第五章
僕達はその日、たまたま見つけた公園を散歩していた。大きな公園で、歩いてぐるりと一周するのには二時間ほどかかると案内板に書いてあった。その公園は、遊具などは僅かしかなく、子供達を遊ばせるというよりかは寧ろ、大人達がゆっくりと時間を過ごすために存在しているようだった。周りは木々に囲まれており、こうして散歩をするにも、バードウォッチングをするにも、ピクニックをするにも使えそうな公園だった。
僕とマルクは色々な話をしながら公園の外周に沿って作られた散歩道を歩いていた。昼ご飯を食べた後の食後の運動にここは心地良く、口調も自然と軽くなる。
「ワタル、ビートルズの『P.S. I love you』は知ってる?」
「知らないな。ビートルズは『Yesterday』とかの有名所しかわからない」
「良い曲だよ。今度機会があったら聴いてみるといい」
「そうするよ」
僕はビートルズについて一つ思い出した話があるので、それをマルクに話した。
「そういえばマルク、ビートルズのドラマーでリンゴ・スターがいるでしょ?」
「リンゴのハイハットシンバルの叩き方は独特なんだ」
「そのリンゴの息子が、前にオアシスっていうUKバンドのドラムを叩いていたことがあるんだ」
「ザック・スターキーだね。彼のドラムはどう?」
「とてもワイルドだね。ビートルズからは想像もできないくらい」
「今度聴いてみよう」
「お勧めは『The shock of the lightning』だよ。ドラムソロが格好いいんだ」
「覚えておこう」
僕達はひとしきり音楽の話題で盛り上がった。マルクは昔の洋楽が好きだった。そして僕は最近の洋楽が好きだった。お互い洋楽という根本の趣味は共通しているから、話はとめどなく溢れてきた。それぞれの情報交換が楽しかった。
しばらく歩くと、タンポポの花が一面に咲き誇っている広場に出た。横には小さなステージがある。きっとこの時期、近くの学校の吹奏楽部か何かがこの場所で演奏会を行うのだろう。観客は若々しいブラスバンドの演奏と地を埋めるタンポポにしばし心を奪われる。そんな情景が僕の頭に浮かんでは消えた。
「すごいね」
僕は感嘆した。隣でマルクもこの光景に目を奪われて頷いた。目の前に広がる鮮やかな黄色は、脳にいい刺激を齎した。
僕達がステージに腰掛けて休んでいると、僕達が今来たのとは反対方向の道から、一人の女性が現れた。彼女は真っ直ぐで茶色い髪を靡かせていた。端整な顔立ちは自然と僕の目を惹きつけた。そして彼女は、その細い体を車いすに埋めていた。
僕は彼女の美しさに見とれ、しばらく静かに彼女を見ていた。すると、僕の視線に気が付いたのか、彼女がこちらを見た。僕は少しドキッとして一瞬目を逸らしたが、それは失礼だと思い直って彼女に小さく会釈をした。彼女も挨拶を返してくれた。にこやかな笑顔は清純で、一切の汚れもそこには存在しなかった。
彼女はこちらにやってきて、声の届くところまで近づくと「こんにちは」と言った。
「こんにちは。お散歩ですか?」
「ええ。私、ここが好きなんです。この時期が特に。もういてもたってもいられなくて、来ちゃいました」
彼女はマルクと同じくらいの年ごろに見えた。大人なのだが、本当に落ち着くにはまだ早い、段々と大人としての自分を形成していくような、そんな年代。
「ここのタンポポ、大好きなんです」
「わかります。僕達は初めてここに来たんですけど、この光景には目を奪われてしまいました。あなたの気持ちは、よくわかります」
「ありがとう」
彼女は本当に嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていると、こっちまで嬉しくなってくる。彼女には、人を喜ばせたり微笑ませる力が備わっている。
「ご兄弟ですか?」
僕とマルクは顔を見合わせた。そして少し経ってから笑う。
「兄弟ではないんです。何ていうのかな、友人です。一緒に旅をしている」
「一緒に旅ができる友人なんて羨ましいです。そんな人には、なかなか巡り合えないものですからね」
「僕は運が良かったと、最近よく思います。あなたはお一人ですか?」
「ええ。実は、病院からこっそり抜け出して来たの。ほら、あそこに大きい病院が見えるでしょう?」
彼女が指を差した先には、この公園の森の奥にそびえる大きな白い病院が見えた。無骨なコンクリートで周りを固め、閉塞感が充満していそうな病院だった。マイナスな意見しか出ないが、そもそも病院にプラスの意見を求めること自体が間違っていると思い至り、僕はそれ以上病院について考えるのをやめた。
「抜け出してきて、大丈夫なんですか?」
「いいの、常連だから」
彼女は悪戯っぽく笑った。常連ということは、彼女は長いことあの閉塞空間に密閉されているのだろう。僕はそれを想像して、抜け出したくなる彼女の気持ちを理解した。
「私はクルス。あなた達は?」
「僕はワタル。友達はマルク」
マルクは一歩踏み出して、小さく頭を下げた。クルスもそれに応じた。
「病院という場所の息苦しさは、俺も知っています」
マルクが初めて口を開いた。そういえば、彼も昔は病弱でよく病院に通っていたのだ。クルスの気持ちがわかるのだろう。
「本当、嫌になりますよね」
クルスは苦みを浮かべて笑った。その笑顔は、僕に息苦しさを感じさせた。僕は幸いなことに入院をしたことはないからわからなかったが、病院というのはこういう種類の息苦しさを感じさせるのかと納得できる笑顔だった。
「あんなとこ、できれば長くいたくない」
「私も同じ気持ちです」
それから僕達は、少し話をした。マルクもクルスとは同年代だから話しやすかっただろうし、僕も年上と話すのは苦にならない人間だから、会話はスムーズに進んだ。お互い段々と口調も柔らかくなり、様々なことを話題に出した。
「私は病室でずっと絵画集を見ているの。色んな人のね。ゴッホとか、フェルメールとか、レオナルド・ダ・ヴィンチとか。絵はどんな絵でも好きだから」
「へぇ、マルクと趣味が合いそうですね」
「マルクさんは絵を描くの?」
「俺はグラフィティアーティスト。落書きばかりだけど、絵描きには変わりない」
マルクが言うと、クルスはいつもより少し目を大きく開いた。同じ趣味の人を見つけると、心というものは躍るものだ。
「私、グラフィティアートって好き。あの自由な感じが。あの絵の中には束縛や形式や順序っていう堅苦しいものがなくて、ただ心を表現してる。それが好きなの」
「俺の絵をお見せしましょうか?」
マルクはにやりと笑ってクルスを見た。彼女は目を輝かせて「ぜひ」と返事をした。
「きっと、驚きますよ」
僕がそういうと、クルスの目の輝きは一層増した。マルクはステージの上に登り、壁の前にスタンバイした。
「ミス・クルス。何か見たいものは?何でもいい」
クルスは軽く腕を組んで考えた。そして視線をめぐらせる。しばらくして思い立ったのか、彼女は真っ直ぐマルクを見た。
「じゃあ、紫陽花を」
「紫陽花?」
僕は聞き返した。紫陽花の時期はまだ少し先だ。
「私はね、季節の移ろいを花で感じる人なの。今はタンポポの季節。そしてやがて、紫陽花の季節がやってくる」
そこでクルスの顔に、悲しみの影がふっと落ちた。その目には何も見えていないようだった。眼下に広がる数多のタンポポでさえも。
「……私ね、実は、紫陽花を見ることができないかもしれないんだ」
僕とマルクは、黙って彼女を見た。この状況は口に出して尋ねるよりも、無言を続きの催促とする方が適当に思えた。
「もうすぐ、この命が尽きるの。何でかな、わかるんだ。自分が確実に死に近づいていっているのが。先生も、もう長くはないって言ってた。それは、自分が一番よくわかってるつもり。だから、お願い。死ぬ前に、私に紫陽花を見せて。紫陽花は私にとって特別なの」
「わかりました。では、ミス・クルス。ご覧に入れましょう。俺の落書きを」
マルクは左手をそっとステージの壁に当てた。絵の具が伸びていくように、彼の左手から色が伸びていく。クルスは驚いて声も出ない様子で、大きく開けた口に手を当てていた。
壁に広がっていった色はやがて紫陽花を描き出した。水彩絵の具で描いたような色調の紫陽花で、青と紫が溶け合い、幻想的な色を表している。深緑の葉には雨粒が巧みに描かれ、花の色を引き立たせていた。
「すごい……」
絵を描き終わったと同時に、クルスがポツリと呟いた。そして、その目からはぽろぽろと涙が零れ落ちた。
マルクは壁から手を離して絵が消えるのを見届けると、クルスの元にやってきてハンカチを差し出した。
「ごめんなさい」
「こういう時は、『ありがとう』と言った方がいいんだ。その方が自分も相手もいい気分になれる」
マルクが優しく言うと、クルスは小さな声で「ありがとう」と囁いた。
「マルクの絵は、感動的でしょう?」
泣き止んだクルスに、僕は話しかけた。泣いていた女性に対する応対の仕方なんて知らないが、僕なりに、不器用にやってみよう。
「ええ、とても。私、心奪われてしまったみたい。あんなに素敵な紫陽花を見たの、人生で二度目」
「一度目はどこで見たんですか?」
僕の質問に、彼女は遠くを見るようにそっと目を細めた。その仕草がとても可憐に見えて、僕は彼女の目を見つめた。
「あれは、私がまだ十二歳の時……。私の祖父母が、とても絵が好きな人でね。私はよく、近くにある美術館に連れて行ってもらってたの。もっと小さい時は絵なんて退屈だし、美術館では静かにしてなきゃいけないから嫌だったけど、その頃になると、段々絵の面白さがわかってきて、美術館に行くのが楽しみになっていたの。そんな時、私は一枚の絵に出会った」
クルスは目を閉じて、当時の様子を思い出しているようだった。きっと彼女の瞼の裏にはその絵が映っていることだろう。
「その絵に描かれていたのは、見事な紫陽花だった。濃いピンクと淡いピンク、二色の花弁。そしてその色を引き立たせる鮮やかな葉の緑。その奥には、濃い紫と淡い青の花をつけたもう一種類の紫陽花。空は灰色にくすんでいて、雨が降っていた。雨粒が葉に当たってミルククラウンを作っていたのを、今でもよく覚えているの。それって、まるで葛飾北斎並みの動体視力がないと描けれないものだな、と思って、これを描いた人はそういう才能もあったんだ、って感心した。私の当時の身長くらいのキャンバスに描かれた紫陽花は、とても伸びやかで温かみがあった。雨の情景がリアルで寒くなってくるくらいなのに、何故か心は温かくなれた。きっと、描いた人は心を込めてこの絵を描いたんだなぁって、幼心に思ったな。そんな思い出があるの」
「素敵な思い出だ。大事にできる思い出があるということは、それだけで幸せなものだね」
マルクが先ほど貸したハンカチを受け取りながら言った。クルスはマルクの言葉に嬉しそうに頷いて、空を見上げた。空はどこまでも高く、水色から群青へのグラデーションが美しかった。そこにぽつりと浮かぶ一つの雲は、他の仲間達を探すために流れ、やがて形を変えて他の雲と合流した。どこかでチチチ、と鳥が鳴いていた。
「私ね、その紫陽花の絵がどうしても忘れられなくて、私もいつかこんな風に人を感動させられる絵を描けたらいいなと思って、画家になろうと決めたの。画家になって、人の心に作品を残したいなって。だけど、高校生の時、今の病気にかかってしまったの」
彼女は空を見上げるのをやめた。空には、自然な色彩を邪魔する無骨な飛行機が飛んでいた。
「病魔に蝕まれ続ける内に、いつしか夢なんて持つのをやめてしまって、絵も全く描かなくなった。今の私が描けるのは、今にも消えてしまいそうな薄っぺらな絵だけ。人の心に残せる作品なんて、とてもじゃないけど描けない。入院生活なんて暇だから、色々なことを考えるの。病気になっていなかったら、今頃私は好きなだけ絵を描いて、ルーブル美術館に足を運んで、そこで更に元気をもらって……っていうようなこと。そう考えるたびに、虚しくなるんだ。そんな虚しさを消してくれるのが絵なの。素晴らしい作品を見ていると、世の中にはこんな素晴らしい絵が溢れているんだなぁって思える。けれど、結局自分では描けないから、また虚しくなる。変な悪循環になるんだ。絵に助けられているのに、それが羨望や僻みになってしまう。そんな自分が嫌で、どうしようもなく嫌になると、こうして病院を脱走して公園に来るの。そうすれば、気分が晴れるから」
クルスは悲しそうに微笑んだ。今にも涙がこぼれそうな笑顔だった。僕がどう返事をしようか迷っていると、マルクが車いすの傍に屈んだ。
「俺には、夢があるよ」
マルクは下からクルスの目を覗き込んだ。マルクは静かに微笑んでいた。そして、自然にクルスの膝に手を置いた。
「俺の描いた絵で、人を幸せにすることだ」
マルクは、言ってから少し照れて、人差し指で頬を掻いた。
「俺はね、わからないんだ。俺の描く絵には、何か意味があるのか。俺の描く絵で、人は幸せになれるのか。でもね、いつか、俺の描いた絵で人を幸せにしたいんだ。どんな形でもいい。幸せの形なんて人それぞれだから、いろんな形になればいいと思う。俺の絵が、その人にとって何か、婉曲的でもいいから、影響を与えたい。そんな風に思うようになったんだ」
「素敵な夢だと思う」
クルスはマルクの目を見つめながら言った。
「君は夢を捨てるにはまだ若すぎる。病気になったからって、夢まで諦めることはない。病気だから夢を諦めなきゃいけないなんて、辛い話だ。絵は、病気になったって描ける。両手がなくなったら足でも描けるし、足もなくなったら口で描ける。君には絵を描くための手があるじゃないか。なら、描けばいい。物事は、一見複雑に見えても、実は単純だっていうことがよくあるんだ。君は絵が好きだ。だったら、描けばいいんだ。ね、簡単でしょ?」
「でも……絵を描いたって、見せる人もいないし、ただ虚しくなるだけだよ」
「なら、俺が見る。俺が君の絵を見て、そのお礼に俺も君に絵を見せる。絵の交換だ。そうすれば、お互い嬉しい気分になれる。どう?」
「……何で、私のためにそこまでしてくれるの?」
「不思議と繋がった絆だ。俺はそんな繋がりを、大切にしたい。殊、絵が繋いでくれたものは特にね」
クルスはしばらくマルクを見つめながらしばらく迷っていたが、やがて一つ頷いてマルクの手を握った。
「私、絵を描いてみるね。久々だからうまく描けるかわからないけど……。でも、やれるだけやってみる」
「楽しみにしてる」




