第6話 30
「――これがベルノールの魔女だ」
本物を知っている私からしたら、ひどく低劣な聖泉もどきの中に寝かされたイリーナ・ベルノールは、本当にひどい有様だった。
水槽のような本物と違い、大浴場の浴槽ような形状の聖泉の縁で、私達はそこに沈められた彼女を見下ろす。
四肢を切り落とされ、両目もえぐり取られている。
頭を切り開いたのか、髪はすべて剃り上げられ、聖泉に浸かっているというのに、まだその痕が残っていた。
全身に刻印が施され、それが彼女の身体を巡る魔道を乱しているのがわかった。
そばにある円筒水槽に浮いているのは、彼女から切除した手足や目玉。
私をこの部屋に呼んだ魔道士によれば、彼女の肉体――それを巡る魔道を利用して、優れた魔道器を作れないか研究しているのだという。
ヘンルーダ師の弟子の中にも、彼らのように狂気に走って破門された者もいた。
師自身が、その先にはなにも得るものはないと知っていたからこその措置だったのだが、今や天帝の支持を得て、帝国魔道科学の主流は彼らのような者達になっているそうだ。
あまりにも凄惨な光景に、私は不快さが表情にでないよう努めなければならないほどだった。
「――それで君達の実験体を自慢する為に、私を呼びつけたのか?」
呼びつけられた不快感を示した体で、目の前の光景に歪んでしまった表情を隠す。
当時の私はこの研究所の支配者――レオン・コートワイルが突きつけてきた難題に、日々頭を悩ませているところだったのだ。
「お、お忙しいのは承知しておりますが、我々ではどうしようもなく――レオン閣下が導師に相談するように、と……」
愛想笑いを浮かべて、彼の狂人の名を出す魔道士に私は思わず舌打ちした。
私の前任――ドニール導師は彼らをどう指導していたのだろうか。
「……訊けば応えてもらえると思っているような者が、魔道研究員気取りとはな……」
リグルドに招聘された私や弟子達と違い、彼らは在野の――元冒険者や、大学からあぶれて私塾を開いていた者達を、ドニール導師が弟子という名の助手として招いたんだったか。
「――スクォール導師? いまなにか?」
「いや、独り言だ。それより訊きたい事とは?」
そう尋ねると、魔道士は聖泉の中のイリーナの胸の辺りを指差した。
「先日、スクォール導師がこの研究所にもたらしてくれた魔道器官に施された封印を利用して、被検体の魔道器官そのものへ介入しようと実験していたのですが……」
それはまさにあの当時、私が頭を悩ませていた問題でもあった。
余命幾ばくもなくなった狂える老人は、自らの老いた肉体を捨て去り、他者へと乗り移る術を探せと私に命じていたのだ。
ヘンルーダ師の元での研究や、西方諸島のあの遺跡での発見によって、魂とは魔道器官に内包されている事は知っていた。
つまり魔道器官を再生できれば、カリーナ姉さんの復活も叶うかもしれないと、当時はそう思っていた。
だが、それこそが最大の問題でもあったのだ。
どれほど肉体を再生しても、魔道器官とその内側の魂に介入する術がなくては空っぽな肉人形しか再生されない。
そして、この問題はレオン翁の望みでも障害となっていた。
心臓の裏側――魔道的に別位相に存在する魔道器官を物理的に摘出し、それを他者へ移す……
どちらも魔道器官や魂という物理的に存在しない概念存在に介入しなければならない、現代魔道科学では未知の分野での手法だった。
「……これを見てください」
イリーナを見下ろして考えを巡らせる私をよそに、魔道士は治癒液を波立てて聖泉に踏み込み、彼女のそばにしゃがみ込んだ。
私の目が、魔道士がイリーナへと魔道を通すのを捉えた。
彼女の身体にさらに刻印を施そうとしているのだ。
「うぅ……あ……」
イリーナがか細い声で呻いた。
全身に施された刻印が、魔道士の魔道に呼応するかのように赤黒く発光する。
だが、魔道が魔道器官の封印を越えてさらに突き進もうとしたところで、不意に――まるでそこに結界でもあるかのように、彼の魔道は消失したのだ。
「誰が試しても、この調子でして……
他の被検体では問題なく封印に関連付けて刻印を刻めるのです。
ベルノールの魔女特有の状態なのか、とにかく我々ではわからず……導師のお知恵を拝借できればと、ご相談に伺ったのです」
私は鼻を鳴らした。
「事情はわかった」
そう告げれば、魔道士は喜色を浮かべる。
「少々、集中したいので、ひとりにしてくれるか?」
「あ、はい。そうですね!」
私の要求に、この部屋にいる魔道士達は素直に同意する。
弟子達であれば、私の知恵を盗もうと助手を願い出たりもするのだろうが、この場の彼らは研究のその成果や結果だけが欲しいのであって、過程やその為に必要になる手法はどうでも良いのかもしれない。
そんな彼らに好き勝手に実験されているイリーナが、余りにも哀れだと思ったのを、今でも克明に覚えている。
「――さあ、みんな行くぞ!」
そうして魔道士達は部屋を出ていき、私だけが聖泉もどきの縁に残された。
しばし待って誰も戻ってこないのを確認し、私は入り口の扉に<施錠>の魔法を施す。
「……これで誰にも邪魔されないだろう」
そうして、私は私の背後に視線を向けた。
途端――彼女は私と目線が合って、驚いたようにその金色の両目をしばたかせた。
『――わたしが視えるの!? というか、この声は聞こえてる!?』
――そこには精霊を集めて肉体としたような、半透明にほの光るイリーナが漂っていた。
「ああ。これでも赤目を得て導師級を名乗ってる魔道士だからね。
以前、霊脈知性体――妖精の研究をしていた時に、身体強化の魔法の応用で目と耳を集中強化することで、彼らと対話できるように気づいたんだ。
まあ、君のような存在と話すのは初めてだけどね……」
彼女に気づいたのは、彼女の魔道器官に魔道士が魔道を流し込もうとした時だ。
目を強化して魔道の流れを視ようとした時、彼女の魔道器官から銀色の糸が伸びているのが見えた。
それを辿ると霊脈にたゆたうようにして、こちらを――いや、私を観察する彼女が視えたというわけだ。
『……自力で汎用魔法を組み替えたの? あなた、すごいわね……』
「魔道の大家、ベルノールの嫡流に褒められるとは。
私の半生も無駄ではなかったという事かな」
苦笑して見せると、彼女は意外そうな表情を浮かべる。
『……あなた、まだそんな風に笑えるのね……』
イリーナがそんな事を言い出す理由は、すぐにわかった。
レオン翁の狂気に引きずられ、もはやこの研究所でまともでいられる者は少ない。
なるべく他部署と関わらないようにさせている、私の弟子達でさえ笑みと言えば疲れたような微笑がせいぜいだ。
「……リグルドとフローラのお陰でなんとかね……」
レオン翁の目を盗み、私を気遣ってくれるあの若夫婦の存在が、私をなんとか正気に繋ぎ止めてくれていた。
――もうじき……あと少しで父も力尽きるはずだ。それまではなんとか耐えて欲しい。
会うたびに、そう励ましてくれるリグルド。
彼らもまた、レオン翁の恐怖に苛まれているというのに、それでも私を励ましてくれていたのだ。
だから私も、なんとか彼らを励まそうと――
「それに、私には叶えたい……いや、叶えなくてはいけない目的があるからね……こんなところで折れちゃいられないよ」
リグルド達に告げるのと同じ言葉を、私はイリーナに告げる。
『へぇ……目的?』
イリーナは宙を泳ぐように私の目の前までやって来て、その手を私の胸に伸ばし――
『――ちょっと観せてもらうね?』
瞬間、彼女の半透明な手が、私の魂に触れたのがわかった。
『……ああ、そっか。ベルン兄さんの――それでおじさんは樹海に……』
顔をあげて私を見つめる彼女の瞳は――周囲を漂う霊脈を映したような、虹色に染まっていた。
――そして……
『――あなたは……亡くなったカリーナお姉さんを蘇らせたいんだね?』
私の半生を費やしたそれを言い当てられて、私は息を呑んだ。
ヘンルーダ師にさえそれを口にした事はない。
死者の蘇生は生と死を司るサティリア教会における禁忌で、だからこそそれを目指しているヘンルーダ師は、アグルス帝国の庇護から逃れる事ができない。
私は師の元で師事している時も、あくまであの方の理念に賛同しているという体面を保ち、特定の誰かの復活を匂わせるようなヘマはしていないはずだ。
だというのに、目の前のイリーナは、いともたやすくそれを言い当てた。
「……君は……心を読めるのか?」
『ん~、惜しいね。正確には記憶を読めるのさ。
脳が処理して魂に溜め込まれ、いずれ霊脈へと散って保存されていく――ヒトの心の記録をね』
そうして彼女は私の前に仁王立ちになり――
『カリーナお姉さんを慕う君がここに現れたのも、いじわるな女神様達の思し召し――運命なのかもね。
ならわたしは、それに乗ったフリでせいぜい抗ってやろうじゃないか」
そうひとりごちて、私への右手を差し出した。
その顔に浮かぶのは、私を送り出した時のカリーナ姉さんとよく似た、私を励まそうとしているのがわかる、挑発的な微笑みで。
『――君が求める叡智を、わたしが授けてあげるよ。
だから、ちょっとわたしの願いも聞いて欲しいんだ』




