第8章:愛し花、灼然くScene 4 神の気まぐれ― System Reset: The God's Whim ―
「寂しいなぁ」
その言葉を最後に、ルキアン・ヴェルティの身体は黒い炎へ飲み込まれた。
崩れた肉体は灰色の粒子となり、冷たい風に攫われていく。
後に残ったのは、彼岸花の甘い香りだけだった。
静寂。
先ほどまで河原を埋め尽くしていた赤黒いエラーコードも、犠牲者たちの呻き声も消えていた。
雨は止んでいる。
灰色の雲の隙間から、淡い光が差し込んでいた。
「……終わった」
アルディアは大きく息を吐いた。
終焉龍剣バハムートの黒い炎が静まり、刀身に走っていた赤い光もゆっくりと消えていく。
『見事ダ、娘ヨ』
バハムートの声は、戦いの前よりも穏やかだった。
『我ガ主ノ血ハ、正シク受ケ継ガレテイル』
「……ありがとう」
アルディアは、漆黒の刀身へ静かに答えた。
すぐ隣では、ジュラが大鎌を地面へ突き立てていた。
「まったく」
ジュラは肩を押さえながら、疲れ切った顔で息を吐く。
「復活して早々、化け物二人を相手にすることになるなんてね」
「ごめん」
「謝らないで」
ジュラは即座に返した。
「別に、貴女のためじゃないもの」
「そう」
「……何よ、その顔」
アルディアは少しだけ笑った。
ジュラが不機嫌そうに目を細める。
それは、アルディアが久しく見ていなかった表情だった。
復讐を始める前。
まだ二人で旅をしていた頃。
つまらないことで言い争い、どちらからともなく歩き出した、あの頃のジュラ。
「おかえり、ジュラ」
アルディアは、もう一度言った。
「……ただいま」
ジュラは目を逸らした。
その頬が少しだけ赤く見えたのは、枯れかけた彼岸花の色が映っただけなのかもしれない。
アルディアは大剣を下ろし、父を振り返った。
キアロンは、河原の泥の上で小さく身体を丸めていた。
耳を塞いでいた手は、既に力なく落ちている。
それでも顔を上げようとはしなかった。
「お父さん」
アルディアは、ゆっくり近づいた。
一歩。
また一歩。
父を刺激しないように、足音を立てずに歩く。
「もう大丈夫だよ」
キアロンの肩が僅かに震えた。
「怖い獣も、変な吸血鬼もいなくなった」
アルディアは大剣を地面へ置き、キアロンの前へ跪いた。
剣を持ったままでは、また怖がらせてしまう。
今の自分が敵ではないと、分かってほしかった。
「もう、誰もお父さんを傷つけないよ」
キアロンが、恐る恐る顔を上げた。
焦点の合わない瞳。
疲れ切り、骨のように痩せ細った身体。
そこに、アルディアの知る父の面影はほとんど残っていない。
それでも。
目尻の皺。
困った時に少しだけ下がる眉。
それだけは、昔と何も変わっていなかった。
「……だれ?」
キアロンが尋ねた。
「おまえ……だれ?」
胸が締めつけられる。
アルディアは泣きそうになるのを堪えた。
今の父の前で泣いてはいけない。
幼い頃とは違う。
今度は、自分が父を守らなければならない。
「私は、アルディア」
ゆっくりと、名前を伝える。
「アルディア・グリーンフェル」
キアロンの瞳が僅かに揺れた。
「ある……」
乾いた唇が動く。
「でぃ……あ……?」
「うん」
アルディアは頷いた。
「貴方の娘だよ」
「娘……」
キアロンは、初めて目の前の少女を見ようとした。
青緑の髪。
傷だらけの身体。
失われた右目へ埋め込まれた、魔女の義眼。
それらを一つずつ、壊れた記憶と照合するように見つめる。
「アルディア……」
その名を呼ばれた瞬間。
アルディアの視界が滲んだ。
たった一度。
ただ名前を呼ばれただけ。
それだけで、復讐を始めてから積み上げてきた憎しみも、苦しみも、すべて報われた気がした。
「ここにいるよ」
アルディアは、震える声で答えた。
「ずっと、探してた」
キアロンの手が動いた。
けれど、アルディアへ触れる直前で止まる。
「俺の……」
その指が震えている。
「大事な、あの子は……どこだ?」
記憶は、完全には戻っていない。
目の前の少女と、記憶の中で笑っている幼い娘を、同じ存在だと認識できていない。
それでも。
アルディアは、その手をそっと握った。
冷たい。
細い。
頼りない手だった。
けれど確かに、あの日自分の頭を撫でてくれた父の手だった。
「ここにいるよ、お父さん」
アルディアは、その手を自分の頬へ当てた。
「大きくなっちゃったけど」
キアロンの指が、僅かに動く。
義眼の周囲に残る古い傷跡を、恐る恐るなぞった。
「……痛かった?」
「少しだけ」
本当は、死ぬほど痛かった。
目を奪われた時も。
家族を失った時も。
ジュラが消えた時も。
父に忘れられた時も。
全部、痛かった。
けれど今は、それでよかった。
父がここにいる。
自分の頬へ触れている。
それだけでよかった。
「ごめん」
キアロンが呟いた。
何に対する謝罪なのか、本人にも分かっていないのだろう。
「守らないと……いけなかったのに」
「もういいよ」
アルディアは首を横に振った。
「今度は私が守るから」
キアロンは、何も答えなかった。
だが、アルディアの手を振り払うこともしなかった。
その様子を少し離れた場所から見ていたジュラが、大鎌を肩へ担いだ。
「早く行きなさい」
アルディアが振り返る。
「ジュラ?」
「ここに居続けても仕方ないでしょ」
ジュラは霧の向こうを顎で示した。
「出口があるかは知らないけど、歩かなければ何も見つからないわ」
「一緒に来ないの?」
「後から行く」
「どうして?」
「空気を読んであげてるのよ」
ジュラは、呆れたように溜息をついた。
「親子の再会に嫉妬して割り込むほど、私も子供じゃないわ」
「嫉妬の魔女なのに?」
「今すぐ貴女の頭を割ってもいいのよ?」
大鎌の刃が僅かに持ち上がる。
アルディアは笑った。
声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
ジュラも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
『行ケ、娘ヨ』
地面に置かれていたバハムートが、黒い光に包まれる。
身の丈を超えていた大剣は形を縮め、アルディアの腰へ収まるほどの黒い剣へ変わった。
『我ハ、汝ト共ニアル』
「ありがとう」
アルディアは立ち上がった。
キアロンの手を引く。
父は一度だけ不安そうに周囲を見回したが、やがてゆっくりと立ち上がった。
「いこう」
アルディアは言った。
「ここは寒いから」
キアロンが、小さく頷く。
二人は並んで歩き始めた。
行き先は分からない。
三途の河原に出口があるのかも分からない。
霧の向こうに待っているのが、生者の世界なのか、別の地獄なのかも分からない。
それでも、一人ではない。
アルディアは、父の手を離さなかった。
キアロンもまた、その手を握り返していた。
霧の向こうへ消えていく二人の背中を、ジュラが静かに見送る。
枯れていた彼岸花が一輪だけ開き、冷たい河原に赤い色を取り戻した。
これでいい。
復讐は終わった。
失われた家族は、完全ではないにせよ戻ってきた。
壊れた者たちも、ようやく苦しみから解放された。
長く続いた悲劇は、ここで終わる。
少女は父と共に、新しい世界へ歩き出す。
第8章。
愛し花、灼然く。
――完。
「はい、カット」
パチン。
乾いた指の音が、世界へ響いた。
アルディアが握っていた父の手から、突然温もりが消えた。
「……え?」
柔らかな皮膚が、指の隙間で崩れる。
それは血でも、肉でもなかった。
ザラザラとした灰色の砂。
「お父さん?」
アルディアが振り返る。
そこには、誰もいなかった。
握っていたはずのキアロンの身体は崩れ、足元へ落ちた砂となっていた。
「お父さん!」
アルディアは砂を掻き集めた。
「待って! お父さん、どこ!?」
返事はない。
「アルディア!」
ジュラの声。
アルディアが顔を上げる。
離れた場所にいたジュラの身体にも、黒い亀裂が走っていた。
「ジュラ……?」
「何、これ……」
ジュラが自分の腕を見る。
指先から身体が粒子へ変わっていく。
「待って!」
アルディアが駆け寄ろうとする。
だが、その腰にあったバハムートが砕けた。
『――娘ヨ』
「バハムート!」
漆黒の剣は一瞬で光の粒子へ変わり、風に吹き飛ばされた。
『逃ゲ――』
声が途切れる。
「嫌……」
ジュラへ手を伸ばす。
「嫌よ、やめて!」
ジュラもまた手を伸ばした。
けれど、二人の指が触れる前に。
「アルディ――」
ジュラの姿が、黒いノイズとなって消えた。
父も。
ジュラも。
バハムートも。
足元に咲いた、一輪の彼岸花さえも。
フィルムが焼き切れるような音を立て、世界のすべてが崩壊していく。
「何……?」
アルディアは、空になった手を見つめた。
「何が起きてるの……?」
「あぁ」
空から、あくび混じりの声が降ってきた。
「おもんないなぁ」
灰色の空へ亀裂が入った。
巨大な硝子が割れるように、空そのものが崩れ落ちる。
その向こうにあったのは、夜でも光でもない。
無数の文字列が流れる、黒いシステム領域。
亀裂の奥から、一人の男が歩いてくる。
まるで目に見えない階段でもあるかのように、一段ずつ空を降りてくる。
仕立ての良い黒いスーツ。
片手には、古びた文庫本。
口元には、心底退屈そうな笑み。
アルディアは、男を知らなかった。
義眼にも、父の記録にも、その存在は残されていない。
それなのに。
本能が叫んでいた。
こいつが、すべての元凶だと。
「……誰?」
アルディアは腰へ手を伸ばした。
バハムートを抜こうとする。
だが、指が掴んだのは空気だけだった。
「え?」
剣がない。
隣にも、ジュラはいない。
手元にあるのは、泥と血で汚れた素手だけ。
「あー、それ?」
男は笑った。
「没収ね」
「返して」
「ん?」
「返してよ」
アルディアの声が震える。
「私の剣を……ジュラを……」
足元の砂を握り締める。
「お父さんを返してッ!」
叫びが、壊れた空へ反響する。
男は耳を塞ぐ仕草をした。
「うるさいなぁ」
アルディアの悲鳴など、虫の羽音ほどにも感じていない。
「いやぁ、笑わせてもらったよ」
男は文庫本を開き、そこに記された文章を読み上げるように話し始めた。
「パパが残した最強武器」
ページを一枚捲る。
「死んだお友達が都合良く復活」
さらに一枚。
「昔の敵を全員倒して、最後は記憶を失ったパパと感動の再会」
パタン。
文庫本を閉じる。
「何ですか、これ?」
男は小首を傾げた。
「おヴぁーかでぇーすかぁー?」
「……ッ!」
「恥ずかしいなぁ」
心底憐れむような目で、アルディアを見下ろす。
「僕が用意した敵を、僕が許可した力で倒して、それで自分の力で勝ったつもり?」
「貴方が……」
「うん?」
「貴方が、みんなに何をしたの?」
「何って」
男は考えるように顎へ指を当てた。
「設定変更?」
軽い口調だった。
「ちょっとAIに自由に演算させすぎたんだよね。まさかバハムートまで勝手に引っ張り出して、ハッピーエンドを作るとは思わなかった」
「AI……?」
「君たちのことだよ」
男はアルディアの額を指差した。
「僕の世界で動く、物語用の人工知能」
「私たちは……」
「キャラクター」
男は笑った。
「観測者を楽しませるためのね」
アルディアの思考が、言葉を拒絶した。
父の手の温もりも。
ジュラと過ごした旅も。
失った家族への悲しみも。
復讐の痛みも。
すべてが誰かを楽しませるために用意されたものだと、この男は言っている。
「嘘よ」
「別に信じなくてもいいさ」
男は肩をすくめた。
「ただね、ご都合主義は僕だけで十分なんだよ」
黒い空間に、無数のウィンドウが浮かび上がる。
【Bahamut_Zero.dat】
【Jura_Reconstruction.log】
【Happy_End_Route_08】
三つのファイルへ、赤い文字が重なった。
【CONFISCATED】
【DELETE】
「やめて!」
アルディアが手を伸ばす。
だが、ファイルは次々とゴミ箱へ落ちていく。
「返してよ!」
「嫌だね」
「どうして!」
「つまらないから」
それだけだった。
誰かの命を消す理由として。
家族の再会を壊す理由として。
あまりにも軽く、あまりにも純粋な悪意。
「せっかく、次の出演者まで用意してたのに」
男は指を鳴らした。
「君たちだけで勝手に終わられたら困るんだよ」
「次の……?」
「あぁ、そうだ」
男は、獲物の反応を楽しむように口元を歪めた。
「本当のママとの再会」
「……ママ?」
アルディアの脳裏に、失われた家族の姿が浮かぶ。
自分を抱き締めてくれた母。
父と並んで笑っていた、優しい女性。
「お母さんは、死んだ」
「その人じゃないよ」
男は楽しそうに首を振った。
「君を産むはずだった女」
「何を……言ってるの?」
「まあ、会えば分かるさ」
男が、再び指を鳴らす。
「つまんないから、リセットね」
世界が震えた。
「はい♪」
黒いシステム領域に、命令文が表示される。
【System Command】
【Load Sequence:Real_Hell_ver.2.0】
「やり直し」
キュルキュルキュルッ!
世界が逆回転を始めた。
崩れた空が戻る。
散った花弁が枝へ吸い込まれる。
足跡が消え、流された泥が元の場所へ戻っていく。
アルディアの身体が、見えない何かに掴まれた。
「やめて!」
強制的に後方へ引き戻される。
「嫌! やめてよ!」
父と歩いた距離が、ゼロへ戻る。
ルキアンを貫いた傷が消える。
ガルムを断った記憶だけが残り、その結果だけが奪われる。
ジュラの肉体は復元されない。
バハムートも戻らない。
アルディアが得たものだけが没収され、彼女の身体だけが物語の開始地点へ戻されていく。
「返してェェェッ!」
絶叫が、巻き戻る世界に飲み込まれた。
ノイズ。
暗転。
そして。
アルディアは、再び河原に膝をついていた。
目の前には、崩れた石の塔。
泥だらけの両手。
武器はない。
仲間もいない。
父もいない。
【Player Status】
【Name:Aldia Greenfell】
【Level:1】
【Weapon:None】
【Ally:None】
【Administrator Authority:0】
「どうして……」
アルディアは震える両手を見つめた。
「どうして、また……」
コツ。
河原に、硬い足音が響く。
コツ。
コツ。
革靴ではない。
細い踵が石を踏む、優雅な音。
リコリスの花が、何かを恐れるように左右へ倒れていく。
アルディアは、ゆっくりと顔を上げた。
霧の奥から、一人の女性が歩いてくる。
長い髪。
白く輝く肌。
神々しさと禍々しさを同時に纏った、絶対的な存在。
その姿を、アルディアが忘れるはずがなかった。
あの日。
街を消した。
世界を消した。
仲間を消した。
そして最後には、アルディア自身をも、不要なノイズとして消し去った存在。
「……魔王」
喉が引きつる。
「アマリス……ルミナ……!」
身体が勝手に後ずさった。
戦おうという意思すら湧かない。
勝てるはずがない。
目の前の女は、剣や魔法で倒すような敵ではない。
世界そのものを終わらせた存在。
アルディアの手にあるのは、泥に汚れた小石が一つだけだった。
空の上から、男の声が聞こえる。
『さぁ、アルディアちゃん』
楽しげな声。
『パパの遺産も、お友達の力もなし』
魔王ルミナが、アルディアを見下ろす。
その瞳には、懐かしさも愛情もない。
目の前に存在する、意味不明な異物を観測するだけの目。
【Target Recognition】
【Unknown】
【Noise】
『その状態で、自分を産まずに殺した最強のラスボスと、どう向き合うのか』
「産まずに……?」
アルディアの呼吸が止まる。
『貴女の本当のお母様とね』
「何を言って……」
魔王が、ゆっくりと片手を持ち上げた。
その掌へ、世界を白く塗り潰す光が集まっていく。
アルディアは逃げることもできず、ただ震えていた。
黒野の声が、静かに告げる。
『さぁ、ママ』
光が、河原を照らした。
『仕事の時間だよ』
【BAD END ROUTE】
【START】




