第8章:愛し花、灼然く Scene 3 大罪の残り火― Embers of the Sin ―
「さぁ――第2ラウンドよ」
アルディアの声が、冷たい河原を切り裂いた。
左手には、終焉龍剣バハムート。
その隣には、大鎌を構えたジュラ・ヴァイン。
対するは、二人の大罪。
空腹だけに支配された暴食の獣、ガルム・ブラッドハウンド。
そして、先生への執着だけで形を保っている色欲の吸血鬼、ルキアン・ヴェルティ。
「グ……ゥ……」
最初に動いたのはガルムだった。
だが、その動きに、かつての獣王としての速さはない。
泥へ沈んだ四肢を引きずりながら、一歩ずつキアロンへ近づいていく。
身体の輪郭は絶えず明滅し、皮膚の裂け目からは、血ではなく黒いノイズが漏れていた。
魔王ルミナに暴食の権能を奪われた今、そこにいるのは人狼ですらない。
満たされることのない空腹。
先生と一つになりたいという願い。
二つの概念だけが、ガルムの姿を借りて動いている。
「先生……」
ガルムの牙の隙間から、掠れた声が漏れた。
「食ベ、タイ……」
キアロンが怯えたように身を縮める。
「一ツニ……ナレバ……モウ、離レナイ……」
ガルムが泥を蹴った。
「先生ェェェッ!」
巨大な顎が開く。
アルディアは、父の前へ踏み込んだ。
大剣を両手で握り、突進してくるガルムを正面から見据える。
「アルディア!」
ジュラの声が飛ぶ。
「避けなさい! あの質量を真正面から受けたら――」
「避けない」
アルディアは動かなかった。
背後には父がいる。
ここで退けば、ガルムの牙はキアロンへ届く。
左手の大剣が、低く唸った。
『……嘆かわしい』
バハムートの声が、アルディアの脳裏へ響く。
古い岩盤が軋むような、重く静かな声。
『我は宝石の闇より、あやつを見ていた』
「ガルムを?」
『ガルムという名を得る、遥か以前からだ』
バハムートの刀身に、遠い時代の光景が映った。
まだ暴食へ堕ちる前。
鋼の剣を手に、仲間たちの前へ立つ一人の青年。
己の欲望を律し、飢えも恐怖も飲み込み、ただ誰かを守るために剣を振るう男。
『かつてのあやつは、節制を司る者であった』
バハムートは戦場へ立たなかった。
主ヒューミリスの持つ宝石の奥。
深いインベントリの闇から、七つの美徳が歩んだ旅を見続けていた。
英雄たちの勝利も。
裏切りも。
崩壊も。
そして、節制の剣士が暴食の獣へ落ちていく姿も。
『飢えすら飼い慣らす、鋼の魂を持っていた』
ガルムが迫る。
『それが今や、飢えそのものに喰われた残骸か』
黒い刀身に炎が灯った。
『娘ヨ』
アルディアの腕へ、大剣の意思が流れ込む。
『あやつを憐れむな』
「……うん」
『侮るな』
アルディアは剣を振りかぶった。
『かつての気高き魂へ敬意を払い――』
ガルムの牙が、目の前へ迫る。
『その苦しみごと、断ち切れ』
「分かった」
アルディアは一歩踏み込んだ。
「さようなら、ガルム」
大剣を振り下ろす。
「貴方がくれた、この眼で――」
義眼が青白く輝いた。
ガルムの輪郭。
体内を走る壊れた魔力。
空腹の中心に残された、小さな魂の核。
そのすべてが、アルディアの視界へ映し出される。
「今度こそ、お父さんを守り抜くから!」
ズォンッ!
終焉龍剣が、ガルムの身体を捉えた。
黒い炎が巨大な獣を包み込む。
衝突音はなかった。
骨が砕ける音も、肉が裂ける音もない。
大剣は、ガルムの巨体を枯れ葉のように容易く両断した。
「ア……」
ガルムの爪が、キアロンへ向かって伸びる。
だが、届かない。
切断面から溢れ出した光の粒子が、その腕を少しずつ崩していく。
「先……生……」
ガルムの濁っていた瞳へ、一瞬だけ光が戻った。
そこに映っているのは、キアロンだった。
今の、壊れたキアロンではない。
泥の中で震えていた自分を抱き締め、
「お前は獣じゃない」
そう言ってくれた、かつての先生。
「先生……」
ガルムは目を細めた。
「アタタ……カイ……」
それは獣の唸りではなかった。
親の胸へ抱かれた、幼い子供の声だった。
ガルムの身体が、柔らかな光へ変わっていく。
「……ありがとう」
アルディアが小さく呟いた。
その声が届いたのかは分からない。
けれど、ガルムの口元は、最後にわずかに笑ったように見えた。
光が風に流される。
ガルム・ブラッドハウンドという存在は、今度こそ三途の河原から消えていった。
後に残ったのは、一つの古びたロケットだけだった。
泥の上へ落ちたそれを、アルディアは拾い上げる。
錆びついた蓋を開く。
中の絵は、長い年月でほとんど消えていた。
それでも、そこに描かれていたのが先生と二人の生徒だったことだけは分かった。
「お父さん」
アルディアは振り返った。
「もう大丈夫。ガルムは――」
言葉が止まる。
キアロンは、消えていく光の粒子を見つめながら震えていた。
「あ……あ……」
「お父さん?」
「だれ……?」
焦点の合わない瞳が、アルディアと、ガルムの消えた場所を往復する。
「ガル……ム……?」
何かを思い出そうとするように、キアロンは頭を押さえた。
「けだもの……?」
「違う」
アルディアは首を横に振った。
「あの人は、お父さんの大切な生徒だった」
「生徒……」
「ガルムだよ。お父さんが名前をあげた――」
「こわい」
キアロンは後ずさった。
「え?」
「こわれた……」
身体を小さく丸める。
「また、こわれた……」
「お父さん、違う。私は――」
アルディアが手を伸ばす。
「来るな!」
キアロンは悲鳴を上げ、その手を避けた。
「俺も、こわれる……!」
「……っ」
アルディアの指が宙で止まる。
守ったはずだった。
父を襲う獣を倒した。
ガルムを苦しみから解放した。
それなのに、キアロンの目に映っているのは、父を救った娘ではない。
巨大な剣で誰かを両断した、恐ろしい何か。
「ク……ククッ」
乾いた笑い声が響いた。
ルキアンだった。
「何がおかしいの」
アルディアが睨む。
「いやぁ、実に感動的だと思ってね」
ルキアンの身体もまた、崩壊を始めていた。
足元から粒子が剥がれ落ち、半透明になった法衣の向こうに、赤黒い骨格のようなコードが透けている。
かつて世界を覆うほどの茨を操った真祖の吸血鬼。
今は、枯れる寸前の薔薇のように脆く、惨めだった。
「先生を守るために生徒を殺したのに、その先生から化け物扱い」
ルキアンは笑った。
「報われないねぇ、アルディア」
「黙って」
「先生はもう壊れているんだよ」
ルキアンが、キアロンへ視線を移す。
「ファイルが破損している」
「お父さんは物じゃない」
「君が誰かも分からない。ガルムが消えたことも理解できない。自分がどこにいるかすら、認識できていない」
ルキアンは、ふらつきながら一歩進んだ。
ジュラがアルディアの前へ出て、大鎌を構える。
「それ以上近づいたら、首を落とすわよ」
「落とせるものなら、どうぞ」
ルキアンは両手を広げた。
「もう僕には、首も心臓も大した意味はない」
法衣の隙間から、赤黒い粒子が溢れる。
「魔王ちゃんに全部持っていかれた」
色欲の権能。
真祖の魔力。
不死の肉体。
長い間、ルキアンをルキアンたらしめていた力。
そのほとんどが、もう失われている。
「僕たちは空っぽだ」
ルキアンは寂しそうに笑った。
「ガルムも、僕も、先生も」
「だから何」
「空っぽなら、混ぜても同じだろう?」
その瞳に、最後の狂気が灯る。
「先生を直すことができないのなら、僕が一緒に壊れてあげる」
「……何をするつもり?」
「あぁ、足りない」
ルキアンの身体が大きく揺れた。
「あまりにも、足りない」
足元から崩れ始めた粒子が、空中で赤黒い文字列へ変化する。
意味を成さないコード。
破損した命令。
終端のないエラー。
「先生、見ていてください」
ルキアンはキアロンへ微笑みかけた。
「今、僕のすべてを使って、貴方を向こう側へ連れて行ってあげます」
「やめなさい」
ジュラが大鎌を振るう。
だが、刃が届く前に、ルキアンの背後から赤黒い濁流が噴き出した。
ゴォォォォォォッ!
それは血液ではない。
魔力ですらない。
ルキアン・ヴェルティという存在を構成していた、データのエラーコードそのもの。
「僕と混ざろう、先生!」
赤黒い泥が、津波となって河原へ広がる。
「アルディアも! ジュラも! バハムートも!」
ルキアンは両腕を広げ、歓喜の声を上げた。
「みんな、みんな僕の中で一つになれば――」
泥の表面に、無数の顔が浮かぶ。
ルキアンに殺された者。
操られた者。
喰われた者。
彼自身が忘れ去った、犠牲者たちの断末魔。
「もう誰も、寂しくないよ!」
「気持ち悪い」
アルディアは吐き捨てた。
嫌悪で、全身が粟立っていた。
恐ろしいからではない。
父を愛していると言いながら、父の心も身体も存在も奪い、自分の一部へ変えようとする。
その行為を愛と呼ぶルキアンが、心の底から許せなかった。
「長い時を生きて、まだ分からなかったの?」
アルディアは大剣を構える。
「一つになることと、一緒にいることは違う」
「知ったような口を!」
赤黒い泥が襲いかかる。
ジュラがアルディアの右隣へ並んだ。
「アルディア」
大鎌を両手で握る。
「道は私が開く」
「ジュラ」
「中にいる気持ち悪いのを、貴女が殺しなさい」
大剣から黒い炎が噴き上がった。
『娘ヨ』
バハムートの低い声。
『遅レルナ』
「分かってる」
アルディアは地面を蹴った。
「行くわよ!」
「無駄だァ!」
ルキアンの叫びと共に、泥が巨大な壁となって立ちはだかる。
「僕の愛は海より深い!」
「どきなさいッ!」
ジュラが大鎌を振り抜いた。
黒い刃が、赤黒い泥へ食らいつく。
斬るのではない。
喰らう。
自我を汚染するコードも、犠牲者たちの声も、ルキアンの歪んだ愛も。
嫉妬の大鎌は、すべてを飲み込みながら泥の壁へ風穴を開けた。
「アルディア!」
開いた道へ、アルディアが飛び込む。
赤黒い泥が左右から押し寄せる。
衣服が裂ける。
頬をエラーコードが掠め、焼けるような痛みが走る。
それでも止まらない。
道の先に、ルキアンが立っている。
彼は逃げなかった。
胸から下は、すでにほとんど消えている。
それでも両腕を広げ、アルディアを迎え入れようとしていた。
「おいで、アルディア」
ルキアンは微笑んだ。
「君も先生の娘なら、僕たちは家族になれる」
「お断りよ」
「君を愛してあげるよ」
「貴方の愛なんて――」
アルディアは、大剣を真っ直ぐ構えた。
「誰も欲しがってない!」
終焉龍剣を突き出す。
黒い切っ先が、ルキアンの胸を貫いた。
ズスッ!
「ガ……ッ」
ルキアンの身体が痙攣する。
大剣が貫いたのは、心臓ではない。
肉体の奥。
ルキアン・ヴェルティという存在を形作る、魂の核。
『終ワリダ』
バハムートの炎が、ルキアンの内側から広がる。
『色欲ノ成レノ果テヨ』
赤黒い泥の流れが止まった。
河原を覆っていたコードが、次々と意味を失い、灰色の粒子へ変わっていく。
「あ……」
ルキアンは胸に突き刺さった剣を握った。
指先が焼け、炭となって崩れ落ちる。
それでも、その目はアルディアを見ていなかった。
彼女の向こう側。
泥の上で震えているキアロンだけを見つめていた。
「先生……」
手を伸ばす。
しかし、もう指はない。
腕も、肘まで崩れている。
「先生……見てください」
キアロンは顔を上げなかった。
耳を塞ぎ、身体を丸めたまま震えている。
「僕です」
ルキアンの声から、狂気が薄れていく。
遥か昔。
まだ純潔を司る少年だった頃のような、幼い声。
「ルキアンです」
返事はない。
「どうして……」
黒い炎が肩へ達する。
「どうして、見てくれないんですか?」
かつて純潔であった時も。
色欲の吸血鬼へ堕ちてからも。
ルキアンは、ずっとキアロンだけを見ていた。
人を殺した。
国を奪った。
傀儡を皇帝へ据えた。
娘すら造った。
先生が自分だけを見る理由が欲しくて、何億もの命を盤上へ並べた。
それでもキアロンは、一度として彼を特別には選ばなかった。
「僕は……」
ルキアンの頬を、一筋の涙が伝った。
それが本物の涙だったのか。
崩壊するデータが、偶然その形を取っただけなのか。
もう誰にも分からない。
「こんなに、貴方を……」
声が消えかける。
赤い瞳から、光が失われていく。
最後まで伸ばされていた腕が、灰となって崩れた。
ルキアンは、ほんの少しだけ笑った。
「寂しいなぁ」
黒い炎が、その姿を飲み込んだ。




