第一章
僕は今、身を投げようとしている。
周りは漆黒の闇。夜の静寂にピッタリとあてはまるような、そんな果てしなく黒い闇。時折微かに吹く風の音が僕の鼓膜をそっと揺らす。その音にある種の心地良さを感じながら、僕は手を広げた。理由は特にない。身を投げる時は手を広げるのがお決まりだと思ったからだ。
そして僕は、ゆっくりと体の重心を前へと傾けた。
僕の名前はワタル。親から二つの目と耳、一つの鼻と口を授かり、五体満足で生まれてきた。平々凡々な顔つきや身長はクラスの人気者に比べたら質素なものだったが、特に不満を感じたことはないし、人に不快感も与えてこなかった。なんてことない、ただの高校生だ。高校一年生。受験の苦労から解放されて、まだ進路のこともあまり深くは考えなくていい、そんな自由と希望に満ちた年代。少なくとも、僕の周りは。
でも僕は違った。僕は、生きれば生きるほど、生きるのが辛くなった。明確な理由はない。親や友人と揉め事を起こしたわけでも、失恋をしたわけでもない。ただ、息苦しくなった。
この世界で生きることに、息苦しさを覚えた。いつからだろう?はっきりとは覚えていない。気付いたら、僕は空気を求めていた。僕が呼吸できる、綺麗な空気。
この世界の空気は、荒んでいる。一歩外に出れば、人が忙しなく足を動かし、口ではAを言い、手はBをする。高度な資本主義経済。人々は働き、営み、生活する。働かざる者は白い目で見られる。常識と言う名の偏見が蔓延り、我が物顔で闊歩している。それは強固に積み上げられ、そぐわない者は有無を言わさず排斥される。
こんな世界のどこに希望を見出せるだろうか。有名な学校に行って、有名な大学に行って、大企業に就職して、出世を重ねる。そんな生き方には、くだらないという言葉と溜息しか出ない。
僕は、この世界において少々見識と認知を間違えた存在らしい。少しずれた存在。世界が円の形をしているならば、僕は楕円。その楕円を歪ませて円の形に近づけることはできる。三角形ではないから。でも、所詮は楕円。世界に沿った円にはなれないし、無理に形を歪めたら窮屈で仕方がない。
僕は今までの十六年間、自分なりに円に沿って生きるようにしてきたつもりだ。楕円を歪めてきた。しかしそれでも隙間は埋まらないし、はみ出してしまう部分だってある。
そして十六年生きたところで、そんな生き方に疲れ、これ以上円に沿えられないというところまできた。僕にこの世界は窮屈過ぎ、そして巨大すぎた。空気は淀み、息が苦しくなった。
そんな経緯を経て、僕はこの世界で生きることをやめる決意をした。馬鹿げた決意だと、自分でも思う。僕一人が死んだところで世界の歯車は動きを止めないし、日常は何事もなく過ぎ去っていく。僕の死で何か動かされる人がいるわけでもない。親や数少ない友人達は悲しむだろうが、それも一過性のものだ。そんな何の意味もない一人の人間の死に構っていられるほど、世界は暇ではないのだ。
馬鹿げた決意だ。何の意味もない。しかしそれでも、僕はこの道を選んだ。そんな道しか残されていなかった。僕は、死ぬのだ。
僕は高層マンションの屋上に立った。今の時間ならば下に人はいないし、地面はコンクリートだから確実に死ねる。それこそ馬鹿馬鹿しくて遺書は書いていないが、この状況ならば自殺だと思われるだろう。
不思議なもので、この屋上に立つまでは心臓が高鳴って止まなかったが、いざ自分が落下する先の地面を見たら、急に鼓動が正常に戻った。本当に覚悟ができたのだ、と思った。
そして僕は、ゆっくりと時間をかけて目を閉じた。目を閉じても、周囲の暗闇と大した変りはなかった。なんてことはない、死後の世界なんてものもこんな感じだろうな。
そしてこれまたじっくりと時間を使って、手を広げた。何故高い所から飛び降りる人は手を広げるのだろうと疑問に思ったが、そんなの死の前では些末なことだ。気にするのはやめよう。
そして僕は、ゆっくりと体の重心を前へと傾けた。
「やあ」
ここはどこだろう。死後の世界?いや、僕はまだ飛び降りていないはずだ。重心は傾けたが、まだ足は地についている。閉じる時よりも時間をかけて目を開けると、先程と変わらない景色があった。僕はまだ飛び降りていない。微風も感じられる。汗が一筋流れて、風がそれを冷やした。それで僕は現実の世界にちゃんと戻ってきた。ここは、高層マンションの屋上だ。
「寒くないかい?」
声がする。後ろから、誰かに話しかけている。でもこの屋上には僕しかいない。僕は強張った首の筋肉を動かして振り返った。すると、そこには一人の男がいた。
「改めまして、こんばんは」
男は不思議な雰囲気を持っていた。まるで色んな色の空気が彼の周りをゆっくりと渦巻いているみたいだった。それが第一印象。
彼の格好はどこにでもいる青年という風だった。青いジーパンに、赤地に紺色のチェックラインが入ったシャツ。その上に闇と同化する黒いパーカーを着ていた。目が行くのは、外に撥ねた赤茶色の髪の毛を覆う黒いハット。中が折れていないタイプのやつで、緑のハットバンドに縁取られている。彼は顎鬚を触って、僕に微笑みかけた。
月明かりに照らされたそんな姿は、僕を殺しに来た死神のようにも、助けに来た妖精のようにも見えた。
「こん、ばんは」
僕は掠れた声で挨拶を返した。彼がそこにいるのはおかしいことなのだけど、でも彼だとそこにいるのがピッタリと当て嵌まるような、不思議な青年だった。
「もう一度聞くけど、寒くないかい?」
彼は世間話でもするように僕に問いかけた。その言葉で僕はやっと体を覆う寒気に気付いた。確かに夜はまだ冷える。
「寒い、かも」
彼はクスリと嫌気なく笑って、パーカーのポケットから一本の缶を僕に差し出した。
「ココア、飲む?温かいよ」
まるで友人に飲み物を勧めるように話しかける彼に、僕は若干唖然としながらも、温かみを求める体はそのココアを受け取った。しかしそれはおかしいことだった。だって僕は今自殺をしようとしているのだ。
「とりあえず、そこの淵からは降りた方がいい。誰か気付いて警察を呼ぶかもしれない」
彼の言うことには一理あった。僕がこのままこの場所でココアを飲んだら、通りがかった人が僕に気付いて通報するかもしれない。そうすれば自殺の成功率はぐっと下がる。僕は淵から降りて、下からは見えない場所に移動した。温かいココアの缶が手を温める。
「あなた、誰、ですか」
尤もな質問だと、自分でも思った。僕が自殺しようとしていることに気付いて急いで止めに来た風でもないし、ちょっと世間話をしに来たわけでもあるまい。ここは屋上だ。
「俺はマルク。グラフィティアーティストさ」
簡潔な答えだった。彼はマルク。
「グラフィティアーティスト?」
「落書きを描く人さ。……飲みなよ。冷める前に」
マルクは僕が両手で持ったままのココアを指して言った。僕は缶のプルトップを開けて、温かく甘いココアを口に含んだ。まろやかな甘みが口に広がって、飲み込むと冷えた体を芯から温めた。
「おいしい」
「良かった」
マルクはまたクスリと笑った。きっと彼はいつもこういう笑い方をするのだろう。
僕はココアを飲んだせいか、少し心がほっとした。やはり身を投げようとしてどこかしら緊張していたのだ。僕は冷たいコンクリートの床に座って、マルクを見た。
「何で、僕の所に来たの?急いで止めに来たって感じではなかったけど」
僕は気になっていたことを聞いた。冷静な頭で考えてみれば、彼は急いで僕を止めに来たという感じではなかった。息も切らしていなかったし、そもそも見かけたのなら下から説得を試みるなり通報するなりしているだろう。
「誰かがここで自殺をするな、と思ったから、来てみた。それが君だった」
「何でわかったの?」
「ただ何となく、さ。勘がいいんだ」
僕はそれで納得してしまった。勘がいい。マルクならばあり得る話だと、僕は何故か思った。彼の感じさせる不思議な雰囲気がそうさせるのかもしれない。
「止めるの?僕のこと」
「それは君が決めることだ。やめるか、やめないかは」
「そこは普通止めると思うんだけど」
「俺はなかなかと普通じゃない」
「自殺を止めないこと以外に、何か普通じゃないことがあるの?」
「そうだね、例えば……」
マルクは両手を合わせて顔の前に持ってきた。左手の人差し指にはシルバーのリングがはまっていた。
「君が今見たいものはあるかい?何でもいい」
「見たいもの?描いてくれるの?」
「そう。描いてあげる」
僕は悩んだ。僕が今見たいもの。どんなものを言えばいいのだろう。
「海」
考えあぐねた結果、僕はそう言った。僕の住んでいるところは海が近くて、一人になりたいときはよく海に行った。思い出の場所、と言えばそうかもしれない。潮風に当たっている時は、少しだけ息苦しさから解放された。
「ここから少し行くと、海があるでしょ?あの海が見たい」
「わかった」
マルクは口の端を吊りあげて笑った。その笑顔を見て、彼の笑い方はピエロのようだと思った。あの不思議な感じと、どこか人を惹きつける所は、ピエロのようだった。
そんなことを思っていると、彼はすたすたと歩き出した。そして、屋上にある何かの倉庫の前に立った。彼は倉庫のドアの所に立って、左手を横の壁に置いた。
すると、信じられない光景が目の前に広がった。彼の左手が置かれた場所から徐々に、壁に色がついていったのだ。マルクは何か手を動かしているわけではない。彼はただ壁に手を置いているだけだ。しかしそれでも、ススス……と壁に色が広がって流れ、それはまるで絵画のようになり、僕の目に飛び込んできた。
「―!」
僕は驚きで口を大きく開けた。だけど、そこから出る言葉がなかった。空気すらも出ず、いつの間にか正常な呼吸を忘れていた。
マルクは目を大きく開く僕を愉しむようにニコリと笑い、人差し指を口の前に当てて、静かに見ているようにとジェスチャーした。
無機質なコンクリートだったはずの壁には目に鮮やかな色彩が広がっていき、そしてそれは壁をキャンバスとするように、壁の端まで行って止まった。
「海だ……」
僕は、小さく漏らした。よくよく見ると、彼がその左手で描いたものは、僕が見たいと言った海だった。海のコバルトブルー、砂の灰色、空のスカイブルー、雲の白色。写真をそのまま絵にしたようなタッチで、それらが目の前に描かれた。
「満足かな?」
僕は頷いた。マルクは壁から左手を離した。すると、今度は色が広がるのと同じスピードで色が消えていった。段々と元の埃っぽい灰色が露わになり、それはやがてただの倉庫の壁に戻った。そこには絵が描かれていた痕跡などまるでなく、今の出来事が幻想か現実かは定かではなくなってしまった。
「マルク……あなたは、手品師なの?」
僕は未だ呆然としながら、どこか夢のような心地のままマルクに聞いた。するとマルクはクスリと笑った。
「言っただろ?俺はグラフィティアーティスト。今のはただの、落書きさ」
それが僕とマルクの出会いだった。




