幕間:飯事の終わり ― 傀儡皇帝ユリナの絶望 ―
それは、温かい家族の真似事だった。
褒められること。
役に立つこと。
一番でいること。
小さな少女が信じていた世界は、
あまりにも静かに、残酷に終わりを迎える。
■ 幕間:飯事の終わり
---
ユリナ・シルヴァリスの一日は、書類と共に始まった。
執務室の机は大きすぎて、椅子に座ると足が床に届かない。それでもユリナは毎朝きちんと腰を下ろし、山積みになった書類に、一枚ずつ丁寧に印章を押した。
ぽん。ぽん。ぽん。
できることは、それだけだった。
字はあまり読めない。数字も難しい。書いてあることの意味も、ほとんど分からない。
それでもパパはいつも言ってくれた。
「よくできたね、ユリナ」
その言葉だけで、十分だった。
---
ここに来てから、どれくらい経つだろう。
前のことは、あまり覚えていない。燃えた街。逃げる人々。パパに手を引かれて、気づいたらこの宮殿にいた。
パパはユリナに言った。「お前が新しい皇帝だよ」と。
ユリナには意味が分からなかったけれど、パパが笑っていたから、きっといいことなんだと思った。
毎日ぽんぽんとハンコを押して、パパに褒めてもらって、夜は隣の部屋で眠る。
それがユリナの世界だった。
小さくて、温かい世界。
---
ある日、ユリナは気づいた。
「パパの一番は、ユリナだよね?」
そう聞いた時、パパは笑顔でこう答えた。
「そうだよ、一番好きだよ」
でも。
その時パパの目は、ユリナを見ていなかった。
ユリナの向こう側——どこか遠い、ここではない場所を見ていた。
「パパとママの宝物だよ」
前に一度だけ、パパがそう言ったことがある。
その時も、同じ目をしていた。
(パパの宝物って、誰?)
疑問が、小さな胸に引っかかったまま、消えなかった。
---
パパがいない昼下がり、ユリナは執務室に忍び込んだ。
写真立てを探した。
ユリナとパパを一緒に写した写真。パパが大切にしているはずの、あの写真。
でも、見当たらない。
飾られているはずの棚に、ない。
焦る手で引き出しを開ける。一番奥、白い本の間に、何かが挟まっていた。
取り出して、開く。
そこに写っていたのは——ユリナじゃなかった。
若い頃のパパと、水晶玉に映る誰か。パパが笑っている。ユリナが一度も見たことのない、本当に嬉しそうな顔で。
「……これが」
声が、震えた。
「パパの、宝物……?」
精一杯のお仕事。いい子にしてたのに。頑張ったら一番になれると、信じていたのに。
「いや……やだ!」
写真をくしゃくしゃに握りしめる。
「私は一番がいいの! 他の誰かと一緒なんて、嫌!」
「——いけない子だね」
振り返れなかった。
冷たい声が、すぐ後ろにあった。
「ユリナ。パパがいない時に部屋に入ってはいけないって、あんなに言ったのに」
「パパ……ごめん、でも、これ……」
振り向けない。胸が、熱い。
何かが刺さっている気がして、ユリナは自分の胸を見下ろした。
白いドレスが、赤く染まっていた。
「なん……で……?」
「フフ……何を言ってるの?」
パパの手が、くしゃくしゃになった写真をユリナの指から抜き取った。丁寧に、大切そうに、皺を伸ばして。
「ユリナが一番大事だよ。……だから、君が死んでも、傍においてあげるよ」
優しい声だった。
いつものパパの声だった。
「まるで、生きているみたいにね」
世界が、遠くなっていく。
---
戦火が消えた後の宮殿は、静かだった。
ルキアンは窓の外を見ながら、冷めた紅茶を一口飲んだ。
(……先生。やっぱり分からないよ)
キアロンがかつて、アルディアと過ごしていた日々。
食卓を囲んで、他愛もない話をして、笑い合う家族の飯事。
先生はあれを、本当に幸せそうにしていた。
(あんなもの、何が楽しかったの?)
ルキアンには理解できなかった。
子供の笑い声も、温かい食事も、「パパ」と呼ばれることも——何も心に届かなかった。
ただ面倒で、ただ煩わしくて、ただの時間潰しだった。
傀儡が必要だった。それだけだ。
女帝の後釜として動かせる、扱いやすい看板。それ以上でも、それ以下でもない。
ルキアンは椅子を回した。
机の向こうに、ユリナが座っている。
白いドレス。整えられた髪。胸の傷は、見えないように隠してある。
目は開いたまま、動かない。でも、遠目には——まるで生きているみたいに見える。
「さて」
ルキアンは微笑んだ。
「次はいかが致しましょうか、『陛下』」
沈黙だけが、答えた。
幕間「飯事の終わり」を読んでいただきありがとうございます。
この幕間では、ユリナ・シルヴァリスという少女が見ていた
小さな世界の終わりが描かれます。
愛されていると信じていたこと。
一番でいられると信じていたこと。
その全部が、最初から歪んでいた。
ルキアンという存在の残酷さと、
彼がどうしても理解できなかった“家族”の形が、
静かに浮かび上がる一編になっています。
もし物語を気に入っていただけたら、
ブックマークや★評価、いいねで応援していただけると嬉しいです。
とても励みになります。




