第9章:廃棄された娘 Scene 1 認識不能 ― Unknown / Noise ―
【BAD END ROUTE】
【START】
世界を白く塗り潰す光が、魔王アマリス・ルミナの掌へ集まっていた。
アルディアは動けなかった。
逃げなければならない。
頭では分かっている。
けれど、身体が命令を拒絶していた。
魔王と対峙した時の記憶が、恐怖となって蘇る。
街が消えた。
仲間が消えた。
ジュラも、自分自身も。
目の前の少女は、剣で斬れる敵ではない。
世界そのものを、存在しなかったことにできる怪物だった。
そして今、アルディアの手にあるものは、泥に汚れた小石が一つだけ。
剣はない。
魔力もない。
父も、ジュラも、バハムートもいない。
「……お母様?」
アルディアは、震える声で呟いた。
黒野が残した言葉。
――貴女を産まずに殺した、最強のラスボス。
意味が分からない。
母親なら知っている。
アルディアを抱き締め、家族の食卓で笑っていた、優しい女性。
目の前にいる破壊者ではない。
「貴女が……私の?」
魔王は答えなかった。
感情の見えない瞳が、アルディアを見下ろしている。
そこに、母親の愛情はない。
憎しみさえない。
ただ、処理すべき異物を観測する冷たい視線だけがあった。
ルミナの周囲に、淡い文字列が浮かび上がる。
【Target Scan】
【Individual Name:――】
【Genealogical Data:Not Found】
【Relationship:None】
【Recognition:Unknown】
【Classification:Noise】
「……ノイズ?」
アルディアの唇が震えた。
ルミナは初めて口を開いた。
「この領域は、既に終了したはず」
澄んだ声だった。
怒りも、嘲笑も含まれていない。
「なぜ、不要なデータが残っているの?」
「不要……?」
「貴女の存在は、世界の再構築を妨害している」
その口調は、人へ向けるものではなかった。
床に落ちた塵。
計算を狂わせる誤差。
削除し忘れたファイル。
それらを処理する時と、何も変わらない。
「待って」
アルディアは小石を握り締めた。
「私は、アルディア」
名前を告げれば、何かが変わるかもしれない。
父も、最初は自分を認識できなかった。
それでも名前には反応した。
ならば、この女性も。
本当に自分の母親なら。
「アルディア・グリーンフェル」
ルミナの表情は動かない。
「キアロン・グリーンフェルの娘」
その名を聞いても、魔王は眉一つ動かさなかった。
「お父さんを知っているんでしょう?」
「キアロン」
ルミナが、その名を繰り返した。
アルディアの胸に、小さな希望が灯る。
だが。
「空の器に与えられた識別名」
「……え?」
「回収対象ではあった。けれど、既に座標から消失している」
父を語る声に、愛情はない。
長い年月を越えて求め続けた者へ向ける言葉ですらない。
今のルミナにとってキアロンは、ただ回収に失敗したデータでしかなかった。
「違う」
アルディアは首を振った。
「お父さんは、空っぽなんかじゃない」
「訂正する必要はない」
「優しい人だった」
「不要な情報」
「私を守ってくれた!」
アルディアの声が河原へ響いた。
「お父さんは、ずっと私を守ろうとしてくれた! ガルムも、ジュラも、みんな――」
「該当データは存在しない」
言葉を遮るように、ルミナの瞳が白く光った。
アルディアの周囲に、赤い警告表示が浮かぶ。
【Garm Bloodhound:Deleted】
【Lucian Verti:Deleted】
【Jura Vine:Deleted】
【Bahamut:Confiscated】
【Kiarón Greenfell:Not Found】
「やめて……」
アルディアは耳を塞いだ。
文字は消えない。
瞼を閉じても、義眼の内側へ直接表示され続ける。
「違う」
一緒に戦った。
声を聞いた。
手に触れた。
父の温もりも、ジュラの笑顔も、確かに存在していた。
「みんな、生きてた」
「記録上、存在しない」
「私が覚えてる!」
「個体内部に残留した破損ログに、価値はない」
その瞬間。
アルディアの中で、恐怖よりも強い感情が燃え上がった。
「ふざけないで」
拳を握り締める。
爪が掌へ食い込み、血が滲んだ。
「貴女が忘れてるだけでしょう」
ルミナの瞳が、わずかに細くなる。
「お父さんのことも」
一歩、前へ出る。
「私のことも」
もう一歩。
「全部忘れて、自分だけ何も知らない顔をして!」
魔王の掌に集まっていた光が、さらに膨れ上がる。
それでもアルディアは止まらなかった。
「貴女がお母様だっていうなら!」
手にした小石を振りかぶる。
「私を見なさいよ!」
アルディアは、泥だらけの石を投げた。
魔王へ挑むには、あまりにも小さく、惨めな攻撃。
石は真っ直ぐルミナの顔へ飛んだ。
だが。
その額へ届く寸前で、空中に静止した。
「……っ」
ルミナが石を見る。
指一本動かしていない。
石の表面へ白い亀裂が走り、音もなく砂へ変わった。
そのまま一粒残らず、光の中へ消滅する。
「攻撃行動を確認」
ルミナはアルディアへ視線を戻した。
「排除優先度を変更」
【Noise Level:Minor】
【Recalculation】
【Noise Level:Critical】
「アルディアちゃん」
空の向こうから、黒野の声が降ってきた。
笑いを堪えている声だった。
『今の、最高だったよ』
「黙れ!」
アルディアは空へ叫んだ。
『世界を消した魔王に、小石を投げるなんてさぁ』
乾いた拍手が響く。
『勇敢というより、もうコメディだよね』
「姿を見せなさい!」
『嫌だよ。危ないじゃないか』
「全部返して!」
『それはさっき断ったでしょ?』
黒野の声には、何の痛痒もない。
『ほら、ママが待ってるよ。ちゃんと親子の会話を続けなよ』
「これは会話じゃない!」
『そう? お互いに言葉を出してるんだから、会話でしょ』
「この人は私を見てない!」
アルディアの叫びに、黒野は一瞬だけ黙った。
そして、心の底から楽しそうに笑った。
『当たり前じゃん』
「……え?」
『ルミナの中に、君を産んだ記憶なんてないんだから』
アルディアの心臓が、強く脈打った。
『君は生まれなかった』
黒野は、物語の筋書きを読み聞かせるように語る。
『君の元になった命は、誕生する前に母親と一緒に死んだ』
「何を……」
『だから、ルミナが君を知っているわけがない』
「嘘よ」
『今の君は、成立しなかった未来の残りかすだ』
「嘘!」
『誰にも産まれていない娘』
「黙れ!」
アルディアは空へ手を伸ばした。
届くはずもない。
『父親には忘れられ』
黒野の声が続く。
『母親には最初から知られていない』
「やめて……」
『可哀想だねぇ』
アルディアの膝が震えた。
だが、倒れることだけは拒んだ。
「それでも」
拳を構える。
魔力はない。
武器もない。
勝てる可能性など、一つもない。
「私が誰かは、私が決める」
ルミナへ向かって走った。
「私は、アルディア・グリーンフェル!」
右腕を振りかぶる。
「お父さんの娘よ!」
ルミナは動かなかった。
アルディアの拳が、その頬へ届く。
そう見えた。
次の瞬間。
白い光が弾けた。
「――ッ!」
衝撃すら感じなかった。
気づいた時には、アルディアの身体は河原を転がっていた。
右腕の感覚がない。
起き上がろうとして、肘から先が白い粒子へ変わり始めていることに気づいた。
「いや……」
消滅が肩へ向かって進んでいる。
「まだ……」
左手で地面を掴む。
立ち上がらなければ。
戦わなければ。
父を取り戻す。
ジュラも、バハムートも。
全部返してもらうまでは。
「まだ、終われない……!」
足へ力を込める。
だが、ルミナは既に目の前に立っていた。
速さではない。
距離という概念ごと無視して、そこに現れた。
「対象の抵抗を確認」
その瞳に、アルディアは映っていない。
「自己保存機能に異常」
「私を……見て」
「修復の必要なし」
「一度でいいから……」
残った左手を伸ばす。
「娘だって……」
ルミナの掌が、アルディアの額へ触れた。
温かかった。
ほんの一瞬だけ。
母親の手とは、こんな温度なのだろうか。
そんな考えが浮かんだ。
「認識不能」
ルミナは静かに告げた。
「排除する」
「おかあ……」
光が、アルディアの視界を埋め尽くした。
【Delete Process Start】
【Target:Aldia Greenfell】
【Classification:Unknown / Noise】
【Erasing Individual Data……】
身体が消えていく。
痛みはない。
温度もない。
名前すら、遠くなっていく。
最後に残ったのは、父の手を握った記憶。
ジュラが言った「ただいま」。
バハムートの声。
ガルムの微笑み。
ルキアンの、寂しそうな最期。
それらだけは、白い光の中でも消えなかった。
(存在しないなんて、言わせない)
意識が途切れる寸前。
アルディアは、消えゆく記憶を胸の奥へ抱き締めた。
(私が、覚えている)
【Individual Data Erased】
【World Record:Rejected】
【Deletion Complete】
暗闇。
すべてが終わった。
――はずだった。
【Warning】
【Unregistered Memory Fragments Detected】
【Unable to Complete Permanent Purge】
【Residual Data:N】
【Destination Recalculation……】
【Move to Trash Box】
アルディアの意識が、暗闇の中を落下していた。
身体はない。
声も出ない。
上下すら分からない。
ただ、無数の何かが周囲を流れていく。
誰かが生きた記憶。
誰かが選ばなかった未来。
途中で打ち切られた物語。
修正され、上書きされ、なかったことにされた人生。
笑い声。
泣き声。
愛を告げる声。
助けを求める声。
それらすべてが、壊れた映像と音声の断片となって、暗い底へ沈んでいく。
(ここは……どこ?)
答えの代わりに、無数のファイル名が闇へ浮かび上がった。
【Save Data 01】
【Save Data 01.5】
【Save Data 03】
【Save Data 04】
【Route:Terminated】
【World:Rejected】
【Character:Unused】
【Story:No Longer Required】
捨てられたものたち。
黒野が不要だと判断した、世界の墓場。
アルディアは、その最深部へ向かって落ち続けていた。
やがて。
暗闇の中で、一つの画面が点灯した。
激しいノイズ。
警告音。
モニターの向こう側を、黒い濁流が飲み込んでいく。
【SaveData Loading……】
【Accessing Real-time Data……Failed】
【Irrecoverable Collision Detected】
【Initiating Emergency Purge】
瓦礫の隙間。
一人の男が、冷たくなった女性を抱き締めている。
「……ごめんね」
濁流の轟音に掻き消されながら、男は彼女の頬へ口づけた。
「愛していたよ」
アルディアは、その光景を見ていた。
知らない男。
知らない女性。
知らない世界。
けれど。
胸の奥が、強く痛んだ。
これは記録ではない。
作り物でもない。
ここにも確かに、誰かが生きていた。
【Save Data:Load Start】
【幕間:SaveData Load...error】
捨てられた世界が、再び動き始めた。




