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第四章

 ハーストと別れて、僕達は小さな喫茶店で昼の食事をしていた。喫茶店には僕達しかいなかった。食事時を外れているからだろう。僕はサンドイッチとオレンジジュースを頼んで、マルクはコーヒーとハンバーガーを頼んでいた。

 先に飲み物が来て、僕達はそれで喉を潤した。アメリカの西海岸を意識した店内には、サーフィンボードや椰子を象ったオブジェがあった。流れている音楽は、ビーチ・ボーイズの「サーフィンUSA」だった。これでもかというくらい店内と合っている。

「ねぇ、マルク」

「何だい?」

 サンドイッチとハンバーガーを待つ間、僕はマルクに問いかけた。

「マルクはいつからグラフィティを描いているの?」

「二年位前、かな。俺はね、前に病気で死にかけたことがあるんだ」

 僕はオレンジジュースから唇を離した。とても素直に聞き過ごせないようなことを、今言われた。

「二年位前、俺は病気で死にかけた。元々病弱だったんだ。それで、二年前に一番大きな発作が起きた。そして俺は救急車で運ばれ、三日三晩死の淵を彷徨った」

「本当に?」

 僕はそれが本当の話であるとわかっていながらも、そう聞いてしまった。マルクは深く頷いて、コーヒーを一口啜った。

「その間、俺は奇妙な夢を見ていた。素晴らしい楽園に(いざな)われた夢だ。周りは豊かな木々が茂り、その木には美味しそうな果実や木の実がたわわに実っている。流れる川は透明に透き通っていて、川底にある石の色まではっきりと見えた。気候は温暖で、暑くもないし、とても過ごしやすかった。水も食料も不自由しないまさに楽園で、俺は、独りだった。何も困ることのない状況の中、俺はどうしようもない孤独感に支配された。目の前に広がる楽園も、地獄に見えた。魅力の欠片もない、最低の空間に思えてしまったのさ。そんな夢を、ずっと見ていた。そして意識を取り戻した時、俺はこの左手に違和感があることに気が付いたんだ」

「違和感?」

「そう。何だかね、左手が疼いたんだ。まるで血管の中にミミズが這いずり回っているみたいな、奇妙な疼きが感じられた。初めてのことだったんだ。どうしたらいいかわからないけれど、とりあえずこの疼きをどうにかしたいと思った。それで、左手が趣くままに近くの壁に手を当てた。そして、俺は見ていた夢を思い浮かべたんだ。上辺だけの楽園。その中に俺が一人で佇んでいる。そんな情景を」

「そしたら、絵が描けた?」

 マルクは再び頷いて、今度は水を一口含んだ。時間をかけて水を飲み込むと、マルクはどこか遠くの景色を見るような目をして、続きを話し出した。

「これは能力っていうのかな。この力に目覚めてから、俺は病気が快復した。医者もびっくりだった。長年体を蝕み続けてきた病魔が、一片の欠片も残さず消えてしまっているんだから。学術上の説明はできないって言われた。奇跡としか言いようがないと。医者が奇跡なんて言葉を使うから、俺はついつい吹いちゃったよ。……それ以来、俺はグラフィティアーティストを名乗り、旅をしてグラフィティを描いている」

「マルクのその力は、人を幸せにする。実際、僕もそうだった。それに、僕達が出会ってきた人達も。僕が見ていない、マルクが出会ってきた人達もそうかもしれない」

「そんな、大層なものじゃないんだ」

 その言葉は、一種の物悲しさを帯びていた。マルクは下を向いて、膝の上で両手を軽く組んでいた。人差し指を動かしながら、哀しそうな表情をする。今にも涙が溢れて流れ落ちそうな、そんな表情だった。

「俺はね、ワタル。この力に、限界を感じているんだよ」

 それは、衝撃的な一言だった。

「限界?」

 僕は驚きのあまり声が裏返ってしまった。今店内で流れている「サーフィンUSA」のコーラスのような美しいファルセットではなく、声変わり間もない少年が不意に出してしまうような裏声。

 マルクはそんな風に驚いた僕など目にも留めず、ただ儀礼的に頷いた。彼の視線は僕の斜め後ろにあるウクレレに注がれていたが、そんなものを見ていないことは明白だった。

「ワタルは、何回も見ているだろう?俺がグラフィティを描き、そしてそれが消える所を」

 僕はマルクが一枚の絵を描き上げるところを想像した。あの一連の動作が、脳裏にはっきりと浮かぶ。そしてその絵は、彼が手を離すと消えていく。じっくりと、時間をかけて。

「俺は、自分の絵が消えてしまうと、ひどく寂寞とした気持ちになるんだ。ストリートグラフィティは、遅かれ早かれ誰かに上塗りされてしまうものだから、消えてしまうのは仕方がない。だけどね、俺の場合は、俺自身が、自分の絵を消さなきゃいけない。俺の絵は、俺が左手を置いている時間だけしか描かれない。いつかは手を離して、自分の作品を自分で無にしなければならない。それがどうしようもない虚無感を引き起こすんだ。俺の描いたものは何も残さないということを、ありありと突きつけられているようで、絵を描くたびに俺は、乾燥した砂漠に一人で佇んでいるような気持ちになるんだよ」

 僕は、しばらく何も言えなかった。言おうとしても、声帯がうまく震えない。喉から必要な水分が失われてしまったようだ。

「勿論、グラフィティを描いている時は気持ちがいい。君に前言った通り、そんな時の空気はとても美味しいんだ。だけどね、俺をとてもいい気分にさせてくれた絵を消さざるを得ないとき、俺は寂寥感に押し流されそうになる」

 初めて、マルクを見た気がした。僕は今まで、彼と一緒に旅をしておきながら、彼の本質を何も見極めてはいなかったのだ。だが今日、たった今、マルクの中にある心を見た気がした。センスに溢れ、人を楽しませることが好きな壊れやすい心。それがマルクという一人の男の中身であり、正体だ。

「マルク」

 僕は、若干掠れた声で、彼に話しかけた。正直、何て声をかけたらいいのかなんて、わからない。でも、今声を出さなきゃいけない。考えながら話すことになっても、今言わなきゃいけない。そういう気がした。

「マルク、僕はね、そんなあなたの絵に救われた一人なんだよ。そう。僕は、あなたに救われたんだ。あなたがあの時声をかけてくれなかったら、僕はまず間違いなくあのまま死んでいた」

「君が決めただけだ。生きることを」

「あなたの目にはそう映るかもしれない。けれどね、僕は確かにあの時あなたという存在に心を奪われ、助けられた。それは他でもない、当事者である僕が言うんだから、本当だ。ねぇマルク、あなたはアーティストでしょ?なら、作品は額縁じゃなく、心に残るものだということを知っているはずだ」

 マルクは小さく動かしていた人差し指の動きを止めた。軽く組まれた両手をじっと真剣な表情で見ている。瞬き一つせず、ただ見つめている。

「あなたの能力は確かに特殊で、ある種魔法のように見える。だけど、それは不完全なんだ。この世に完全はないんだよ。でも、その不完全な力で人の心を動かすことはできる。あなたの能力は、そのためのものじゃないの?」

 僕が畳み掛けると、マルクは本当に小さく頷いた。

「俺は……何のためにグラフィティを描いているんだろうと、思うことがある」

 しばらくの沈黙の後、マルクが小さな声で呟くように言った。その声は上にあるスピーカーから流れる「アイ・ゲット・アラウンド」に比べたらひどく落ち込んでいて、この店には不似合いだった。

「俺が描いた絵は、何も残さないんじゃないか、って……。置く筆はないけど、何度筆を置こうと思ったかわからない」

 マルクの声は沈痛に響いた。僕ら二人のテーブルだけ、シャボン玉のような薄い膜に覆われているような響き方だった。

「ワタル、俺はそろそろグラフィティアーティストをやめるべきなのかもしれない」

 音もなく、シャボン玉が弾けた。一気に周りの音がよみがえってきて、僕の鼓膜を刺激した。曲は「ファン・ファン・ファン」に変わっていた。

「マルク、正直な話、僕は今憤っている。そんな資格がないことはわかっているんだけど、感情を高ぶらせないわけにはいかない。ここが喫茶店じゃなければ僕は怒鳴っているかもしれない」

 マルクは黙って僕の顔を見つめていた。その読めない表情には、多少の驚きが混じっているように見える。考えてみれば、僕が彼と出会ってから声音を強くしたことなど、今くらいのものだ。

「あなたには人の心を強く動かせるだけの力がある。その力を封印したところで、何が残るっていうんだ。残るものと言ったら、それこそ虚無感くらいなものじゃないのか?それにね、今あなたがここで筆を置いたら、これから先出会うはずだった人達は、心を揺さぶられないままになってしまう。それは、ひどく理不尽なことだと思わないかい?」

「そう……かもしれないね。ただ、俺にはわからないんだよ。俺はどうすればいいのか。俺の描く絵で、果たして人は幸せになれるのか」

 マルクは再び俯いた。その赤茶色の髪の毛をオレンジ色のライトが眩く照らす。

「絵を描き続ければいい。あなたの描く絵で人は幸せになれるのか、それは絵を描けばおのずと見えてくることじゃないんだろうか」

「描き続ける……か。それは正解なんだろうか?」

「人生には正解も間違いもない。あるのは現実と事実だけだよ」

「全く……君は時々仙人めいたことを言うね」

 そこでようやく、マルクはふっと笑って力を抜いた。そして、オレンジ色に光る照明を見上げた。

「描き続ける、か。そしてそれに意味があるかは描いてみないとわからない。……やれやれ、全く現実は大分厳しいらしいな」

「現実とはいずれにせよ厳しいものだよ。僕がこの十六年で得た訓戒だ」

「あながち間違っていないらしい。その十六年、誇っていいと思うよ」

「ありがとう」

 見計らったように、サンドイッチとハンバーガーが運ばれてきた。



 喫茶店を出ると、清々しい青空が僕らを迎えた。雲一つない、透けるような青空だった。

「ワタル、ありがとう」

 不意に、後ろからマルクが言った。振り向くと、彼は青空に浮かぶ太陽の光を受けて、眩しそうに目を細めながら微笑んでいた。

「君のおかげだ。俺がこうして道を進むことができるのは」

「僕のおかげなんかじゃない。あなたが決めただけだ。進むことを」

 僕はマルクの言葉を真似していった。僕らは二人並んで再び歩き出した。




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