第三章
僕とマルクは、人気の少ない裏道を歩いていた。電車の高架下のコンクリ群が周りに広がる。コンクリの壁には落書きがあり、人の悪口もあれば、アーティスティックな作品まであり、種類は様々だった。前を歩くマルクが立ち止り、壁に左手を当てた。そこから色が伸びて、スカイブルーが美しい、夏空とひまわりが描かれた。
しかし手を離すと、今度は色が徐々に消えていき、やがて元の無機質なコンクリに戻った。マルクは自分の左手を見つめて、それからぎゅっと握りしめた。
「魔法だ!」
そんなことをしていたら、近くから声が上がった。見られていたらしい。僕とマルクは声のした方を見た。所々に白髪を散りばめた初老の紳士がこちらを驚きの表情で見つめている。
マルクは相変わらずの感情が読めない表情をして、紳士に礼をした。
「今のは、目の錯覚じゃないはずだ。君は、何者だ?」
その言葉に、マルクは少し楽しそうに口角を上げて、相手を試すように口を開いた。
「俺はマルク。グラフィティアーティストです」
「そ、そうか。私はハースト、しがない物書きだ」
少し正気を取り戻したハーストが、マルクに近づく。彼はマルクの近くに来ると、そばにあった一片のコンクリをベンチ代わりに腰掛けた。
「君は?」
問いかけられたのは僕だと気付いて、それに答える。
「僕はワタルです。マルクと一緒に旅をしています」
「そうか。よろしく」
僕は小さく頭を下げた。ハーストは茶色の中折れハットを手で軽く下げて、それに応じた。彼は小さいが重い溜息を吐き出して、マルクを見遣った。
「人生の終わりに、子供の頃夢見ていた魔法を見れてうれしいよ」
「人生の終わり」
マルクは復誦した。ハーストは何でもないという風に首を振った。
「……気にしないでくれ」
そう言ったきり、ハーストは黙りこくってしまった。下を向いて、祈るように組んだ両手を見つめている。
「ミスター・ハースト。もう一度落書きを見せましょう」
その言葉にハーストが顔を上げると、マルクは再び壁に手を置いた。そこから広がる絵を見て、ハーストが目を見開いた。描き広げられていく絵は、電車の車窓から見える美しい景色だった。写実的で、金色に輝く小麦畑を燃え盛るような夕陽が照らしているという絵だった。
「電車から見える景色は、これだけ素晴らしいんです」
マルクが言うと、ハーストは頭を抱えて俯いた。そして絞り出すように苦しそうな声で呟いた。
「何故……私が電車に飛び込んで死のうとしているのがわかった?」
「そんなことは知りません。俺はただ、電車から見える景色の素晴らしさを絵にしただけ。それだけだ」
マルクは何でもないように言って、左手を壁から離した。火の赤が、金の小麦が、白の光が、消えていく。
「ずるいじゃないか、魔法使いよ」
「俺はグラフィティアーティストですから」
マルクはすかさず言った。悪戯っぽい笑みがハーストの目に映る。彼はそれを羨ましく感じているようだった。
「ミスター・マルク。どうか私にもう一度魔法を見せてくれないか?」
「落書きでしたら、いくらでも」
マルクは再び壁に手を置いた。今度は群青の海が広がり、そこから空のスカイブルー、雲の白、右手には雲とは違った白で南国のような家々が描かれた。まるで写真と見間違うようなリアリティの溢れる絵だった。
それが消えると、ハーストは深いため息を吐いた。恍惚を表すような、それでいてどこか気持ちが沈むような溜息だった。
「ミスター・マルク、この世界というものはいかに美しく素晴らしく、そして残酷なものかな」
マルクはそれには答えず、再度壁に手を置いた。次に描かれたのは山々の間に落ちていく夕陽だった。逆光で黒いシルエットとなった山の間に消えていく色の残滓を見つめながら、マルクは言葉を紡いだ。
「俺が生まれ育った国では、最期は美しいものとみなされています。有終の美を飾る、と言いますが、これは人生に対しても使われます」
「そうか……。妻は、その有終の美を飾れたのだろうか」
「それは俺の知る所ではありません。それを知るのは、その人自身、若しくは、あなたなのではないですか?」
マルクの問いに、ハーストは黙った。下を向き、組んだ両手を見つめている。
「ミスター・ハースト。人というのは、脆弱な生き物です。しかし時としてそれは、精悍なものになる」
僕は、ハーストに声をかけた。マルクは何も言わず、ただ僕達を見つめている。
「僕のような若者にこういった言葉をかけられるのは快いものではないかもしれませんが、それでも僕は、あなたと話がしたい」
「……私も君と話がしたいよ。不快ではない。続けてくれ」
僕は一つ頷いて、ハーストの隣に座って彼に向き直った。
「人というのは、本当に脆い。どれだけ誇れるものがあったって、崩れる時は一瞬です。築き上げてきたものも、これから築いたであろうものも、全てが無になる。それはどれだけ儚いものか。例が思いつかないほどです。でも、人は時として素晴らしい強さを見せます。それは身体的な強さもそうですし、精神的な強さもそうです。身体的な強さは、火事場の馬鹿力なんて表現されますが。人間は、限界まで頑張ったとしても、それは筋力の三割程度を使っているにすぎないと言います。本当の限界は、七割も先にあるということです」
「精神の場合は?」
「精神力は、時としてとても強いものです。一度やると決めたことを貫き通したり、何かに耐えたりする精神力は、想像を絶するという言葉が当てはまるくらいに頑強です」
「そうだね。君の言うことは、よくわかる」
ハーストは二回頷いた。僕の言ったことは、何回か咀嚼されて彼の腑に落ちているらしい。
「人の最期が美しいのは、きっとその本当の限界を解放するからじゃないでしょうか。あくまで比喩的な意味で、ですが。人は確かに脆いかもしれないけど、その中に眠っている強さがある。崩れ去る時に、その強さが見せるほんの幽かな光こそ、本当に美しいものではないでしょうか」
「……ミスター・ワタル、私の話を少ししてもいいかね?」
「どうぞ」
ハーストは一つ息を吐き出して準備を整えてから、話を始めた。
「妻の最期は、非常に美しかった。私は、君の言う幽かな光を見たのかもしれない。とにかく、妻はとても美しく、そして清らかに眠った。だが、私は、妻が死んだことによって深い絶望に突き落とされた。例えて言うなら、見渡す限りの雪原を目の前に突き付けられて、それに目が眩んで足を踏み外し、底のないクレバスに落ちたような気持ちだ。私はそれなりに長く生きているが、そんなに深い谷に落とされたのは、生まれて初めてだった。だから、どうしたらいいかわからないんだ。どうしようもない、とはまさにこのことかな。本当に、何をすべきか、どこに行くべきか、それがわからない。人は一歩踏み出せと言うが、その一歩をどちらの足で踏み出すのか、そもそもどうやって踏み出すのかがわからない。脳が足に信号を送らないんだ。足の踏み出し方を忘れてしまっている」
「そんなに深い絶望の中を揺蕩うのは、さぞ辛いことなんでしょうね?」
「辛い、なんてものじゃない。抜け出そうにも、手がかりがないんだ」
僕は深く頷いた。そうだ。この世界には、絶望を抜け出す手がかりというものがない。取っ手を掴んで登って行けたらいいのに、残念ながらそれはできない。
「僕も、短い人生ではありますが、絶望の中に落ちたことがあります。というか、今も落ちている最中です。僕もあなたと似たようなことをしようとした。でも、僕はそこに差し込む光を、見たような気がしたんです」
「光?」
「ええ。どこから差し込んできたのか、正体もわからない、そんな光です。ただ、その光は僕の心を強く揺さぶった。このままここにいるべきではないと、僕に言ったのです」
ハーストはふむ、と手を顎に当てた。僕は更なる言葉を探して、それを紡いだ。
「生きていけば必ず光があると、そんなきれいごとを言うつもりはありません。でも、僕の場合はそんな光が一筋差し込んだ。僕はその光に、近づいて行こうと思ったんです。僕は幸運だと、自分でも思う。そんな光が差し込んできたんだから」
「君は、幸運だったんだ」
僕は頷いた。そう、僕は多分、とても幸運だった。
「僕は、その光の照らす方へと近づこうとしています。そうすることが、絶望から抜け出す一つの手段だと思って」
「私には、そんな光は照らさないだろう」
ハーストは俯いて言った。
「君は幸運なんだ。とても。私には、そんな運はない」
「お言葉ですがね、ミスター・ハースト。それは、あなたが決めることじゃない。神様がいるのなら、神様が決めるのもありでしょうし、運命が悪戯をして決めるのならそれもありでしょう。しかし、あなたが決めることじゃない。それははっきりとしている」
僕は少し口調を厳しくしていった。少し言い過ぎてしまったかもしれない。だが、僕は最初から全てを決めつける、そんな今の世界、基、高度な資本主義経済的考えが好きではないのだ。
「そうかも、しれないね」
ハーストは静かに言った。怒気が籠っているわけでもなく、平坦でもない、どこか哀愁を帯びた声音だった。
「……ミスター・マルク」
ハーストは掠れた声でマルクを呼んだ。マルクはハーストの正面に立ち、続く言葉を待っている。
「最後にもう一度、魔法を見せてくれ」
マルクは頷いて、壁に手を置いた。サァァ、と色が広がって、輪郭が描き出され、それから滑らかな曲線、すっと伸びた直線が広がった。段々と描かれる絵を見て、ハーストは今まで以上の驚きに目をみはった。
壁には、今にも動き出しそうな、彼の愛する女性がいた。
「……フラウ……ああ、神様」
描き終わった彼女の顔は、とても柔和な顔をしていて、にっこりとハーストに笑いかけていた。彼女を見たハーストの目から、次々と涙がこぼれる。
「フラウ……フラウ……」
ハーストは愛する女性の名前を何度も呟いた。マルクはそっと壁から手を離した。柔らかな目が、ふくよかな頬が、笑っていた口が、そっと消えていく。
「ああ……フラウ」
ハーストは目からこぼれる涙を拭って、静かに十字を切った。
「ありがとう、ミスター・マルク。私は、素晴らしい魔法を見せてもらった。私は……あの笑顔を忘れずに、生きていこうと思う」
マルクは例の如くにやりと笑って、紳士的に礼をした。
「ワタル、行こう」
「うん」
僕は、マルクと共に歩き出した。ハーストが僕らの背中を見送った後に、しっかりとした足取りで歩き出したことは、見ていないがなぜかわかった。




