第4章:紅い薔薇の葬列 ― 喪失の少年レノア ―
幸福は、あまりにも脆かった。
双子だけの小さな世界は、
満月の夜、吸血鬼の牙によって砕かれる。
そしてその瞬間、
一人の少年はもう戻れない場所へと踏み出した。
祭壇の硝子細工が、床に落ちて砕け散った。
乾いた音だった。
あまりにも小さな音が、あまりにも大きな何かの終わりを告げていた。
レヴィアとレノアが二人で作った、小さな世界。
聖堂の片隅に二つ並べた寝台。夜ごと囁き合った他愛のない話。朝の祈りの後、こっそり分け合ったパン。
それらすべてが、あの硝子と一緒に砕け散った気がした。
「あぁ……お前なら、潤してくれるのだろう……?」
ルキアン・ヴェルティの声は、恍惚としていた。
法衣は返り血に汚れ、真祖の牙が月光を弾いている。その美しい顔が今は化け物のそれで、しかし彼自身はそれに気づいていない。気づく理性が、もうない。
壁に追い詰められたレヴィアは、声も出なかった。
ただ、組み伏せられた首筋に、冷たい牙が触れる感触だけがあった。
「やめて……ルキアン様……っ!」
悲鳴は聖堂に響いたが、狂乱の吸血鬼には届かない。
ルキアンの脳裏にあるのは、愛する「アイツ」の幻影だけだ。ガルムの血の味。あの男だけが、自分を終わらせてくれる。その代わりとして、この清らかな血で渇きを——。
「レヴィア……っ!!」
廊下を走る音。扉が開く音。
レノアが駆け込んできたのは、もう間に合わない瞬間だった。
姉の白い首筋に、牙が深く突き立てられていく。
レヴィアの瞳から、光が奪われていく。かつての純潔な輝きが、吸血鬼の欲望に少しずつ飲み干されていく。
「離せ……っ! その汚い口を離せええええ!!」
レノアはルキアンの背に飛びついた。爪を立て、引き剥がそうとする。だが吸血は止まらない。真祖の力の前では、少年の腕力など無意味だった。
やがてルキアンの手から、レヴィアの身体が崩れ落ちる。
レノアは床に膝をついて姉を抱きとめた。
「レヴィア? ねぇ……目を開けてよ」
温もりが消えていく。
呼吸が消えていく。
「レヴィア」
返事がない。
「レヴィア!」
返事がない。
床に広がる血溜まりの中で、レノアはただ姉を抱きしめていた。
泣くことも、叫ぶことも、できなかった。
——世界が、音を失った。
どれほどそうしていただろう。
顔を上げた時、レノアの瞳には何もなかった。悲しみも、恐怖も、絶望も——全部燃え尽きた後の、黒い灰だけが残っていた。
「……殺してやる」
声が低かった。
それはもはや少年の声ではなく、何か別のものの声だった。
「咲き誇る前に、僕がこの手で……枯らしてあげるよ。吸血鬼」
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ルキアンは口元の血を拭い、牙を剥いた。
「……足りぬ。まだ、足りぬのだよ、少年」
真祖の魔力が膨れ上がり、その身体が影のように揺らめく。
満足はしていない。渇きはまだ消えていない。ガルムの血でなければ、何も——。
「僕たちの世界を」
レノアが立ち上がった。
懐から銀の短剣を引き抜きながら、一歩、前へ。
「その汚い爪で、触るな」
超常の速度でルキアンが迫る。
レノアは退かない。正面から刃を合わせ、弾かれながらも体を翻す。
キィィィィィィィン!!
金属音が聖堂に反響する。
圧倒的な筋力の差がある。にもかかわらずレノアは食らいついた。影に溶け込み、茨を足場に跳躍し、ルキアンの法衣を切り裂く。
「ハハッ! 良いぞ、その怒り! その憎しみ! お前の血はさぞかし毒のように甘かろう!」
「うるさい」
レノアは空中で身を翻した。
ルキアンが振り向くより速く——銀の刃が、吸血鬼の背に深く突き立てられた。
バリィィィィン!!
ステンドグラスが砕ける。月光が、二人を残酷に照らし出す。
壁に叩きつけられたルキアンが崩れ落ちる。法衣はボロ布と化し、真祖の血が石畳を汚す。
レノアは立ったまま、その上に影を落とした。
「……苦しいか」
答えない。
ルキアンは荒い息の中で、それでもガルムの名を呼んでいた。意識が混濁しながら、それでもあの男の幻を追い続けていた。
「返してほしい」
レノアの声は静かだった。怒鳴ることも、泣くこともなく、ただ静かに言葉を落とす。
「幸せだった、二人だけの世界を」
長い沈黙。
ルキアンの指が、力なくレノアへと伸びる。
まだ壊そうとしている。まだ諦めていない。この渇きが消えない限り、何も終わらない。
レノアはその指を、足で踏んだ。
「僕の宝物だけでは飽き足らず、僕まで壊そうというのか」
銀の刃を、ルキアンの首筋にあてがう。
冷たい刃の感触に、吸血鬼の動きが止まった。
「その薔薇」
レノアは静かに言った。
「咲き誇る前に、僕がこの手で枯らしてあげよう」
妖しく、そして悲しげな微笑み。
かつての無垢な少年の面影は、もうどこにもない。
ルキアンには関係がなかった。
この少年が何を失ったか。この刃に何が込められているか。
脳裏にはただ、ガルムの幻だけがある。
(アイツ……早く……)
「コ ロ セ !」
声が響く。
誰の声か。自分の声か。目の前の少年の声か。それとも——ずっと脳裏で叫び続けている、自分自身の絶叫か。
血の海の中で、ルキアンは目を閉じた。
レノアの手が動く。
「……何を失おうと」
鮮血が、薔薇の形に散った。
それが救いだったのか、破滅への招待状だったのか——今は、誰にも分からない。
第4章 後書き
第4章を読んでいただきありがとうございます。
この章では、レノアにとって決定的な喪失と変化が描かれます。
大切なものを奪われた時、
人はどこまで壊れ、どこまで変わってしまうのか。
そして、血の海に咲いた“紅い薔薇”が
救いだったのか破滅だったのか――その答えは、まだ先にあります。
第4章のイメージ楽曲:
Vendetta 4th「Blood Rose」
▼YouTube
https://youtu.be/ifP-YFDJygc
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