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1 言廊の石



肩口の傷は浅いものだったからか出血は止まったが、痛みは続いている。

狼に爪を立てられるなんて。

なにかの病気でも貰う可能性だってあることを考えて、怖気が走る。


「とにかく、誰か助けを⸻お?」


子狼が俺の傷をクンクンと鼻を鳴らして嗅いだかと思うと、ペロリと舐めた。

冷たい。

舌がひんやりしていて、渇いた血液を拭っていく。


「心配、してくれてるんか?……そうか」


急に異世界に転生してきて半日が過ぎようとしている。

怒涛の様な情報の波に、決断の嵐に俺は疲れ切っていた。

そこにきてはじめて受ける慈しみ。

涙が溢れた。


「お前の方が大変やのに……ありがとうな」


今目の前で親狼を亡くしたものからの気遣い。

血と肉と死骸で昂った精神が溶けていくのがわかった。


どれくらいそうしていたか。

辺りがうっすらと暗くなり始めたことから、時間の経過を仮説する。


異世界のことはわからないが、このまま暗くなるのであれば夜がくる。

そうなれば危険なことは俺にだってわかる。

痛む肩を抑えつつ、俺は渾身の力を込めて立ち上がった。


子狼も何かを察した様に体勢を整える。

二度程、親狼の死体と俺とを交互にみた。


「わーってる。埋めるぐらいはするわ」


落ちた木の枝でタイヤほどの穴を掘り、そこに親狼の死骸を埋めた。

俺がそうしている所を、ただ子狼はじっと見つめていた。



◇◇◇


再び歩き出した時には、ほとんど暗くなっていた。

僅かにさす太陽の端が彼方の山々の輪郭だけを照らしている。

子狼が傍に着いてきているのを確認して、俺は歩くスピードを上げた。


「しかし、夜がきたらマジで終わりやで」


その前に人、もしくは光源の確保がしたいが。

サバイバルの知識なんてものはないし、火を起こす技術なぞもない。


「となれば邂逅……が望ましいんやが」


見渡す限りの平原。


「あっかん、詰んだやろこれ」


死線を乗り越えたからか、俺は少し楽観的になっている節がある。

状況把握と危険への仮説で脳がショートしているかもしれない。


急に、着いてきていた子狼が体勢を低くした。

鼻をひくひくと鳴らしてなにかの匂いを嗅いでいる様子。


「なんや?なにか見つけたんか?」


そう言っている間にも、闇が訪れようと背中まで迫っている。

ブラックコーヒーをさらに煮詰めた様な、そんな暗さが辺りを支配した頃、子狼が明確な意思を持って歩き出した。


「なんや、お前までついてこい言うんか」


親狼が子狼の元へ案内した時同様に、数歩先を歩いて俺が着いてきているのを確認してまた歩き出す。

それより先に行くと完全に闇で見失う、という距離感で子狼が進む。


何度も見失いそうになっては子狼を見つけて、その度にほっとため息が漏れるのは仕方のないことだ。

ザワザワと風が草原を撫でる音。

どこかで木がバキバキっと音を立てて折れた。

孤独に弱いなどと、自分を思ったことは一度もなかったというのに。


「……っ?なんや?灯、なんか?」


どれくらい歩いただろうか。

闇が時間感覚を麻痺させていた。

が、遠くにほんのり灯火が見えた。


⸻肌が粟立つ。


灯、文明の兆し。

人がいれば助けてもらえる。


子狼が俺を観察するように見上げてきた。

俺はそれをそっと優しく撫でてやる。


「お前が見つけてくれたんか。……ありがとうな」



◇◇◇



灯の元で野営の準備をしているの人を認めて、俺は心底安堵した。

知的生命体であったこと、それが闇に対して対抗策を講じている事実が震える程に嬉しい。


慎重になる必要性をわかっていながら、俺は明るさに向かって駆け出した。

闇の質感に耳の後ろが冷えている。

これ以上は精神が持ちそうになかった。


「た、たす、助けて!」


散々独り言を話していた時には気づかなかったが、俺の声は酷く掠れていた。

それもそのはずだ、この世界に来てから食事はおろか飲み物すら口にせず歩きどうしでいる。


⸻警戒を示す怒声!

声色から、明らかにこちらを訝しむ様子が見て取れ俺はハッとする。

手に、弓と鏃。

明らかな敵意の刃がこちらを見据えていた。


「っ!ちゃう!敵意はない!助けて、ほしいんや!」


無害を示すために万歳、加えて手のひらを見える様に開きそこに膝をつく。

異世界で通じるのか、これ⸻と頭に酷く冷静な部分が自分にツッコむ。


聞き慣れない言語で二、三こちらに何か命令しているが。

もちろん意味は聞き取れない。

言語の壁、か。

ここに至って未だ終わらない危険に、額に汗が伝う。


「ど、どうしたら、ええんや。ジェスチャー?も文化違ったらわからんやろ」


子狼が大人しくしてくれていることだけが幸いか。

身振り手振りで助けを求めていると、ややあってやっと弓を下げられた。

ほっと、息を吐く。


篝火を背に抱いているため見えにくいが、冒険者っぽい服装か。

矢を番えていた方がそれを下ろすと、ごそごそと腰のポーチから小石ほどのなにかを取り出した。


胸の前でそれが二度ほど点滅したかと思えば、青白く光る石が冒険者の手元に残った。


「んー、あーっ、ん、こ、こう、か?」


今度はなんとなく意味の伝わる言葉が発せられて、俺はびくり身体を強張らせた。

その後も発声練習のように何かを呟き、その度に手元の石が光る。


「あーあー、わかる、か?伝わってるか?」


明確に、意味のある言語として言葉が発せられた時に、俺は尻餅を着いて後ずさった。

なんだこれは。

先程まで未知の言語を話していたのに。


「伝わっているようだな。しかし、言廊の石を使わんと意思疎通が取れんものとは」

「お、俺の言葉も、わ、わかるんですか?」


言葉が通じる相手、とわかって、相手方もすっかり敵意を隠した。

俺は安堵から全身の力が抜ける。

た、助かった、のか?


「怖がらせてすまない」

「いや、あの、えっと……」

「混乱しているようだ。こっちに来なさい。酷い顔をしている」


手招きに吸い寄せられるように、俺は篝火の前に座らされてマグカップを手渡された。


た、助かったんだ。


その暖かさと明るさに、今度こそ俺は心の底からため息をついた。

溢れる息がさまざまな感情を乗せて出ていく。

一口、手渡されたマグカップに満ちる液体を呑んだ。


薬膳茶の様な青臭さと、ほんの少しの甘み。

喉を通って胃に落ちていくその流体が、酷く生々しい感触で俺のうちにあった。



◇◇◇



「⸻なるそど、それで遭難していた、と」


拙い言葉で、把握できただけの状況を全て曝け出して説明した時に返ってきたのがその言葉で、俺は安心した。

目の前に座る女性⸻ラルスと名乗った⸻が先を促すようにうなづいた。


「はい、それでこの子狼を連れて歩いていて、皆様を見つけて」

「先程に至る、というわけか」


パチパチと篝火が爆ぜる音。

風が火の粉を運び鼻先に焦臭さを纏わせる。


「スノーウルフだな、珍しい」

「知っているんですか?」

「知っている。北の山を探索していた昔、殺されそうになった」


ゾッとする話しだが、曖昧に笑うしかできない。

スノーウルフか。

ちらりとラルスさんが傍の子狼を見た。

少しだけ、遠い目をしているように見えたが、俺にはその意味はわかりはしない。


「君はきっと稀人まれびとだね」

右手に座る男性⸻レンが冷静にそう言った。


「稀人、ですか?」

「うん。異界からの迷子。たまにいるらしい。僕も会ったのははじめてだけど」


すぐに思い当たる程には、一般的な存在感なのか。

いただいた薬膳茶らしきものをもう一口飲み下す。


「君、名前は」

「俺ですか?たろうと言います」

「たろお、たろう、たろー、か。珍しい名前だ。」

数度、発音を確認するように俺の名前を呼ぶラルスさん。

やはり日本名は珍しいのだろうか。


「その石、で言葉がわかるようになってるんですか?」

「そうだな、言廊の石、という」

「げんろう……」

「詳しい事は私にもわからん。魔素の波長を合わせて意思の疎通を可能にしているらしい」


魔素、波長。知らない言葉が飛び交う。

ぶっきらぼうにラルスさんが答えて、俺に向けて石を投げた。


「わっ」

「やるよ、必要になるだろ?」

「え」


レンさんもクスクスと笑うように言う。

「貰っておきなよ、たろー君。君には必要なものだろ?」

「ですが、高価なものなのでは?」


ラルスさんが首を振る。

「別に珍しいものでもない。領都に行けば子供の小遣いで買える」

親切心に甘えるのは簡単だが。


「助けて貰っておいて厚顔無恥ですが、ありがたく」

「その小芝居みたいな話し方やめろ、鼻につく」

「え?」


ラルスのぶっきらぼうな照れ隠しに、レンが声をあげて笑った。

「貸しにしておくといい、ラルスはその方が喜ぶ」

やっと。

場に和やかな空気が弛緩して、俺は心の鍵を一段階開いた。


のそっ、と寝ていた最後の冒険者が身体を起こしてきた。

「起きたのか、ゴードン」

「やかましくて寝てられんわ」

「聞いていたかい?」


ふんっ、と鼻を鳴らす事で返事をするゴードンさん。

三人の中で一番体躯が大きく、髭を生やしていて威厳がある。


「おさがわせしてすみません」

「構わん、稀人なんだろ?困ってるなら助ける、それが冒険者だ」


冒険者。

感謝を込めて、俺は黙った。




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