第六章
あれから僕達は、クルスと次に会う約束をして別れた、そして約束の日、僕とマルクはあの公園のあの場所でクルスを待っていた。しばらくすると、クルスが車いすを漕ぎながらこちらにやってくるのが見えた。僕達は彼女の元に歩み寄って、僕が車いすを押した。マルクは彼女の隣を歩いている。
「体調はどう?」
「おかげさまで調子はいいよ。……私ね、久々に絵を描いたの。そしたらね、なんだか体の奥から沸々とエネルギーが出てくるんだ。びっくりしちゃった。お医者さんも、看護師さんも、私の体調が急に良くなったから、驚いてた」
子供のような笑みを浮かべながら話す彼女は、とても眩しかった。この人は本当に絵を描くのが好きなんだ、と思った。
「それは良かった。早速、見せてくれる?」
「どうぞ」
クルスがマルクに丸めた何枚かの紙を渡す。彼がその紙を開くと、クルスは恥ずかしそうにマルクから視線を外した。僕はマルクの後ろからその絵を覗いた。
彼女が描いた絵は、全部で三枚あった。どれも色鉛筆で描かれていて、色彩鮮やかな風景画だった。色鉛筆の微妙な濃淡を駆使した山の陰影や海のグラデーション、更にはヨーロッパを彷彿とさせる街角。それらがとてもきれいに、繊細に描かれていた。
絵には作者の心が投影される。それらの絵は、クルスのデリケートな心を表したようだった。両手で包み込みたくなるような、そんな三枚の絵だった。
「人に絵を見せるのって、子供の時親に見せたくらいだから、なんだか恥ずかしい。ごめんね、下手な絵で」
「とんでもない」
僕は反射的に声を出していた。これが下手だというのならあらゆる画家が矮小に見えてしまう。それほどまでに彼女の絵はうまかった。色の使い方、そして技巧的な面でも、彼女はその辺の画家もどきにひけはとらなかった。寧ろ凌駕している。
「すごい。この街角の絵なんて、とてもロマンティックだ」
「それは、ロンドンの街。私ね、前に一度だけ、ロンドンに行ったことがあるの。その時に見た、何気ない街の風景が気に入って、ずっとカフェに入って街を眺めてたんだ。その時を思い出して書いた絵だよ」
クルスが視線をこちらに戻して言う。彼女の顔の表情から、そのロンドンの街がどんなに素晴らしいものか、想像がついた。
「全ての絵にロマンと輝きが溢れているね。人の心にじんわりと浸透する、温かみを持った液体のような印象を受ける絵だよ。俺は、こういう絵って好きだな」
マルクが称賛の言葉を口にすると、クルスは頬を赤く染めた。人に自分の絵を褒められるというのは、どういう気持ちだろう。きっと、喜びが心に湧き出るような感じなのだろうな、と僕は思った。
「この絵、もらっていいかい?」
マルクが聞いた。クルスは一瞬呆けた顔をした。何を言われたのかわからない様子だ。
「え?」
「この三枚の絵、俺にくれないかな?気に入ったんだ」
クルスはその言葉の意味をゆっくりと噛み砕き、自分の中に取り込んだ。そして、顔が真っ赤に染まる。
「ええっ、でも、そんな絵で、その、申し訳ないというか……」
「申し訳ないなんて思わなくていいさ。俺はただ純粋に、君の描いた絵を気に入ったんだ。君のタッチはとても俺好みだし、この絵も申し分なく良い。俺は特に風景画が好きなんだ。この絵は、俺の心をがっしりと掴んだ。君さえよければ、欲しい」
そんなに褒められ慣れていないせいか、クルスは車いすの上で両手をバタバタと動かしながら色々な場所に視線を動かしていたが、やがて大人しくなると、目を伏せて窺うようにマルクを見た。
「そんな絵で良ければどうぞ……」
「ありがとう」
マルクは欲しいものが手に入った子供のように微笑んだ。考えてみれば、彼のそんな表情を見るのは初めてだった。
「今度は、俺の番だね」
マルクは言って、ステージの上にひょいと飛び乗った。僕は壁がよく見える一等席にクルスを案内した。
「何が見たい?」
お決まりの質問をマルクがすると、クルスは少し悩んで、いいものを思いついたというように顔を上げて、マルクに言った。
「あなたが描きたいもの」
その言葉に、マルク一瞬固まる。その姿はまるでおどけているピエロのように見える。
「俺が描きたいもの?」
クルスはサプライズが成功した時のような顔になって、マルクに笑いかけた。
「そう。今あなたが何を描きたいか。私は、あなたの気の趣くままに描かれた絵が見たい」
「……いいでしょう」
そういうと、マルクは左手を壁に当てた。彼の左手を拠点に、色が広がっていく。暖色系の色が主として使用され、そこに淡い藍色や黒色が輪郭を縁取る。
「……!」
クルスは、両手を口に当てて驚いた。初めてマルクの絵を見た時よりも、大きな驚きだった。それもそのはずだ。マルクが描いた絵は、笑顔が輝いているクルスだったからだ。
柔らかいが、内から溢れるエネルギーを前面に押し出したようなその笑みは、クルスの顔にとてもよく似合っていた。
「どうかな?俺が今、一番描きたいものを描いてみたんだけど」
クルスが空気を求める魚のようにぱくぱくと口を開けて頷く。
「びっくりした……」
「さっき君が絵のことについて話している時の笑顔がとても印象に残ったんだ。俺は、その純粋な笑顔を描きたいと思ったんだ」
「ありがとう」
「それは、俺の台詞さ」




