幕間:さよなら、先生 ― 青龍ガルムの別離 ―
まだ全てが壊れきる前の、遠い夜。
女帝の時代。
魔女狩りの炎。
そして、道具として生きるしかなかった者たち。
これは、ある男が先生と再会し、
それでも別れを選ぶまでの記憶。
女帝セリーヌ・オルドレッドは、鏡が好きだった。
一日に何度も覗き込み、その度に満足する。この世界で最も美しいのは自分だと、鏡は毎回正直に答えてくれる。
だが鏡は、自分以外の美しい女たちのことまでは消してくれない。
「許せない」
それが、始まりだった。
美しい女は魔女だ。魔女は焼かなければならない。理屈など必要なかった。女帝が言えば、それが法になる。
「白虎」
「はっ」
「玄武」
「はっ」
「朱雀」
「はっ」
「青龍」
「……」
玉座の間に、四つの影が並んだ。
白虎・ハクレン。玄武・スオウ。朱雀・ルキアン。青龍・ガルム。
セリーヌの四天王——彼女が「道具」と呼ぶ者たち。
「全員揃ったわね」
セリーヌは満足げに微笑んだ。
「始めましょう。私以外の美しい女を、この世界から全部消してしまいなさい」
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魔女狩りは、火のように広がった。
辺境の村から始まり、やがて都市へ、聖域へ、果ては聖堂にまで。美しいというだけで、目つきが悪いというだけで、女たちは次々と連行され、裁かれ、消えていった。
その中で、一人の青年が泥の中を歩き続けていた。
「ごめんなさい」
ガルム・ブラッドハウンドは、呟きながら剣を振るった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
命令に従うたびに、謝る。謝りながら、また命令に従う。それを繰り返すことでしか、自分を保てなかった。この手が汚れるたびに、先生の顔が浮かぶ。キアロン・グリーンフェル。自分を拾い、名前を与え、「お前は獣じゃない」と言ってくれた人。
その先生に、今の自分を見せることは——絶対にできない。
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転機は、ある夜に訪れた。
魔女狩りの戦果を報告に戻ったルキアンが、玉座の前で立ち止まった。
「恐れながら陛下。申し上げたいことがございます」
「何? 私はこれから少女風呂に入るのに忙しいのよ。手短に話しなさい」
「では——」
ザシュ。
乾いた音だった。
セリーヌは自分の腹を見下ろした。そこから、赤いものが溢れている。
「す……朱雀……貴様……!」
「さようなら♪ お・ば・さ・ん♪」
ルキアンは微笑んだまま、剣を引き抜いた。
「貴女の時代は終わったのです。これからは——」
傍らに立つ小さな影を、顎で示す。
「『彼女』が、新しい皇帝です」
「きゃははっ♪ バイバーイ、お・ば・さ・ん♪」
ユリナ・シルヴァリスが、無邪気に手を振った。
「お……おのれ……」
女帝の身体が、玉座の前に崩れ落ちた。
鏡の中で最も美しかった女が、今は床の上で小さく縮んでいる。
ルキアンはその様子を一瞥し、すぐに興味を失った。
「さて」
玉座を見上げる。
新しい皇帝が、ちょこんと腰を下ろして笑っている。
「ご命令を、陛下」
「うん☆」
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宮殿に新しい皇帝が誕生した夜——別の場所で、ガルムはまた誰かを殺していた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
呟きが、夜に溶ける。
「……やっと見つけた」
声が聞こえたのは、また誰かを殺した後のことだった。
振り返る。
血まみれの手のまま振り返った先に——先生が立っていた。
「先生……っ?」
「会いたかった」
その一言だけで、ガルムの膝が崩れそうになった。
「来ないでください! 僕は……僕は今、汚くて……近づいたら……」
だが先生は構わず歩み寄り、両腕でガルムを抱きしめた。
震えが、止まった。
「大丈夫。もう大丈夫だ。怖いものは何もないよ」
何年ぶりだろう。こんなふうに誰かに抱きしめられたのは。
ガルムは声を上げて泣いた。みっともなく、子供みたいに、全部吐き出すように。
「先生……僕は……たくさんの人を……罪のない人を……この手で……」
「分かってる。全部分かってる。もう何も言うな」
ああ、この人になら——。
だが次の瞬間、ガルムは先生を突き放していた。
「逃げて!」
月が、雲の向こうから顔を出した。
「先生……僕の理性が残っているうちに……逃げてください……っ!」
身体の奥から、何かが這い上がってくる。血への飢え。暴食の呪い。いくら謝っても消えない、この身に刻まれた獣の本性。
「大丈夫。必ず俺が救ってやるから」
「もう……限界……」
月に向かって咆哮が響いた。
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水晶玉の向こうで、ルキアン・ヴェルティは微笑んでいた。
宮殿の執務室。傍らには書類仕事を終えたユリナが、満面の笑みで座っている。
「パパ、あたしとどっちが大事?」
「比べられないなぁ。パパはどっちも大切だから」
ユリナが花のような笑顔を見せる。
ルキアンはそれを見ながら、水晶の中の二人から目を離さなかった。
(馬鹿め。お前は傀儡に過ぎない)
女帝を殺し、この小娘を皇帝の座に据えた。自由に動くための、便利な看板。それだけだ。
「パパも愛してるよ」
口だけで言う。
水晶の中では、先生とガルムが戦っている。
どちらも傷つけるつもりはない。ただ——先生を、ガルムから引き離したい。
(最後に先生を愛するのは、僕でなければならないから)
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決着は、あっさりついた。
先生の力でガルムが拘束され、呪いが一時的に封じられる。ガルムは荒い息の中で、正気を取り戻した。
「……先生」
「もう大丈夫だ。言っただろ?俺が何とかしてやるって」
その瞬間——水晶を通して見ていたルキアンが、動いた。
「あれあれ、つまんないなぁ。もっと楽しませてほしいな。ね、先生? ね、青龍?」
声が、どこからともなく聞こえた。
先生の顔が険しくなる。
「……おまえっ!」
「俺はもう、青龍じゃない!」
ルキアンは楽しそうに笑った。
「なぁにいい子ちゃんぶってるの? さんざ人を殺し続けた癖に、今更戻れるとでも思ってるの?」
そして、声のトーンが変わった。
「……どうして、先生は僕だけ見てくれないの? こんなにも、こんなにも好きなのに」
一拍の沈黙。
「そうか。あの女の子供が邪魔なんだね? 待ってて先生……もうすぐ全部、忘れさせてあげるから」
「やめろ!」
だが声は闇に消えた。
先生が駆け出そうとする。ガルムは手を伸ばした。
「待って、先生!」
「すまない、急いでるんだ」
「奴のことは僕に任せて。先生は早く——あの子のところへ」
先生が立ち止まった。振り返る。
「お前は……その後、どうする」
ガルムは少し考えて、答えた。
「分からない。でも……森の奥にでも篭って、ひっそり生きるよ。もう誰も傷つけたくない」
先生の目が、細くなった。
「……そうか。すまん」
「謝らないでください」
「死ぬなよ」
「大丈夫です。それより早く——あの子のところへ」
先生は一瞬だけ迷い、それから走り出した。
その背中が、夜の闇に溶けていく。
(さよなら、先生)
ガルムは小さく呟いた。
声には出さなかった。出せなかった。
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「あれあれ? 追いかけてきたのは君? 嬉しいなぁ、幼馴染にこんなに愛されていたなんて」
ルキアンが闇の中から現れた。
「君を止めるために戻った。君の好きなようにはさせない」
「フフ……いいねぇ、そういうとこ好きだよ」
ルキアンは舌なめずりをした。
「早く、俺のものになりなよ」
「汚らわしい」
剣戟の音が夜に響く。
だが結果は、最初から決まっていたようなものだった。先生を逃がすために使い果たした体力。月明かりの下で高まる呪いの衝動。ガルムは地に伏した。
「何だ、やっぱり大したことなかったね」
ルキアンが見下ろす。その目に、憐れみはない。
「でもまぁ、君にしては頑張ったほうじゃない? 僕は今、忙しいんだ。先生も逃がしてしまったし、しばらくは他にやることもある。……だから、もう少しだけ待っててね。そのうち迎えに来るから」
「待……て……」
「待たないよ♪ それじゃね♪」
笑い声が、闇に消えた。
後に残ったのは、倒れたガルムと、静かな夜だけだった。
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一方その頃——。
「お父さん! おかえりなさーい♪」
自宅の扉を開けると、アルディアが笑顔で出迎えた。
キアロンは胸を撫で下ろした。無事だ。間に合った。
「話は後だ。出かけるぞ」
「えっ、どこに?」
「誰も行ったことのない、素敵な場所だよ」
「ほんと? わぁい、楽しみ!」
はしゃぐ娘の声を聞きながら、キアロンは思った。
(この子だけは……この子だけは、絶対に守らなければ)
ルキアンの声が、頭から離れない。
あの女の子供が邪魔だ、と。
夜が深まる前に、遠くへ連れて行かなければ。
二人の足音が、夜の道に消えていった。
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幕間「さよなら、先生」を読んでいただきありがとうございます。
この幕間では、ガルムとルキアン、そしてキアロンの過去が描かれます。
救いたかった者。
救われたかった者。
それでも届かなかった想い。
本編で語られてきた因縁の根が、
ここで少しずつ見えてきます。
原曲は此方→女帝は狂い、吸血鬼は昂揚する
https://www.youtube.com/watch?v=sEcKcDuibWk
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