禁忌召喚
ノルランティス王国の王宮は、今や地獄と化していた。
国王の首は槍先に晒され、砕け散った城門の前に立てられている。近衛兵の屍が、大殿から中庭まで、絨毯のように敷き詰められていた。
その最奥にある、王室の祭壇――
アリーナ・ノルランティス、十六歳の嫡長公女は、壁際まで追い詰められていた。
礼服の片袖は引き千切られ、金色の長い髪が汗に濡れた頬に乱れて張りついている。彼女をかばっていた三名の侍衛のうち、すでに二人が倒れていた。最後の一人が、折れた剣を支えにして体を起こし、死に物狂いで彼女の前に立ちはだかっていた。
脚が折れていた。血が甲冑の隙間から絶え間なく滲み出ている。
「殿下……早く……逃げて……ください……」
逃げる? どこへ?
祭壇の出口という出口は、全て聖騎士に塞がれていた。銀の鎧には彼女の一族の血が付着している。面甲の奥には、一対の冷たい目が光っている。
先頭の聖騎士隊長が、一歩前に出た。
「公女殿下。王印をお渡しになり、教廷への忠誠を誓ってください。そうすれば、命は保証いたします」
アリーナは答えなかった。
その手を背中に隠し、祭壇の石板の上で、素早く最後の符文を刻んでいた。
禁忌召喚術。悪魔を呼び出す術式。ノルランティス王家が代々封じ続けてきた禁術だ。発動条件は極めて厳しく、成功確率は万分の一にも満たない。
だが父は死んだ。兄たちも死んだ。王国最後の軍旗は、城門の上で既に薙ぎ倒されている。
他に、何の選択肢がある?
「神々はすでに我らを見捨てた――」
アリーナは人差し指を噛み切り、その血を陣の中心へと垂らした。
「ノルランティスの血を引き、七千の亡魂を薪として――応えよ――深淵のものよ!!」
聖騎士隊長の顔色が変わった。
「阻止しろ!!」
間に合わなかった。祭壇の陣紋が一斉に輝き出す。暗紅色の光芒が石板の隙間から溢れ出した。暴風が巻き起こる。蝋燭の炎が一斉に消え去る。
陣法の光が、どんどん増していく。
そして――
握り潰されたランプのように、ぷつりと消えた。
何も起こらなかった。
アリーナの瞳孔が一気に縮んだ。
「そんな……ありえない……」
聖騎士隊長が冷たく笑い、剣を持ち上げ、歩み寄ってくる。
「悪魔の召喚だと? 教えてやろう、公女殿下。この大地において唯一の救済は、聖光のみだ。そして、お前にはそれを得る資格がない」
剣が振り上げられた。
アリーナは目を閉じた。
風の音が聞こえる。遠くで燃える炎の爆ぜる音。剣が空気を切り裂く鋭い響き——
そして。
雷鳴が聞こえた。
いや。違う。
天井の円蓋が、聖騎士の剣が振り下ろされる零点一秒前に、爆ぜた。
爆発ではない。衝突だ。
何かが、肉眼では到底追えない速度で、夜空の最深部から真っ直ぐに降下してきた。雲を突き抜け、硝煙を突き抜け、この瀕死の王国の最後の屋根を突き抜け――
祭壇に突き刺さった。
公女が今しがた描いたばかりの召喚陣の、ど真ん中に。
轟――!!!
砕けた石が四方へ飛散する。衝撃波が周囲の者を全員叩き飛ばした。
砂煙が天井まで舞い上がる。
聖騎士隊長は地面を数回転がり、土埃まみれで立ち上がった。剣は手から離れ、三歩先の石板に突き刺さっていた。
「な……何だ?!」
砂煙が、晴れていく。
祭壇の中央に、直径三メートルほどの大穴が開いていた。
その穴の底に、一人の人間がしゃがんでいた。
着ていた服はボロボロで、もとの色すら判別できない。髪は高熱で焼け焦げ、その端からまだ青い煙が立ち上っている。
黒髪。黒瞳。
全身に傷を負い、口の端には乾いていない血の痕が一筋。
彼はゆっくりと顔を上げた。
部屋中の聖騎士を、一瞥した。
壁際にへたり込んでいる金髪の少女を、一瞥した。
最後に、自分の足元を一瞥した。
完全に砕け散った禁忌召喚陣を。
二秒の沈黙。
「……ちっ。誰が描いたんだこれ。霊力の配分が全部狂ってる。こんな陣で何かが召喚できたなら、そっちの方が化け物だわ」
語気は淡々としていた。
路上の露店で偽物の秘伝書を掴まされても、もうすっかり慣れてしまったような――そういう種類の、淡々としていた。
それから彼は血を一口吐き、大穴の縁を歩み上がってきた。
―――――――――
アリーナは呆然と、その一部始終を見つめていた。
生まれてから一度も、運命というものを信じたことがなかった。ただの一度も。
だが今だけは、信じないわけにはいかなかった。
なぜなら、たった今――彼女は失敗した。
そして彼が、空から落ちてきた。
東洋人の男。全身傷だらけ。修為は低い。教廷の聖騎士隊を丸ごと前にしても、顔色ひとつ変えない。
まさか禁忌召喚術が、本当に応えたというのか?
いや。ありえない。確率は万分の一だ。
この男は――一体、何者なのか?




