第二章
僕とマルクは、街の中心から外れた小さな一軒のカフェに入っていた。ただ少し足を休めようという理由で、偶然見つけた雰囲気のいいカフェに入った。
カフェは僕好みだった。ゆったりとした空間に、気持ちのいいジャズ。小さい店舗は心を構えることをしなくていいし、インテリアは洒落すぎず、目に優しい。オレンジ色の照明が心の波を緩やかにしてくれる。昼時を外れた今の時間にいる客は僕ら二人だけで、店員も控えめな店において何かを気にする必要はなかった。
そんなカフェの中で、僕は紅茶を、マルクはコーヒーを飲んでいた。僕の紅茶はダージリンで、マルクのコーヒーはブルーマウンテンだった。
僕達は敢えて話をせずに、ゆっくりとリズムを刻むジャズに身を任せた。この店はジャンゴ・ラインハルトの「マイナー・スウィング」を流していた。珍しい選曲だ。
しばらくしてそれが終わると、マイルス・デイヴィスの「ブルー・ヘイズ」になった。最初の八小節が終わった頃、店のドアが揺れてベルがカランカランと鳴った。僕が軽く目を向けると、入ってきたのは若いカップルだった。
僕が若いなどと言うと変かもしれないが、世間的に見て若いカップルだった。年は二十代半ばくらいだろうか。女の方は流行のファッションに身を包み、男はシックながらも若さを感じさせる服装をしていた。
その二人がどこにでもいる普通の幸せそうなカップルならば、特に気にしなかったかもしれない。だが、一つ目を引くことがあった。それは、男の方がひどく不機嫌そうだったということだ。女はそんな彼氏の様子に気付いているのかいないのか、あくまで軽やかに席を決めて椅子に座る。
「リコ、話があるんだ」
「どうしたの、タケル?何、話って?」
深刻そうな男―タケルとは対照的に、女―リコは軽い様子で尋ねる。タケルは意を決したように腿の上でぐっと拳を握り、顔を彼女に向けた。
「オレさ、見たんだよ。リコが男と一緒に紳士服の店に入っていったの」
その言葉に、リコの顔から徐々に笑みが消える。
「俺と一緒にいたくないのなら、そう言ってくれればいい」
顔を伏せてその一言を言い放ったタケルは、リコの顔を見られず、そのまま顔を俯けている。
「そういうわけじゃ、ないから。あの時男の人と一緒にいた理由はまだ言えないけど、でも、そういう関係じゃないから」
「理由が言えないって、どういうこと?」
「だから、まだ言えないんだってば」
「リコ、オレは君と幸せになれれば、と思ってる。けど、それを君が望まないのなら、しょうがないよ」
「だから、そういうんじゃないって」
「じゃあちゃんと説明しろよ!」
少し大きな声を出したタケルに、周りの店員がそちらを向く。しかしタケルはそんなことを気にもせず、再びリコに詰め寄った。
「リコ、ちゃんと話してくれ」
「だから……」
「横から失礼します」
話をヒートアップさせようとする二人の間に、マルクが割って入った。僕がカップルに気を取られている間に、席を立って移動していたらしい。
「えっと、どちら様ですか……?」
タケルが問いかけると、マルクは紳士的な礼をして、くるりとそっぽを向いた。
「店員さん、壁を借りてよろしいですか?」
「は?はぁ……」
何の事だかわからない店員ににこやかに礼をしたマルクは、店内の壁に左手を置いた。
すると、彼の左手を拠点として、壁に色がついていく。突然の出来事に、店員もタケルもリコも声が出ず、ただ驚きに顔の筋力から力が抜けている。
描かれていく絵は、デッサンで描かれたものだった。タケルとリコが二人手をつないで道を歩いていく絵がマルクの左手から生み出される。そして、タケルとリコが目を見開く。描かれた道の先には、協会があったからだ。
マルクの絵は、教会へ向かう手をつないだ二人を描いたものだった。一歩ずつ、しかし着実に歩を進めていく様子が、描かれていた。
「あの、さ」
その絵を見たリコが、控えめに口を開いた。そしてバッグの中から小さな包みを取り出す。ブルーの袋に黄色のリボンが飾られている。
「国家試験受かったから、プレゼント。本当は夜、食事が終わったら渡す予定だったんだけど」
「……ありがとう」
タケルは呆けた様子で、そのプレゼントを受け取った。ほぼ惰性で受け取ったようなもので、どうにも現実ではないような感じの表情をしている。
彼が中身を空けると、そこには桜の彫刻があしらったシルバーのブレスレットが入っていた。
「男の人に何をあげたらいいのかわからなくて、友達に買い物についてきてもらったの。まさかそれが誤解を招くなんて……ごめん」
「そうだったんだ……。俺の方こそ、ごめん。早とちりして怒っちゃって。プレゼント、すごい嬉しいよ。ありがとう」
二人の顔に華やぐ笑顔が浮かぶ。マルクはそれを目にして、その場をそっと後にした。
「ワタル、行こう。長居は無用だ」
「わかった」
僕達は、テーブルの上に代金を置いて、誰も知らぬ間に店から去った。
店を出た後で、僕が窓からちらりと二人を見ると、彼らは僕らがいないことに少し驚いていたが、幸せになるのが恩返しだという気がしたのか、手をつなぎ合っていた。




