子とその妃――イリーナの姉の死は……その原因となった呪具の話と共に、彼女に伝えていた。
あの時はなんでもない風を装っていたが……やはり双子の姉夫婦の死は、イリーナの中で衝撃的だったのだろう。
その証拠に――
『……わたしをその座に引き上げるつもりかとも考えたけど……それもどうやら違うみたい』
どこかぼんやりとした視線で、イリーナはそう呟き――それから不意に真剣な目で私の顔を覗き込んだ。
『たぶん、この場での出会いもまた運命――いつかどこかで起こるべくして起きる、偶然の積み重ねによって至る必然――幸運度偏向理論の為の布石なんだと思うんだ。
その為に、わたしから君の痕跡を消さなければならないのさ……』
「――意味がわからない!」
それまでもイリーナは、こんな風によくわからない言葉を用いて――そう、まるで世界の理自体を俯瞰するような、予言めいたことを口にしていたが、この時は飛び切りだった。
『……あなたなら、いずれ理解できる時がくるよ。
そうだ。今はこうしておこうか。
あなたが世界の敵とされるまでの時間稼ぎの為に、わたしからあなたの記憶を消去して欲しいんだ、と……』
クルリと身体を回して、イリーナは両手を広げる。
『いずれそう遠くない未来、この邪悪を詰め込んだ研究所は解体される。
その時に……助け出されたわたしがあなたの事を覚えていたら、あの苛烈で容赦のない世界の護り手サマは、なんとしてでもあなたの邪魔をしようとするでしょう』
ふ、と鼻を鳴らし――
『――それさえも……あの人の埒外の行動さえ利用して……わたしは本当に本当の――女神達なんかに仕立てられたんじゃない……この星が、ヒトが願った主役を生み出してみせる。
きっとその時、あなたの願いや想い……そしてその為に積み重ねた行動もまた、力となるはずだわ……』
――だから、と。
イリーナは言葉を続け、わたしを見つめる。
『わたしはあなたを……あなたの願いを潰させたりしない。
その為に、世界の護り手を騙す為にも、わたしの中からあなたを消す必要があるのよ。
さあ、約束を果たして……スクォール』
もはや彼女の意思は堅く、決してひるがえさせたりできないのだと……私は気づいてしまった。
手の中の銀晶――<賢者の偽鍵>から<記憶収集>を引き出し、それを手早く書き換える。
「……あの子に――カイルになにか伝える事はあるか?」
彼女の中から私が失われて後、私が彼女の元を訪れる事はなくなる。
私達はそもそも出会っていない事にしなければいけないのだ。
だから、これがイリーナからカイルへの言葉を届ける最後の機会――
けれど、彼女は首を横に振った。
『いまさら母親の言葉を届けられても、あの子を悲しませるだけだわ。
ただあなたが……リグルドもフローラも居なくなってしまった今、唯一わたしを知るあなたが、代りとなってあの子とアイリスの行く末を気にかけてくれたなら……それで満足よ』
「……任された」
『……ええ。頼むわね。
いつかきっと、あなたの願いが叶うと信じてる』
彼女は祈るように両手を組んで目を閉じた。
「――ありがとう。師匠……」
そうして……私はイリーナの記憶から、私自身を消し去った。




