第8章:愛し花、灼然く Scene 1 賽の河原― The River of Regret ―
西暦マイナス一億五千万年。
座標、生死の境界――三途の河原。
冷たい雨が降っていた。
空と地の境界さえ分からない、灰色の世界。
川面には無数の影が浮かび、声にならない呻きを漏らしながら、ゆっくりと下流へ流されていく。
岸辺には、灼けるように赤いリコリスが咲いていた。
葉を持たず、死者の血だけを吸って咲き続ける花。
その赤い花畑の中央で、アルディア・グリーンフェルは石を積んでいた。
一つ。
また一つ。
泥に汚れた小石を拾い上げ、崩れかけた塔の上へ載せる。
だが、五つ積めば六つ目を置く前に崩れた。
乾いた音を立てて、小石が河原へ転がっていく。
「……また」
アルディアは転がった石を拾い直した。
指先は冷え切り、爪の隙間には黒い泥が入り込んでいる。
それでも彼女は、再び石を積んだ。
ここがどこなのか。
自分が生きているのか、死んでいるのか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
脳裏に焼き付いているのは、最後に見た光景だけ。
世界を白く塗り潰した、魔王アマリス・ルミナ。
消えていく街。
崩れ落ちた仲間たち。
そして――最後まで見つけることのできなかった父。
「……ごめんね、お父さん」
石を置く手が震えた。
「仇、取れなかった」
声にした瞬間、胸の奥に押し込めていたものが溢れた。
右目の義眼は沈黙している。
魔力の反応もない。
背負っていたはずの大鎌も、隣にいたはずのジュラも、どこにもいない。
アルディアの手元に残されているのは、黒く濁った小さな結晶だけだった。
かつてジュラだったもの。
命を賭して、自分を守った少女の残骸。
アルディアは結晶を胸元へ押し当てた。
だが、声は聞こえない。
いつもなら勝手に頭の中へ入り込み、皮肉の一つでも吐き捨てるはずの少女は、何も答えてくれなかった。
「……ジュラ」
返事はない。
「お父さん」
雨音だけが続いていた。
石を一つ積む。
崩れる。
また積む。
どれほど時間が経ったのか分からない。
この場所には太陽も月もなく、時間を測るものは何もなかった。
やがて、河原の上空を一羽の黒い鳥が横切った。
カァ、と嘲笑うように鳴き、アルディアの積んだ石の塔へ降り立つ。
「やめて」
鳥は首を傾げた。
「それは、お父さんのだから」
羽音。
鳥が飛び立った瞬間、塔が崩れた。
積み上げた石が、すべて泥の中へ散らばっていく。
アルディアはしばらく動かなかった。
やがて俯いたまま、泥の中に両手を突っ込んだ。
「……返して」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「私のお父さんを返してよ」
掴んだ泥が、指の隙間から流れ落ちる。
「あの子に奪われたの」
世界を消した魔王。
自分を知らないと言った少女。
それでも、なぜか最後に「お母様」と呼ばれた。
意味など分からない。
知りたくもなかった。
アルディアが欲しかったのは、ただ一つ。
幼い頃、自分の頭を撫でてくれた、大きな手。
怖い夢を見た夜に、朝まで隣にいてくれた父。
キアロン・グリーンフェル。
それだけだった。
「一目でいいから……会いたい」
その時だった。
雨音の向こうで、石が転がった。
アルディアは顔を上げた。
河原の奥。
濃い霧の中で、何かが動いた。
人影だった。
白い布のようなものを纏い、泥の上を這うように歩いている。
アルディアの胸が跳ねた。
「……お父さん?」
人影が止まった。
アルディアは立ち上がった。
足に力が入らず、一度泥へ膝をつく。
それでも彼女は走った。
転びそうになりながら、石の塔を蹴り崩し、赤い花を踏みつけて霧の中へ飛び込む。
「お父さん!」
人影がゆっくりと振り返った。
ボロボロになった白衣。
伸び放題の黒髪。
痩せこけた頬。
その顔を、アルディアが見間違えるはずがなかった。
「……お父さん」
キアロン・グリーンフェル。
ずっと探し続けた父が、そこにいた。
アルディアはその胸へ飛び込もうとした。
だが、一歩手前で足が止まった。
キアロンの瞳が、アルディアを見ていなかった。
目は開いている。
けれど焦点が合っていない。
まるで壊れたカメラが、何もない場所を撮影し続けているような、空っぽの瞳。
「……逃げないと」
キアロンの唇が動いた。
「お父さん?」
「隠さないと……あの子を……娘を……」
アルディアは息を呑んだ。
「私だよ」
震える声で呼びかける。
「アルディアだよ。お父さんの娘の……」
キアロンは怯えたように後ずさった。
「来る……あいつらが来る」
「大丈夫。もう終わったの」
アルディアは手を伸ばした。
「私がいる。もう誰も、お父さんを傷つけさせないから」
指先が、キアロンの頬へ触れようとする。
しかしキアロンは、その手を振り払った。
「触るな!」
鋭い声が河原へ響いた。
アルディアの手が宙で止まる。
キアロンは頭を抱え、泥の上へ蹲った。
「知らない……俺は、お前を知らない……」
「……え?」
「娘を守らないと……俺の娘を……アルディアを……」
「だから、私が――」
「違う!」
キアロンは耳を塞いだ。
「アルディアは、もっと小さかった……笑ってた……俺が帰ると、いつも走ってきて……」
途切れた記憶を拾い集めるように、言葉を繰り返す。
彼の中に残っているのは、過去のアルディアだけだった。
家族を失う前の少女。
右目を奪われる前の娘。
復讐者になる前の、無邪気に笑っていた子供。
今、目の前に立っている血と泥に汚れた少女を、父は娘だと認識できない。
「……私だよ」
アルディアはもう一度言った。
キアロンは答えない。
「お父さんが、守ろうとしてくれたアルディアだよ」
声が掠れた。
「遅くなって、ごめんね」
膝から力が抜けた。
アルディアは父の前に座り込み、震える手を握り締めた。
あと少しだった。
やっと会えた。
手を伸ばせば届く距離にいる。
なのに、父の目には自分が映っていない。
「……どうして」
雨がアルディアの頬を流れた。
涙なのかどうかも、もう分からなかった。
その時。
濃い霧の向こうから、靴音が聞こえた。
コツ。
コツ。
泥の河原には似つかわしくない、硬質な革靴の音。
キアロンの身体が大きく震えた。
「来る……」
彼は頭を抱えたまま、壊れた声で呟いた。
「大罪が……来る……」
アルディアは立ち上がった。
武器はない。
魔力も戻らない。
それでも父を庇うように、霧へ向かって両腕を広げる。
やがて、甘く艶やかな声が響いた。
「――あぁ」
歓喜に濡れた、吐き気がするほど聞き覚えのある声。
「見つけた」
霧の中で、真紅の瞳が開いた。
「先生」
色欲の吸血鬼――ルキアン・ヴェルティが、微笑んでいた。




