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Vendetta Re-Verse ― 血と復讐の叙事詩 ―  作者: 慧梓
VendettaZero

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『Vendetta 0』最終章:愛の為のジェノサイド、そして神の自殺

男――黒野玲は、眼下に広がる平和な世界を見下ろした。


仕立ての良い漆黒のスーツ。


手には、一冊の文庫本。


ヒューミリスたちの旅が記されたそれを、黒野はつまらなそうに指先で弄んでいた。


「世界は救われた」


地上では、人々が笑っている。


豊かに実った畑。


争いのなくなった国々。


病から解放された者たち。


子供を抱き締め、神へ感謝を捧げる母親。


「魔は消え、戦争も飢餓もない。君は神として世界を管理し、愛する彼女の願いを守り続けている」


黒野は空になった椅子へ視線を移した。


「英雄譚としては、実に美しい結末だ」


「……誰だ」


ヒューミリスの声が、低く響いた。


「いつから、そこにいる」


「いつから?」


黒野は顎へ指を当てた。


考えるような仕草をしながら、その目には初めから答える気などない。


「君が生まれる前から」


文庫本を開く。


「君が死んだ後にも」


ぱらり、と頁をめくった。


「僕はここにいるよ」


ヒューミリスが手を掲げる。


神の権能が発動し、空間そのものが黒野を押し潰した。


男の身体が一瞬で消滅する。


だが。


次の瞬間には、何事もなかったように別の場所へ座っていた。


「随分と乱暴だね」


「答えろ」


「黒野玲」


男は笑った。


「君たちの言葉で言うなら、この世界の管理者」


「管理者は僕だ」


「君は、管理を任されただけさ」


黒野は文庫本の表紙を、指先で軽く叩いた。


「僕が作った盤面をね」


ヒューミリスの瞳が細くなる。


「聖杯を作ったのは、お前か」


「そうだよ」


あまりにも軽い答えだった。


「アマリスを奪ったのも」


「正確には、君たちが選んだ」


「選ばせるように作ったのは、お前だろう!」


空が震えた。


ヒューミリスの怒りに呼応し、世界中の雲が渦を巻く。


地上の人々が、突然暗くなった空を不安そうに見上げた。


黒野は少しも怯まない。


むしろ、待ち望んでいた場面が始まったように目を輝かせた。


「そうだ」


「なぜだ」


「面白いから」


ヒューミリスの表情が固まる。


黒野は首を傾げた。


「不満かい?」


「何を……言っている」


「物語には試練が必要だ」


黒野は文庫本を開き、声に出して読み始めた。


「命を懸けて主人公を送り出す仲間たち。世界を救うため、自ら犠牲になるヒロイン。そして、愛する者を失いながらも、その遺志を守り続ける孤独な英雄」


本を閉じる。


「綺麗じゃないか」


ヒューミリスの手が震えた。


「エリュたちも」


「うん」


「テンペランスも。カスタも、牡丹も。パトスも」


「よく働いてくれたね」


「瑠美奈も」


「最高だった」


黒野が笑う。


「特に最後の別れは良かったよ。『私が愛した人が生きている世界になる』――素晴らしい台詞だった」


ヒューミリスが黒野へ掴みかかる。


その手は、男の胸元をすり抜けた。


「貴様……!」


「そう怒るなよ、俊君」


その名を呼ばれ。


ヒューミリスの動きが止まった。


「その名前を」


「天城瑠美奈」


黒野は楽しそうに続ける。


「君が元いた時代で愛した少女。事故で命を落とし、アマリス・ルミナとしてこの世界へ転生した」


「黙れ」


「君は彼女を追って、この世界へ来た」


「黙れ!」


「そして、ようやく再会できたと思った直後に、また失った」


黒野はヒューミリスの耳元へ顔を寄せる。


「可哀想に」


ヒューミリスの拳が男の顔を貫いた。


またしても、手応えはない。


「でも」


黒野の声が、背後から聞こえた。


「救う方法ならあるよ」


ヒューミリスは振り返った。


黒野は空になった椅子へ腰掛け、脚を組んでいた。


「……何だと」


「瑠美奈を、聖杯から分離すればいい」


「できるのか」


「もちろん」


黒野は指を鳴らした。


玉座の間に、巨大な聖杯の映像が浮かび上がる。


その中心には。


光に包まれ、目を閉じた瑠美奈がいた。


身体はない。


魂だけが、無数の光の糸へ分解され、世界中に繋がれている。


大地へ。


空へ。


海へ。


人々へ。


この世界の平和は、彼女を中心に成立していた。


「聖杯は、彼女の魂を燃料として世界を維持している」


「燃料……」


「綺麗な言葉に直すなら、世界と一つになった、かな」


ヒューミリスは映像へ手を伸ばした。


「瑠美奈」


返事はない。


「今すぐ、解放しろ」


「いいよ」


黒野はあっさりと答えた。


「ただし」


指先で、聖杯の映像を撫でる。


「一度世界へ拡散した魂を、再び一人分の形へ集め直すには、大量のエネルギーが必要だ」


「僕の力を使え」


「君一人では足りない」


「なら、この世界の魔力を」


「それも足りない」


「何が必要なんだ」


黒野は地上を指差した。


そこには。


瑠美奈が命を捧げて救った人々がいる。


「魂」


ヒューミリスの顔から表情が消える。


「彼女一人を無から再構成するなら、そうだね」


黒野は、天気の話でもするような口調で告げた。


「世界の半分くらい」


沈黙。


地上では。


一人の子供が転び、母親が駆け寄っている。


泣いていた子供は、母の顔を見るとすぐに笑った。


青年が恋人へ花を渡している。


老人たちが、木陰で穏やかに語り合っている。


瑠美奈が守った世界。


彼女が、自分の命より大切だと信じた人々。


「……世界の半分」


「聖杯を満たすのに必要な量さ」


「それだけ殺せば」


「彼女は戻る」


黒野が微笑む。


「完全な身体で」


ヒューミリスは、聖杯の中にいる瑠美奈を見つめた。


目を閉じたまま。


何も知らず。


世界のために燃やされ続けている少女。


「彼女は苦しんでいるのか」


「さあ」


黒野は肩をすくめる。


「意識があるかもしれない。ないかもしれない」


「答えろ」


「僕は彼女じゃないから、分からないよ」


ヒューミリスの脳裏に。


最後の言葉が蘇る。


――私が愛した人が、生きている世界になるよ。


瑠美奈は。


この世界を守ってほしいと願った。


人々が生きることを望んだ。


だからこそ、自ら聖杯へ入った。


ヒューミリスは、その願いを守るために神となった。


百年。


千年。


それ以上の時を。


彼女のいない世界で過ごした。


誰一人として傷つかないように。


誰一人として、彼女と同じ犠牲を払わずに済むように。


世界を完璧にした。


その結果。


人々は、瑠美奈の犠牲など知らずに笑っている。


彼女がいないことにも気づかず。


彼女の魂を消費しながら。


「どうして」


ヒューミリスが呟いた。


「どうして、こいつらは笑っている」


黒野は答えない。


「瑠美奈がいないのに」


誰かの結婚式が見える。


鐘が鳴っている。


新郎と新婦が、幸福そうに口づけを交わした。


「瑠美奈が、こいつらのために死んだのに」


街に灯りが点る。


人々が食卓を囲む。


笑い声。


歌声。


祈り。


感謝。


そのどれも。


瑠美奈へ届くことはない。


ヒューミリスの瞳から、光が消えた。


「アマリスがいない世界に」


神の声が、世界中へ染み渡っていく。


「何の意味がある」


空が黒く染まった。


「おや」


黒野の口元が、ゆっくりと吊り上がる。


「彼女が一人で凍えているのに」


地上の人々が空を見上げる。


誰もが。


初めて感じる神の怒りに、震えていた。


「どうして、お前たちが幸せそうに笑っている」


ヒューミリスは地上へ手を伸ばした。


「神様?」


一人の子供が、黒い空へ祈る。


「どうか、私たちをお守りください」


その声を聞き。


ヒューミリスは。


世界で一番純粋な悪意を口にした。


「……ただ、消えてなくなれよ」


神の勅命が下された。


---


「あははははははッ!」


黒野が手を叩く。


「最高だ!」


世界が反転する。


青かった空が裂け。


その向こうから、無数の影が降り注いだ。


白銀の装甲。


機械の翼。


顔のない兜。


クロノの技術を歪めて作られた、機械仕掛けの天使たち。


一体。


百体。


一万体。


数えることすら意味を持たないほどの大軍が、空を覆い尽くした。


「君一人で世界の半分を殺すのは大変だろう?」


黒野が指を鳴らす。


「だから、手を貸してあげる」


大地が割れた。


暗闇の底から、七つの巨大な影が這い出す。


一体は、巨大な顎を持つ騎士。


暴食の魔剣を携え。


テンペランスの顔をしていた。


一体は、白い衣を纏った女。


純潔を嘲笑うように肌を晒し。


カスタの顔で、淫らに微笑んでいる。


一体は、血の花に包まれた花魁。


牡丹と同じ顔を持ちながら。


その瞳には、愛する者を焼き尽くすほどの嫉妬しかない。


ほかにも。


憤怒。


強欲。


怠惰。


そして。


ヒューミリスの傲慢を写し取った、黒い影。


かつての仲間たちを模した、七つの大罪。


「……何だ、これは」


「君の仲間たちだよ」


黒野は悪びれもせず答えた。


「正確には、彼らが宿していた大罪の器と、戦闘記録を使って再構築した複製品だけど」


テンペランスの偽物が、巨大な口を開ける。


『飢エタ』


カスタの偽物が、自らの身体を抱く。


『もっと、私を見て』


牡丹の偽物が、扇の陰から笑った。


『主さんの心を奪う者は、皆殺しでありんす』


「やめろ」


ヒューミリスの声が震える。


「その姿を使うな」


「どうして?」


黒野は首を傾げる。


「君は彼らを失って寂しかったんだろう?」


「違う」


「もう一度、一緒に戦えるじゃないか」


「こいつらは、あいつらじゃない!」


黒野が笑う。


「そうだね」


文庫本を開く。


「でも、それが何か問題かい?」


偽物の仲間たちが地上へ降り立った。


人々は。


かつて世界を救った英雄たちの姿を見て、歓声を上げた。


「神の使徒だ!」


「英雄様たちが戻ってきた!」


誰も知らない。


それが。


自分たちを救うためではなく、殺すために現れた存在だということを。


ヒューミリスは目を閉じた。


瑠美奈の笑顔を思い浮かべる。


彼女を取り戻す。


それだけでいい。


もう。


ほかには何も要らない。


「始めろ」


神の命令が下る。


「世界の半分を、聖杯へ捧げろ」


その日。


天と魔が手を結んだ。


空からは、機械仕掛けの天使が殺戮の光を降らせ。


地上では、七つの大罪が人々を喰らった。


神に祈る者から。


順番に死んでいった。


---


「どうしてですか!」


燃え上がる街で。


一人の女が、空へ叫ぶ。


「私たちは、貴方を信じていた!」


ヒューミリスは、天空の玉座からその姿を見下ろしていた。


「神様!」


「貴方が、私たちを救ったのでしょう!」


「子供だけは!」


「お願いです!」


声が。


祈りが。


悲鳴が。


世界中から届く。


神である彼には。


その全てが、耳元で叫ばれているように聞こえた。


ヒューミリスは、聖杯だけを見ていた。


虹色だった光が。


魂を吸収するたびに、黒く染まっていく。


一割。


二割。


三割。


瑠美奈を再構築するための力が、少しずつ蓄積されていく。


「もう少しだよ」


聖杯へ話しかける。


「もう少しで、君を助けられる」


地上で。


テンペランスの偽物が、一つの都市を丸ごと飲み込んだ。


カスタの偽物が、逃げる者たちを光の檻へ閉じ込め。


牡丹の偽物が、その身体へ血の花を咲かせる。


空から降り注ぐ機械天使の光が。


海を割り。


山を焼き。


国を消した。


「僕のために」


ヒューミリスが呟く。


「君のために」


世界が燃える。


「何よりも」


神の瞳へ、狂気の光が宿る。


「愛のために」


聖杯の光が増していく。


「残酷だと罵ればいい!」


誰に向けるでもなく。


ヒューミリスは両手を広げた。


「凄惨だと呪えばいい!」


笑った。


あるいは。


泣いていたのかもしれない。


「血みどろになって、何もかも破壊し尽くしてやる!」


街が一つ、光に消える。


「もう二度と、僕は失わない!」


聖杯の数値が上昇する。


「僕たちの幸せは、ここにはない!」


四割。

五割。


「遥か未来にあるんだ!」


……必要量が、満ちた。


世界の半分が。


死んだ。


---


静寂。


燃え上がっていた都市から。


人の声が消えた。


海には、無数の亡骸が浮かび。


大地は、流れた血で黒く染まっている。


ヒューミリスが作った完璧な世界は。


彼自身の命令によって、半分まで破壊された。


聖杯が、低い音を鳴らした。


『必要魂魄量ノ充填ヲ確認』


『対象個体ノ分離及ビ再構成ヲ開始』


ヒューミリスは玉座から立ち上がった。


黒く染まっていた聖杯の光が、一点へ収束する。


光の粒子が集まり。


骨を作り。


肉を作り。


髪を作る。


やがて。


一人の少女の身体が、聖杯からゆっくりと降りてきた。


「瑠美奈」


ヒューミリスは彼女を抱き止めた。


冷たい。


まだ、魂が完全には定着していない。


だが。


確かに。


天城瑠美奈が、腕の中にいる。


髪へ触れる。


頬を撫でる。


何度も。


何度も。


本当に戻ってきたのだと確かめるように。


「もうすぐ会えるからね」


返事はない。


「起きたら、帰ろう」


血に汚れた指で、彼女の頬を撫でる。


「僕たちがいた時代へ」


ヒューミリスは聖杯へ手を伸ばした。


「この世界を捨てる」


『要求ヲ確認』


「僕と瑠美奈を、元の時代へ転生させろ」


『転生要求ヲ処理』


聖杯の輪が回転する。


だが。


すぐに。


赤い警告が、空間へ浮かび上がった。


---


【ERROR】


【転生権限ノ重複ヲ確認】


【対象個体ハ、既ニ一度ノ転生ヲ完了シテイマス】


---


「……何だ」


『魂魄ノ転生ハ、一度ノミ許可サレマス』


「待て」


ヒューミリスが聖杯を見上げる。


「僕たちは、元の時代へ帰るだけだ」


『要求ヲ拒否』


「必要な魂なら集めた!」


『魂魄量ノ問題デハアリマセン』


「なら、何が問題なんだ!」


『転生回数ノ上限デス』


ヒューミリスの顔が青ざめる。


「僕たちは、一度」


声が掠れた。


「この世界へ転生しているから……」


『肯定』


背後で。


黒野が、肩を震わせて笑っていた。


「……お前」


ヒューミリスが振り返る。


「知っていたな」


「ああ」


「知っていて、僕に世界を殺させたのか」


「聞かれなかったからね」


ヒューミリスは、瑠美奈を抱いたまま立ち尽くした。


眼下には。


彼が殺した世界がある。


数え切れない亡骸。


燃え上がる国。


消えていった命。


全て。


二人で帰るためだった。


それなのに。


「無駄だったのか」


声にならないほどの声。


「全部」


黒野は首を傾げた。


「無駄ではないよ」


「何?」


「抜け道はある」


ヒューミリスの瞳が、僅かに揺れた。


「二人は無理でも」


黒野は指を一本立てる。


「一人なら、二度目の転生を通せる」


「一人」


ヒューミリスは腕の中の瑠美奈を見る。


迷う必要などなかった。


「瑠美奈を送れ」


「即答か」


「彼女を、元の時代へ」


「君は残る」


「ああ」


ヒューミリスは、血に染まった世界を見下ろした。


もう。


自分が光のある場所へ戻れるとは思っていない。


多くの命を奪った。


瑠美奈が守った世界を、自分の手で壊した。


「僕は、ここに残る」


瑠美奈を抱き締める。


「魔王にでも、何にでもなればいい」


「悪くないね」


黒野が笑う。


「愛する女を未来へ送り、自分はこの地獄で永遠に待ち続ける」


「待つよ」


ヒューミリスは瑠美奈の額へ、そっと口づけた。


「一億年でも」


彼女の髪を撫でる。


「二億年でも」


いつか。


彼女が再びこの世界へ迷い込む日まで。


その時こそ。


誰も犠牲にしない結末を。


本当の幸福を。


「僕は、ここで待っている」


聖杯が転生処理を開始した。


瑠美奈の身体が、再び光へ包まれる。


『転生対象ヲ確定』


『対象――天城瑠美奈』


『転生先――一億五千万年後』


『魂魄及ビ肉体情報ノ安定化ヲ開始』


虹色の光が、瑠美奈の身体を包み込む。


ヒューミリスは、最後まで彼女の手を握っていた。


だが。


聖杯が再び、警告を発した。


---


【警告】


【転生質量ガ不足シテイマス】


【対象ノ完全再構築ハ不可能】


---


「何だと」


『長時間転送ニ耐エ得ル魂魄強度ガ不足』


『追加供給源ヲ要求シマス』


「魂なら、まだ世界に残っている」


『通常魂魄デハ代替不可能』


「なら、何が必要だ」


聖杯の光が。


ヒューミリスへ向いた。


『同一転生経路ヲ持ツ、高密度魂魄』


『個体――ヒューミリス』


沈黙。


ヒューミリスは。


腕の中の瑠美奈を見た。


「僕の魂を使えば」


『対象ノ完全転生ガ可能デス』


「僕は、どうなる」


『神格権限ヲ喪失』


「それだけか」


『不死性ヲ喪失』


「構わない」


『肉体情報ヲ喪失』


「……構わない」


『魂魄ノ九十九・九パーセントヲ消費』


黒野の笑みが、僅かに薄れた。


『個体トシテノ存続ハ不可能トナリマス』


待つことはできない。


魔王になることも。


復讐することも。


いつか再会することも。


全てを失う。


ヒューミリスは、目を閉じた。


ほんの少し前まで。


自分は何億年でも待つつもりだった。


一人でも。


地獄でも。


彼女が帰ってくる可能性があるのなら、それだけで耐えられると思った。


その希望すら。


聖杯は要求している。


「……俊君」


声が聞こえた気がした。


腕の中の瑠美奈は、目を閉じたまま。


きっと。


幻聴だ。


それでも。


ヒューミリスは微笑んだ。


「いいよ」


黒野が眉をひそめる。


「君、本当に何も残さないつもりか?」


「残すよ」


ヒューミリスは、瑠美奈を見つめた。


「僕が愛した、君を」


「世界の半分を殺してまで手に入れた力だ」


黒野が言う。


「君は神だ。ここに残れば、永遠に存在できる」


「瑠美奈がいない永遠に、意味なんてない」


「彼女は、君のことを忘れるかもしれない」


「それでもいい」


「別の誰かを愛するかもしれない」


ヒューミリスの指が、僅かに震えた。


それでも。


瑠美奈の頬を優しく撫でる。


「幸せなら、それでいい」


「二度と会えないんだよ?」


「ああ」


「君が何をしたかも、彼女は知らないかもしれない」


「ああ」


「君は世界を救った英雄にも、滅ぼした魔王にもなれない」


黒野は笑わなかった。


「ただ、消えるだけだ」


ヒューミリスは瑠美奈を抱き締めた。


「それでいい」


彼の身体から、光が溢れ始める。


神としての権能。


世界を支配する力。


あらゆる生命を屈服させる、傲慢。


不死の肉体。


魂。


記憶。


存在。


その全てが、瑠美奈へ流れ込んでいく。


「俊君」


今度こそ。


瑠美奈の唇が動いた。


ほんの一瞬。


瞳が薄く開く。


「……どこ、行くの」


ヒューミリスは笑った。


「少し、ここに残るだけだよ」


「嘘」


「ごめん」


瑠美奈が、弱々しく手を伸ばす。


ヒューミリスの頬へ触れようとする。


だが。


その手が届く前に。


彼の身体は、光の粒子へ変わり始めていた。


「待って」


「君は行くんだ」


「嫌」


「未来へ」


「俊君も、一緒に」


「今度は」


声が少しずつ遠くなる。


「ちゃんと幸せになるんだよ」


「俊君!」


ヒューミリスは、最後の力で彼女の手を握った。


もう感触はない。


それでも。


「愛してる」


瑠美奈の瞳から、涙が零れた。


「私も」


聖杯が告げる。


『転生処理ヲ開始』


光の柱が立ち昇った。


天城瑠美奈の身体が。


一億五千万年後の未来へ向けて、射出される。


「俊君――!」


声が消えた。


光も。


温もりも。


全てが、遠い未来へ旅立った。


後に残ったヒューミリスの身体は。


完全に崩れ落ちた。


---


静かだった。


世界の半分が死んだ大地。


壊れた聖杯。


空になった玉座。


そこには。


神も。


英雄も。


魔王もいない。


黒野玲だけが立っていた。


「……本当に、全部渡したのか」


黒野は、少しだけつまらなそうに呟いた。


いや。


それだけではない。


ほんの僅かに。


予想を外された者の顔をしていた。


「魔王として残ると思ったんだけどな」


返事はない。


「一億年でも二億年でも待つ、って」


荒廃した世界へ目を向ける。


「悪くない悲劇だったのに」


黒野は文庫本を開いた。


最後の頁。


そこには。


ヒューミリスの消滅が記されている。


「まあ、いいか」


本を閉じる。


「君の役目は終わった」


男の姿が、空間の揺らぎへ溶けていく。


「次の物語で会おう、瑠美奈ちゃん」


黒野玲は、世界から姿を消した。


---


それから。


何年。


何万年。


何億年もの時が流れた。


ヒューミリスは、もうどこにもいない。


肉体はない。


魂もない。


思考することも。


何かを望むこともできない。


けれど。


彼が最後まで手放さなかった想いだけが。


世界の底へ焼き付いていた。


バグ。


ノイズ。


あるいは。


英雄が存在したという、残り香。


消えることさえ許されず。


世界の隙間を漂う、残照。


『……瑠』


声にはならない。


『美……奈……』


届くこともない。


それでも。


形のない想いは。


彼女のいない世界で。


何億年もの時を、ただ彷徨い続けた。


---


一億五千万年後。


かつてヒューミリスたちが生きた世界は、もうどこにもなかった。


大陸は砕け。


海は形を変え。


文明は滅びては生まれ、神々の名さえ幾度となく忘れ去られた。


それでも。


世界は続いていた。


新たな国々。


新たな種族。


魔法と大罪が、神話ではなく現実として息づく時代。


後に――数多の復讐と因果が交錯することになる世界。


その片隅で。


一人の少女が、ゆっくりと瞼を開いた。


知らない空。


知らない大地。


知らない時代。


自分が誰なのかさえ、まだ分からない。


けれど。


胸の奥にだけ、決して消えない何かがあった。


全てを見下ろし。


全てを従え。


何者にも屈することを許さない、神の大罪。


――傲慢。


少女は胸元へ手を当てた。


なぜか。


涙が流れていた。


「……俊君」


その名が誰を指すのか。


まだ、思い出すことはできない。


遥か一億五千万年前。


既に滅びた世界の底で。


誰にも聞こえないノイズが、ほんの僅かに震えた。


『……おかえり』


そして。


長い時を越えて受け継がれた愛と罪が。


再び、世界を巡り始める。


『Vendetta 0』完。

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