第5章:飢えと約束の果てに ― 継承者アルディアの決断 ―
約束は、時に救いではなく呪いになる。
吸血鬼、魔獣、復讐者。
聖堂に集ったそれぞれの因縁が、ついに終わりを迎える。
だがその結末は、
誰にも本当の救いを与えてはくれなかった。
トドメの刃が、ルキアンの首筋に触れた。
レノアの手が、震えている。
怒りのためではない。これだけの全てを経て——姉の死も、吸血鬼との死闘も——ここまで辿り着いて、それでも、この瞬間に何かが足りない気がしていた。
これで終わるのか。
この男を殺したら、姉は帰ってくるのか。
(帰ってこない)
分かっている。分かっていても、この手を止める理由がない。
「……君に手向けるのは、この紅く染まった薔薇を一輪」
レノアが息を吸った。
その瞬間——床が、揺れた。
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地響きではなかった。
何か巨大なものが、廊下の奥から迫ってくる気配。
本能が、警告を発した。
聖堂の扉が、内側から吹き飛んだ。
「……待……テ……ルキアン……」
地を這うような声だった。
それはかつての戦友を呼ぶ声ではなく、獲物を追い詰める獣の唸りだった。
ガルム・ブラッドハウンド。
月光を浴びたその姿は、もはやかつての青龍の面影を留めていない。あらゆる生命を等しく「肉」としか見なさない、暴食の魔獣。その瞳の奥に渦巻いているのは、数十年分の憎悪と飢餓だった。
「ア、アァ……血ガ……足りヌ。アノ時ノ、続キダ……ルキアン……ッ!!」
レノアは反射的に飛び退いた。
その瞬間を、ガルムは見逃さなかった。
ドォォォォォン!!
地響きと共に跳躍したガルムが、無防備なルキアンの胸元へ牙を突き立てた。
「ガ、ハッ……!!」
鮮血が噴き出す。
ルキアンの身体がガルムの剛腕に掴まれ、宙に浮く。かつてルキアンが「お前だけが欲しい」と恋い焦がれた男が今、その期待に応えるかのように——情け容赦なく、ルキアンの血を啜り始めた。
「……ガ、ルム……」
喉を潰されながら、ルキアンは笑った。
狂ったような、満足げな笑みだった。
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意識が溶けていく中で、ルキアンは思い出していた。
遠い日の記憶。まだ世界が憎しみに塗り潰される前、自分がただの少年だった頃。
先生の手は、温かかった。
小さな自分の首筋に、その手をそっとあてがって——。
「ねぇ、先生。……もし僕が、いつか自分でも制御できないくらいの化け物になっちゃったら。その時は、先生の手で僕を終わらせてくれる?」
「……そんな日は来させない。俺が必ず、お前を繋ぎ止めてやる。約束だ、ルキアン。俺は決してお前を見捨てないし、殺させもしない」
あまりにも優しすぎた、あの言葉。
(先生……あなたは約束を守った)
見捨てなかった。最後まで、殺しには来なかった。
だからこそ——自分は化け物のまま、今日まで生き続けることになったのだ。
死を以て愛を証明してほしかった。
ただそれだけを、ずっと待っていた。
(だから僕は、あなたが救おうとしたガルムに喰われる道を、自分で選んだ)
(これが……あの日交わした『約束』の、代償だ)
回想の中で、先生の温かな手が——冷たいガルムの牙へと変わる。
「見て……るかい、アルディア……。お前の父様が……愛した男の……成れの果てだ……」
ルキアンは、視界の端にアルディアを捉えながら、最期に満足げな、そしてこの上なく孤独な笑みを浮かべた。
ゴクリ、と。
真祖の命が、暴食の腹に収まった。
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聖堂の扉が軋む音がした。
粉砕された入口から、二つの人影が歩み込んでくる。
月の影を背負い、返り血さえも装飾に変える死神——アルディア・グリーンフェル。
その背後で、右腕に暗い魔力を滾らせた嫉妬の少女——ジュラ・ヴァイン。
「……酷い有様ね」
アルディアの声は、静かだった。
感情を殺した声。それでも、その瞳の奥で何かが揺れているのを、ジュラだけが知っていた。
顔を上げたガルムの真紅の瞳が、アルディアを捉えた。
その瞬間——何かが、ガルムの中で変わった。
先生の匂いがする。
あの日、泥の中で自分を抱きしめてくれた人の面影が、目の前の少女の瞳に重なる。
「先生ノ……匂イ……。あァ……食ワセテ……食ワセテクレ……ッ!!」
獣が吠えた。
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「邪魔をするな……! そいつを殺すのは、僕だ!」
レノアが銀の短剣を逆手に握り、ガルムへと飛び込んだ。
戦術など、もうない。あるのは——ルキアンを、復讐の権利ごと横取りされたことへの、どす黒い怒りだけだ。
「返せ……っ! 姉さんの命も、あの男の命も、全部吐き出せ!!」
銀の刃がガルムの毛並みに突き立てられ、火花が散る。だが巨獣には傷一つつかない。レノアの身体が弾き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
「……目障りよ、坊や」
ジュラが冷淡に一瞥をくれながら、右腕を前に突き出した。
どろりとした黒い瘴気が溢れ出す。触れるものすべてを内側から腐らせる、嫉妬の呪い。
「アルディアをそんな卑しい目で見るな……っ!」
瘴気がガルムの足首を掴む。巨躯の動きが、わずかに鈍る。
しかし——それだけだった。
ガルムの咆哮が聖堂を揺らし、瘴気を吹き飛ばす。圧倒的な魔力の差。ジュラが吹き飛ばされ、アルディアの腕の中に倒れ込む。
「ジュラ!」
「……平気。それより」
ジュラはアルディアの袖を掴んだ。その瞳に、いつもの皮肉げな光はない。
「終わらせて、アルディア。あいつを」
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「……終わらせましょう」
アルディアが立ち上がった。
大鎌を構える。月の光を吸い込んで青白く輝く、父から受け継いだ刃。
父、キアロン・グリーンフェル。
彼は「救う」と約束し、最後まで教え子を殺さなかった。
だがその慈悲が——ルキアンの狂気とガルムの飢餓を、今日まで生き永らえさせてしまった。
「お父さんが守った約束は、私が終わらせる」
一歩、踏み出す。
「それが、グリーンフェルの名を継ぐヴァンパイアハンターの責務だから」
ガルムが咆哮しながら突進してくる。
アルディアは退かない。
ジュラの瘴気を纏わせた鎌が紫黒の軌跡を描き——ガルムの喉元へ、一閃。
「……ッ、ガ……」
銀の刃が、深く断ち切る。
噴き出す血の中で、ガルムの瞳に——一瞬だけ、人間の光が戻った。
その瞳に映ったのは、ハンターの姿ではなかった。
あの日、泥の中で自分を抱きしめてくれた、先生の面影。
「あァ……先……生……」
掠れた声。でも、確かに声だった。
「やっぱり……アナタの……娘……だ……」
ガルムの口元が、わずかに——本当にわずかに、微笑んだように見えた。
ドサリ、と。
巨躯が力なく崩れ落ちた。
聖堂に、静寂が戻る。
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レノアは、短剣を握りしめたまま膝をついていた。
姉の命を奪ったルキアンは消え、そのルキアンを喰らった怪物も、今ハンターの手によって沈黙した。
後に残ったのは——どこにも向けようのない、透明な喪失だけだ。
「……終わった、んだな」
声が、かすれた。
「僕の復讐は……どこへ行ったんだ。僕は、誰を殺せば……姉さんは、帰ってくるんだ」
床に倒れたまま、レヴィアのもとへ這い寄る。
冷たい頬に触れる。動かない身体を抱き寄せる。
アルディアは無言で武器を収めた。
ジュラが、傷ついた右腕を抑えながら寄り添ってくる。
「レノア」
アルディアの声は、冷たくもあり、どこか慈悲深くもあった。
「復讐に終わりはないわ。それは、ただの断絶に過ぎないから」
レノアは答えない。ただ姉を抱いていた。
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「……パパ」
瓦礫の影から、弱々しい声が響いた。
ボロボロになった白いドレス。首筋の傷跡を隠すように、裾を握りしめて立ち尽くす少女。
ユリナ・シルヴァリス。
主を失い、今や行き場のない遺物として、ここに残っていた。
「ねぇ、パパは……どこ? ユリナを、一番大事にしてくれるって……言ったのに」
アルディアはその少女を見つめた。
父が救おうとした教え子たちが作り出した、あまりにも残酷な飯事の被害者。
「……もう、パパはいないわ。あなたは、自由よ」
「自由……? そんなの、いらない」
少女の声が、震えた。
「ユリナは、パパの宝物でいたかっただけなのに……!」
泣き声が、聖堂の壁に反響する。
アルディアは何も言えなかった。言える言葉を、持っていなかった。
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「行きましょう、アルディア」
ジュラが、静かに促した。
アルディアは出口へと歩き出す。
去り際に、一度だけ振り返った。
姉を抱きしめたまま動かないレノアを見て、彼女は言った。
「レノア。……もし、まだその命を捨てるつもりがないなら、いつか私のところへ来なさい」
「……何のために」
「死にゆく者の声を、聞き届けるために。それが、ヴァンパイアハンターの——グリーンフェルの生き方よ」
レノアは答えなかった。
ただ冷たくなった姉の頬に自分の顔を寄せ、静かに目を閉じた。
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ジュラが黒い炎を放った。
聖堂のカーテンが燃え上がる。祭壇が、床が、全ての因縁が、炎に包まれていく。
月明かりの下、二人の背中が夜の闇に溶けた。
燃える聖堂を背に、アルディアは前を向いたまま歩き続けた。
手の中に、ジュラの結晶がある。
ガルムから受け取った義眼が、かすかに熱を持っている。
父が救えなかった命たちの重さが、この身体に刻まれていく。
それを抱えて、それでも歩くのが——グリーンフェルだから。
第5章を読んでいただきありがとうございます。
この章では、ルキアンとガルム、そしてキアロンが残した“約束”の代償が描かれます。
救えなかった命。
終わっても消えない喪失。
復讐の果てに残る、ただの断絶。
それでもアルディアは、父の背負ったものを受け継ぎ、前へ進もうとします。
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