第8章:愛し花、灼然く Scene 2 抜かれざる龍剣― The Unsheathed Dragon ―
「先生」
その声を聞いた瞬間、キアロンの身体が硬直した。
霧の中から現れたルキアン・ヴェルティは、アルディアなど初めから存在していないかのように、その横を通り過ぎた。
「やっと……やっと見つけた」
黒い法衣が風を切る。
「お父さん!」
アルディアが止めるより速く、ルキアンはキアロンの背中へ抱きついた。
「先生ぇ……」
頬を擦り寄せる。
それは再会を喜ぶ抱擁ではない。
三億年もの間、探し続けた所有物へ、自分の匂いをつけるような仕草だった。
「ずっと探していたんですよ」
ルキアンの指が、キアロンの白衣を掴む。
「僕を置いて、娘なんて作って。挙げ句の果てに、こんな場所へ隠れているなんて……酷い人だ」
「あ……あぁ……」
キアロンの口から掠れた声が漏れた。
「さあ、帰りましょう」
ルキアンは恍惚と微笑んだ。
「もう誰にも邪魔はさせません。今度こそ、僕と先生だけで――」
「触るな!」
キアロンが、ルキアンの腕を振り払った。
その力は弱い。
けれど、拒絶だけは明確だった。
「……先生?」
「来るな……化け物」
ルキアンの笑顔が止まった。
「今、何と?」
「お前を知らない」
キアロンは泥の中を後ずさった。
「俺の知っているルキアンは……もっと小さくて、少し意地悪で、それでも頭のいい子だった」
「何を言っているんです?」
「こんな……血の臭いをさせた化け物じゃない」
「先生」
「近寄るな!」
キアロンの叫びが、河原に響いた。
ルキアンの伸ばした手が、宙に取り残される。
「俺の生徒じゃない」
沈黙。
雨だけが、三人の間へ降り続ける。
やがてルキアンの肩が、小刻みに震え始めた。
「……僕が」
俯いた顔に、黒い髪がかかる。
「僕が、先生の生徒じゃない?」
笑っているのか。
泣いているのか。
その声からは判別できなかった。
「先生のために、どれだけの時間を使ったと思っているんです?」
ルキアンが顔を上げる。
真紅の瞳には、笑みとは正反対の、底知れぬ怒りが宿っていた。
「僕は貴方を愛し続けた。貴方だけを探し続けた。邪魔なものを全部消して、貴方が戻ってくる場所を守っていた!」
「そんなものを、愛とは呼ばない」
アルディアが、父の前へ割って入った。
「お父さんから離れなさい」
「娘は黙っていてくれないかい?」
ルキアンの瞳が、ようやくアルディアを捉えた。
「今、僕は先生と大切な話をしているんだ」
「貴方と話すことなんてない」
アルディアは空の両手を構えた。
武器はない。
魔力もない。
それでも一歩も退かなかった。
「お父さんが嫌がってる」
「お父さん、お父さん、お父さん……」
ルキアンは苛立たしげに繰り返した。
「本当に耳障りだね。その呼び方」
その時。
霧の奥から、獣の呻き声が響いた。
「……先、生……」
ズルリ。
巨大な爪が泥を掻いた。
「先生……イタダキ、マス……」
現れたのは、ガルム・ブラッドハウンドだった。
かつての理性も、人としての面影も、ほとんど残っていない。
四つん這いになった巨体。
裂けた口から垂れ続ける涎。
濁った瞳は、ただ一人――キアロンだけを見つめていた。
「ガルム……」
アルディアの声が震えた。
自分へ魔女の眼を与えた男。
復讐の始まりを作り、最後には自分の手で眠らせた恩人。
「赦シテ……先生」
ガルムは、苦しげに喉を鳴らした。
「腹ガ……減ッタ……」
次の瞬間。
巨体が泥を爆発させた。
「先生ェェェッ!」
巨大な顎が、キアロンへ迫る。
だが、その牙が届く寸前。
ドンッ!
革靴の踵が、ガルムの鼻面を蹴り上げた。
「ギャウンッ!」
巨体が宙を舞い、河原へ叩きつけられる。
「汚いなぁ」
キアロンを背に庇いながら、ルキアンは靴についた泥を払った。
「涎を撒き散らさないでくれないか。先生は、これから僕が愛でるんだ」
「ガ……ル……」
「君みたいな駄犬の胃袋に収まるなんて、美しくないだろう?」
「やめろ」
キアロンが呟いた。
ルキアンは微笑み、振り返る。
「もう大丈夫ですよ、先生。昔みたいに、僕が――」
「やめてくれ!」
差し出された手を、キアロンは再び払いのけた。
「お前も、ガルムも……俺の知っている生徒じゃない!」
「先生……?」
「エラーだ」
頭を抱え、震えながら叫ぶ。
「こんなのは……バグだ!」
ルキアンの表情から、すべての感情が消えた。
泥の中では、ガルムが再び立ち上がろうとしている。
アルディアは父を守るように両腕を広げた。
武器がない。
この二人を同時に相手にすれば、数秒も持たない。
それでも退くつもりはなかった。
「触らないで」
白い杭が、霧を貫いた。
ガルムの横腹へ突き刺さり、その巨体を弾き飛ばす。
「……ギャゥッ!」
霧の中から、腰から下を失った白い少女が浮かび上がった。
身体の欠損部分から、白と黒のノイズが漏れ続けている。
ハクレン・トウヤ。
アルディアが一度、両断したはずの虚飾の少女。
「その色は、私のものよ」
ハクレンはアルディアを睨みつけ、それから期待に満ちた表情でルキアンを見た。
「パパ!」
ルキアンは反応しない。
「見て、パパ! あの駄犬を追い払ったよ!」
ハクレンは、褒められるのを待つ子供のように両手を広げた。
「あの子を殺して、色を奪えば……私にも色がつくの?」
「……」
「そうしたら、私を一番にしてくれる?」
ルキアンはようやくハクレンへ視線を向けた。
そこに愛情はない。
懐かしさもない。
壊れた道具を確認するような、冷たい目だけだった。
「あぁ」
ハクレンの顔に、希望が灯る。
「なんだ。まだ動いていたのかい、失敗作」
「……え?」
「うるさいよ、モルモット」
ルキアンは、吐き捨てるように言った。
「君にはもう、先生を守る壁としての価値すらない。そこにいられると、僕の視界が汚れるんだ」
「パ、パ……?」
「さっさと消えてくれないか?」
ハクレンの表情が凍りついた。
両断された身体の痛みより深く、その言葉が彼女の存在を切り裂いた。
「どうして……」
震える瞳が、ルキアンからアルディアへ向く。
「どうして、あの子だけを見るの?」
白いノイズが、ハクレンの背後から噴き出した。
「ママも、私をいらないって言った」
無数の白い杭が展開される。
「パパも、私を見てくれない」
空間そのものが、修正液を流し込まれたように白く軋む。
「なのに……どうして貴方だけ!」
殺意が、アルディアへ集中した。
「貴方さえいなければ!」
白い杭が一斉に放たれる。
「私はパパの一番になれたのにィィッ!」
逃げられない。
アルディアは父の前から動かなかった。
その時。
胸元で、漆黒の結晶が脈打った。
ドクン。
「……え?」
猛烈な熱が掌へ伝わる。
『許さない』
懐かしい声が、アルディアの頭の中へ響いた。
『アルディアに触れていいのは、私だけ』
「ジュラ……?」
『アルディアを傷つけていいのも、私だけ』
結晶に亀裂が走る。
『その薄汚い偽物が――』
バキィィィン!
結晶が砕けた。
中から溢れ出した闇がアルディアの腕へ絡みつき、巨大な鎌を形作る。
『私のアルディアを見るんじゃないわよ!』
アルディアは反射的に柄を握り、迫る白い杭へ大鎌を振るった。
刃が、杭へ触れる。
その瞬間。
ジュボォォォォッ!
斬ったのではない。
大鎌は、白いノイズを飲み込んだ。
杭も、魔力も、空間を塗り潰そうとした虚飾そのものも、黒い刃が残らず喰らっていく。
「そんな……!」
ハクレンが目を見開く。
『不味いわね』
大鎌の刃に、紫色の瞳が浮かんだ。
『中身が空っぽだから、味がしないわ』
「私の中に入ってくるなァァッ!」
ハクレンは錯乱し、さらに白い杭を放つ。
しかし、すべて大鎌に喰われていく。
「パパ! 助けて!」
ルキアンは露骨に舌打ちした。
「ねぇ、モルモット」
いつの間にか、その指には一本の彼岸花が挟まれていた。
「テレビが砂嵐になったら、どうするか知っているかい?」
「……え?」
「叩いて直すか、電源を抜くんだよ」
指が鳴る。
彼岸花が弾け、無数の赤い針となってハクレンの身体を貫いた。
「ギャアアアアアッ!」
ハクレンが地面へ縫い付けられる。
流れ出すのは血ではない。
白黒のデータノイズ。
「パパ……痛い……」
「君の涙も、痛みも、全部プログラムされた演技だろう?」
ルキアンは興味を失ったように背を向けた。
「興醒めなんだよ。廃棄処分されな」
『廃棄するの?』
大鎌が、ゴクリと喉を鳴らした。
『だったら、私が貰ってもいいわよね?』
「何?」
アルディアの手の中で、大鎌が勝手に跳ねた。
「ちょ、ジュラ!」
『いただくわ!』
黒い刃がハクレンへ突き刺さる。
「いや……!」
刃から溢れた黒い泥が、ハクレンの身体を包み込んだ。
「パパ! 助けて!」
『黙りなさい』
黒い泥が、白いノイズを咀嚼する。
『その声も、魔力も、空っぽの器も――』
ハクレンの身体が、闇へ沈んでいく。
『アルディアの隣へ戻るための材料にさせてもらうわ』
断末魔が途切れた。
大鎌がアルディアの手から離れ、空中へ浮かぶ。
黒い泥が渦を巻き、人の輪郭を作り始めた。
腕。
脚。
白い肌。
紫紺の長い髪。
最後に、赤紫色の瞳が開く。
「……不味かった」
少女は地面へ降り立ち、口元を拭った。
「でも、肉体を作るには十分ね」
「ジュラ……」
アルディアは目を見開いた。
そこにいたのは、武器でも、結晶でもない。
ジュラ・ヴァイン。
かつて自分を守って消えた、嫉妬の魔女だった。
「遅くなってごめんなさい、アルディア」
ジュラは悪戯っぽく笑った。
「ただいま」
「……おかえり」
アルディアの声が震えた。
ジュラは一瞬だけ優しい表情を見せる。
だが、すぐに漆黒の大鎌を作り出し、ルキアンへ刃を向けた。
「さて」
「娘を食べて復活するなんて」
ルキアンが乾いた拍手を送る。
「君たち、本当に環境に優しいねぇ」
「黙りなさい、変態吸血鬼」
ジュラはアルディアの隣へ並んだ。
「アルディア。薄い方は私がやるわ」
「薄い方?」
「愛が重いと自称している割に、中身が空っぽの方」
ルキアンの額に青筋が浮かぶ。
その隙を突くように、ガルムが咆哮を上げた。
「先生ェェェッ!」
獣が再び地面を蹴る。
ジュラはルキアンの放った血の茨を大鎌で受け止める。
「アルディア!」
ガルムの牙が迫る。
アルディアには、もう大鎌はない。
ジュラは武器ではない。
隣に立つ相棒だ。
アルディアは丸腰のまま、父を庇って両腕を広げた。
「やめろ!」
背後で、キアロンが絶叫した。
娘が喰われる。
かつての愛弟子が、娘を殺そうとしている。
自分には、何もできない。
その絶望が、キアロンの影に眠っていた何かを呼び覚ました。
『――嘆くな、我が主よ』
ドクン。
キアロンの足元から、漆黒の影が爆発的に広がった。
ガルムが動きを止める。
影の中で、二つの黄金の瞳が開いた。
『我ハ、待ッテイタ』
巨大な爪が、影の淵を掴む。
『我ガ力ヲ振ルウニ値スル――主ノ血ヲ引ク者ヲ』
闇から現れたのは、全てを飲み込む漆黒の鱗。
古龍バハムート。
その巨体が河原を覆い、咆哮だけでガルムを後ずさらせる。
「貴方は……」
アルディアが見上げる。
「お父さんの……?」
『然リ』
バハムートは黄金の瞳でアルディアを見下ろした。
『我ハ召喚獣ニアラズ』
古龍の全身が、黒い光に包まれる。
『我ハ武具ナリ』
巨体が収縮する。
鱗が刃へ。
牙が切っ先へ。
咆哮が、刀身を走る赤い光へと変わる。
アルディアの目の前に、身の丈を超える漆黒の大剣が浮かんだ。
『娘ヨ。掴メ』
アルディアは柄へ手を伸ばした。
『嫉妬デハ殺シ切レヌ暴威ヲ、我ガ顎デ喰ライ尽クセ』
指が柄を握る。
ドクンッ!
膨大な力が、腕から全身へ流れ込んだ。
重くない。
初めから自分の身体の一部だったように、大剣はアルディアの手へ馴染んだ。
【System Alert】
【Weapon Equip:Bahamut Zero】
アルディアは剣を振るった。
ただ、それだけだった。
放たれた衝撃波がガルムを吹き飛ばし、河原を覆っていた霧を一瞬で切り裂く。
漆黒の刀身が、低く唸った。
剣でありながら、生きた龍。
振るうたび、空間そのものを喰らう古代の捕食者。
「なるほどね」
ジュラが軽やかにアルディアの隣へ降り立った。
その手には、自らの魔力で作り出した大鎌。
「私の鎌が、貴女を守る盾」
ジュラはルキアンへ刃を向ける。
「その剣が、敵を滅ぼす矛」
アルディアは涙を拭い、頷いた。
手には、父が遺した終焉龍剣バハムート。
隣には、武器ではなく相棒として蘇ったジュラ。
正面には、立ち上がるガルム。
笑みを歪ませるルキアン。
アルディアは大剣の切っ先を、二人へ向けた。
「さぁ――第2ラウンドよ」




