虚空の落下
虚無。
光がない。音がない。温度もない。自分の体すら感じられない。
時間が意味を失っていた。今の俺が落下しているのか、漂っているのか――それすらわからない。
意識は引き千切られた綿屑のように、途切れ途切れになっていく。
そして、ある瞬間――
胸に、何かが熱を持ち始めた。
灼熱だ。
焼けた鉄塊を心臓に押しつけられたような、灼熱。
星宿輪盤だ。まだあった。虚無の中で、それが自律的に起動していた。
俺は頭を下げた――今この瞬間に「頭を下げる」という概念が俺にあるとすれば、の話だが――自分の胸を見ると、そこに紫紺の光紋が浮かびあがっているのが見えた。その紋様は、輪盤の核心陣紋そのものだった。
(次元跳躍。座標を特定している――別の世界の)
七千年前にその秘密を解読したとき、こんな形で発動されるとは思ってもみなかった。あれは贄があって初めて駆動できるものじゃなかったのか。十万の生命の血肉があって、ようやく一度の最低限の跳躍が可能なはずだ。
なのに今、それが勝手に動いている。
贄は何だ?
俺だ。
大乗境の残余霊力が、めちゃくちゃな勢いで吸われていく。修為の欠片、神念の残滓、元神の一部まで――全部吸い込まれて、次元跳躍の燃料に変換されていく。
それが俺を、ある座標へと引きずっていた。俺が一度も特定したことのない座標へ。
全く未知の世界へ。
荒唐無稽な話だ。
だが星宿輪盤の論理の上では、これはおそらく、最も合理的な反応なのかもしれない。持ち主が死にかかっている。輪盤の核心機能は次元跳躍だ。それが最後の命令を実行している――
宿主の命を守れ。
少なくとも、一部でも。
意識が剥ぎ取られていく。
時間の概念が消えたこの虚無の中で、俺はふいに別の話を思い出した。
「転生」にまつわる話を。
この世界の転生ではない。もっと前の話だ。俺が神州大陸に来る前の話だ。俺が林仙尊と呼ばれるようになる、もっとずっと前の話だ。
俺がまだ藍星で、スマホ片手に修仙小説を読んでいた、ただの普通人だった頃の話だ。
―――――――――
俺の名は林砚。
藍星の、どこにでもいる普通人だ。
修仙への渇望が、ほとんど病的なほど強かった。小説の読みすぎのせいだと思う。
ともかく、俺は路上の露店で、臭い放題のホームレスじいさんに見事に騙された。整々二千人民元を叩いて、ボロボロの『引気訣』なる本を一冊買い込んだ。
この破本のために修行するべく、俺はあらゆる人間関係を切り捨てた。家を売り、車を売り。一人で故郷に帰り、深山の洞窟にこもった。
俗世から完全に隔絶された修行生活が始まった。
十年間。
毎日、野草を食い、木の皮を噛み、山の湧水を飲み続けた。体は竹竿みたいにガリガリになった。
で、結果は?
騙されたということが、わかった。
痩せた以外に、体に何の変化もなかった。霊気なんて一欠片も感じられなかった。
俺はそのボロ本の最後のページをめくった。そこにはアリほどの極小の文字で、数行の言葉が書かれていた。
「この功を修めんとするならば、まず自ら去勢すべし」
この一文を見た瞬間、俺はその場でぶっ倒れそうになった。
ただ、まあ。次の行が、俺を少しだけ踏みとどまらせてくれた。
「――嘘だけど」
……嘘だけど、じゃねーよ。
俺をおちょくって楽しいか?
本を引き裂きたい衝動をぐっとこらえて、俺は読み続けた。
「今の藍星はとっくに霊気が枯渇している。悟りを開いて長生きしたいなら、この領域を超越するしかない。方法:死ぬこと。適当なトラックにでも轢かれろ」
俺は思わず冷たい息を呑んだ。
なるほど。そういうことか。問題はそこだったのか。藍星には、そもそも霊気なんてものが存在しないのか。
俺は立ち上がり、体の埃を払い、ゆっくりと山を下りた。そのまま大通りの真ん中まで歩いていく。
目を閉じた。
あの本が言っていることが本当なら、これでいける。
嘘なら――どうせもう生きていたくなかった。
眩い光。
鼓膜を揺さぶる轟音。
そして俺は、車の底に飲み込まれた。
死の瞬間、それでも俺は口の端を持ち上げた。
ようやく来たか。
脳裏に浮かびあがる虚空の裂け目を、俺は興奮と狂熱に満ちた心で見つめた。
山の頂で、風が吹き抜けた。
その風があの破本を最初のページに戻すと、そこにはさらに小さな文字で、こう書かれていた。
「成功確率:0.0001%」
……ちょっと待て。
あまりにも鬼畜すぎるだろう。0.0001%の確率で、本当に成功してしまったのか、俺は。
これは運が良かったと言うべきなのか、それとも悪かったと言うべきなのか――今でもわからない。
―――――――――
目を開けたとき、俺はすでに別の世界にいた。
神州大陸。
霊気があった。十分すぎるほどの霊気があった。一口吸うだけで、藍星での十年の苦修を補ってあまりあるほどの濃さだった。
あとのことは、トントン拍子に進んだ。
最上位の霊根――天凰霊根を覚醒した。一年で築基、百年で元婴、三千年で大乗。凌霄宗を立ち上げた。九州を一統した。道祖を討ち滅ぼした。天道の枷を打ち砕いた。
そして俺が救った者たちに、俺が育てた弟子たちに、俺と肩を並べた戦友たちに、合同で囲まれて殺されかかった。
そして虚空に落ちた。
―――――――――
記憶がここで途切れた。
俺は、それらの映像が虚無の中で消えていくのを見ていた。藍星の深山。神州大陸で初めて吸い込んだ霊気。凌霄宗の初代弟子たち。白凝冰。冷清寒。陸景元。それから、道祖が死の直前に見せた、あの愕然とした顔。
それらが一つ一つ浮かび上がり、一つ一つ虚無に飲まれていく。
そして――
落下が始まった。
本物の落下が。
俺は何かを貫いた。薄い膜か? それとも境界線か?
空気が戻ってきた。摩擦。灼熱。体の表面が燃え始める。
胸の中の星宿輪盤の温度が、じわじわと冷めていく。使命を果たしたのだ。俺の残余修為の全てを使って、この未知の世界へ続く通路を引き裂き――そしてそれは、俺の丹田の深奥へと沈んでいった。もう感知できない。
雲を突き抜ける。見知らぬ世界の大気を突き抜ける。
頭上には、二つの月――赤と青――が、みるみる大きくなっていく。
地面が猛然と迫ってくる。体勢を整える力もない。ただ重力に身を委ねるしかない。未知の大地へと引きずり落とされていく。
意識が薄れていく縁で、俺は最後に一つのことだけを思った。
復讐ではない。
戻ることでもない。
あの『引気訣』の最後のページ。アリほどの文字の、さらに下に、もう一行あったことを。当時は意味がわからなかった。だが今――二つの世界を越え、三万年を経た今この瞬間、俺はあの言葉の意味がようやくわかった気がした。
その一行には、こう書かれていた。
「死地に陥りし者、この輪盤を持つならば、もう一世を生くることあたわん」
あのじいさん。
一体、何者だったんだ。
二つの月が、ますます大きくなる。地面が、どんどん近づいてくる。
俺は目を閉じた。
まあいいか。どうせ空から落っこちるのは、これが初めてじゃない。




