『Vendetta 0』最終章:偽物たちの凱歌(ヴァニタス)
白しかなかった。
空も。
大地も。
遠近さえも存在しない、果てのない白。
ヒューミリスとアマリスが歩くたび、足元に微かな波紋だけが広がっていく。
音はしない。
衣擦れも。
呼吸も。
二人の足音すら、この場所には届いていないようだった。
「……不思議な場所ですね」
アマリスの声だけが、すぐ耳元で囁かれたように聞こえる。
ヒューミリスは答えず、前方を見つめた。
白い虚無の中央。
そこに、唯一の色が浮かんでいる。
いくつもの輪。
絡み合う線。
絶えず形を変えながら、虹色の光を放つ幾何学的な物体。
誰もが願いを叶える器と呼び。
数え切れない者が、その存在を求めて争った。
――聖杯。
杯とは名ばかりだった。
人が酒を注ぎ、口をつけるような形ではない。
それはむしろ、世界を組み立てるための巨大な術式。
あるいは。
何も存在しないこの場所に、ただ一つだけ残された機械のように見えた。
「やっと……」
アマリスが呟く。
「やっと、辿り着きました」
ヒューミリスは拳を握った。
エリュ。
アル。
ジー。
テンペランス。
カスタ。
牡丹。
パトス。
名前を一つ思い浮かべるたび、胸の奥が軋む。
皆が、自分をここへ送り届けた。
誰一人として、この光を見ることはできなかった。
「これで」
アマリスが彼の隣へ並ぶ。
「世界を救えるのですよね」
「……ああ」
答えるまでに、僅かな間があった。
世界を救う。
あまりにも多くの犠牲を積み上げて。
ようやく掴んだ言葉。
それなのに。
なぜか、口にした瞬間から嫌な予感が消えなかった。
この場所には、喜びがない。
祝福もない。
聖杯は二人を歓迎することもなく。
ただ、無機質な光を放ちながら浮かんでいる。
ヒューミリスが一歩踏み出した。
聖杯の輪が回転を始める。
虹色の光が細い線となり、彼の身体を頭から足先までなぞっていった。
『――接続対象ヲ確認』
突然。
感情のない声が、白い空間へ響いた。
アマリスがヒューミリスの腕へしがみつく。
「今の声は……」
『魂魄情報ノ走査ヲ開始』
新たな光が、アマリスを包む。
彼女は眩しそうに目を細めた。
『対象一』
白い虚空へ、文字が浮かび上がる。
---
【個体名:ヒューミリス】
【旧個体情報:照合中】
【管理権限適合率:九十九・九七パーセント】
【世界維持個体トシテ登録】
---
「管理権限……?」
ヒューミリスが文字を見上げる。
意味を理解するより先に、別の表示が現れた。
---
【対象二】
【個体名:アマリス・ルミナ】
【旧個体情報ヲ検出】
【魂魄記録ノ復元ヲ開始】
---
アマリスの身体が大きく震えた。
「アマリス?」
彼女は返事をしなかった。
瞳を見開いたまま、何もない白い空間を見つめている。
その脳裏を。
失われていた記憶が、濁流となって駆け抜けていた。
魔法のない街。
石ではなく、灰色の舗装で覆われた道。
夜を追い払う無数の灯り。
手のひらに収まる小さな板から流れる音楽。
見慣れた制服。
窓から差し込む夕日。
そして。
いつも自分の隣にいた少年。
不器用で。
優しくて。
何度傷ついても、自分を守ろうとした人。
「……俊君」
アマリスの唇から、その名が零れた。
ヒューミリスの呼吸が止まる。
「今……」
アマリスが、ゆっくりと彼を見る。
大きな瞳から、一筋の涙が流れた。
「俊君」
もう一度。
今度は、はっきりと呼んだ。
「瑠美奈……?」
その名を口にした瞬間。
ヒューミリスの中で、遠い過去と現在が繋がった。
王女アマリスではない。
天城瑠美奈。
かつて、自分が生きていた時代で。
命よりも大切に思っていた少女。
姿が違っても。
声が違っても。
ずっと捜し続けていた。
「思い出したのか」
「うん」
瑠美奈は泣きながら笑った。
「全部、思い出した」
ヒューミリスは、彼女の肩を掴む。
「どうして今まで……」
言いかけて、止まる。
責めたいわけではない。
ただ。
あまりにも長い間、欲しかった答えが突然現れて、どうすればいいのか分からなかった。
瑠美奈は彼の手へ、自分の手を重ねた。
「ごめんね」
「何がだ」
「少しずつ、思い出していたの」
「……いつから」
「ずっと前から」
断片だけだった。
名前も。
時代も。
何があったのかも思い出せない。
それでも。
ヒューミリスが傷つくたびに胸が痛んだ。
彼が自分を見つめる時の瞳を、知っているような気がした。
「でも、怖かった」
瑠美奈が俯く。
「全部思い出してしまったら、今の私が消えてしまうような気がして」
アマリスとして生きた時間。
王女として愛された記憶。
仲間たちと旅をした日々。
それらも決して偽物ではない。
天城瑠美奈だけが本物で。
アマリスが仮初めだったわけではない。
どちらも自分だった。
「それに」
瑠美奈は顔を上げる。
「俊君は、私を助けるために戦っているんだって分かってたから」
「だったら、なおさら言ってくれれば――」
「言ったら、もっと無茶をしたでしょう?」
ヒューミリスは答えられなかった。
瑠美奈は、困ったように笑う。
「ほら」
その笑い方まで。
彼が知っていた少女のものだった。
ヒューミリスは瑠美奈を抱き寄せた。
強く。
二度と失わないように。
「やっと会えた」
声が震える。
「ずっと、捜していた」
「うん」
「今度こそ、一緒に帰ろう」
瑠美奈の腕が、彼の背へ回される。
「うん」
ほんの短い間。
二人は、世界の全てを忘れて抱き合っていた。
死んでいった仲間たちも。
崩壊していく世界も。
この場所の不気味な静寂も。
今だけは。
ようやく、互いを取り戻した二人でいたかった。
だが。
聖杯は、その時間を許さなかった。
『魂魄情報ノ照合ヲ完了』
白い空間へ、新たな文字が表示される。
---
【旧個体名:天城瑠美奈】
【魂魄純度:適合】
【世界浄化機構ノ中枢核トシテ使用可能】
---
「……中枢核?」
ヒューミリスが聖杯を見る。
『当該世界ノ魔力汚染率、九十二・八パーセント』
『現行状態デノ世界存続ハ不可能』
『全領域ノ浄化及ビ再構成ヲ実行スルタメ、高密度魂魄一名ヲ必要トシマス』
アマリスを包む光が強くなる。
『中枢核候補ヲ確定』
『対象――天城瑠美奈』
「待て」
ヒューミリスの声が低くなる。
「どういう意味だ」
『対象ノ魂魄ヲ聖杯中枢ヘ固定』
『世界全域ノ浄化及ビ恒久的安定化ニ使用シマス』
「分かるように言え!」
聖杯は、何の感情もなく答えた。
『対象ノ個体活動ハ終了シマス』
ヒューミリスの顔から血の気が引いた。
「……死ぬということか」
『肯定』
アマリスの手を掴み、光の外へ引こうとする。
しかし。
透明な壁に阻まれた。
「ふざけるな!」
拳を叩きつける。
硬い感触すらない。
腕が光の表面を滑り、弾かれるだけだった。
「別の方法を探せ!」
『代替手段ハ存在シマセン』
「僕を使え!」
ヒューミリスは叫ぶ。
「僕の魂を使え! 神でも何でも必要なら、僕がなる!」
聖杯の光が彼を走査する。
『要求ヲ拒否』
「なぜだ!」
『個体ヒューミリスハ、浄化後ノ世界ヲ維持スル管理個体トシテ必要デス』
「そんなものは要らない!」
『管理個体ノ不在ハ、再構成後ノ世界崩壊ヲ意味シマス』
二人でここへ辿り着いた時点で。
役割は既に決められていた。
一人は。
世界を浄化するための生贄。
もう一人は。
その犠牲によって作られた世界を、永遠に管理し続ける神。
「誰が、こんな仕組みを……」
ヒューミリスの声が震えた。
「誰が、こんなものを作った!」
答えはない。
聖杯はただ、処理を続けている。
『中枢核ノ収容ヲ開始』
アマリスの足元が、光の粒子へ変わり始めた。
「アマリス!」
「俊君」
彼女は不思議なほど穏やかな声で呼んだ。
「大丈夫だ」
ヒューミリスは壁を何度も殴る。
「今度こそ助ける。僕は、そのためにここまで――」
「もういいの」
「よくない!」
「いいんだよ」
瑠美奈が、光の向こうから彼の頬へ手を伸ばす。
透明な壁に阻まれ。
二人の手が触れ合うことはない。
「俊君は、十分頑張ってくれたから」
「何もできてない!」
拳から血が滲む。
「皆を死なせて! 君まで失ったら、僕は何のためにここまで来たんだ!」
「私を助けるために、ずっと傷ついてくれたんだよね」
瑠美奈の身体が、腰まで光へ変わっていく。
「だったら今度は、私の番」
「やめろ」
「俊君を助ける番だよ」
「そんなもの、望んでない!」
「私が望んでるの」
瑠美奈は涙を流しながら。
それでも、笑った。
「私、幸せだった」
「嘘だ」
「本当だよ」
「こんな結末が、幸せなわけがない!」
「この世界で、また俊君に会えた」
王女として旅をして。
互いの正体も知らないまま、もう一度惹かれ合った。
どれほど時代が離れても。
どれほど姿が変わっても。
二人は再び出会うことができた。
「一緒に旅ができた」
瑠美奈の声が震える。
「いっぱい怖いことがあったけど。いっぱい泣いたけど」
エリュたちの笑顔。
テンペランスの静かな背中。
カスタと牡丹の口喧嘩。
パトスの温かな毛並み。
もう戻らない時間が、彼女の瞳を流れていく。
「皆に会えた」
「だったら!」
ヒューミリスが壁へ額を押し付ける。
「皆の分まで、生きろよ!」
「俊君が生きて」
「君がいない世界を救って、何になる!」
瑠美奈は一瞬だけ目を伏せた。
そして。
静かに答えた。
「私が愛した人が、生きている世界になるよ」
「……嫌だ」
ヒューミリスの声が、子供のように弱くなる。
「嫌だ。瑠美奈」
「うん」
「僕を置いていくな」
「ごめんね」
「また一人にするのか」
瑠美奈の表情が歪んだ。
それでも。
彼女は最後まで笑おうとした。
「世界を、お願い」
「そんな約束、できるか!」
「俊君なら大丈夫」
「僕は大丈夫じゃない!」
「知ってるよ」
瑠美奈の胸元まで、光へ変わる。
「本当は、すごく寂しがり屋だもんね」
「やめろ」
「すぐ無茶をするし」
「やめてくれ」
「一人で全部背負おうとするし」
「瑠美奈!」
最後に残った彼女の手が、壁の向こうからヒューミリスの手と重なる。
触れてはいない。
それでも。
確かに温もりがあるような気がした。
「さよなら、俊君」
「言うな」
「ずっと」
彼女の瞳から、最後の涙が零れた。
「ずっと、大好きだったよ」
光が弾けた。
アマリス・ルミナの姿が消える。
天城瑠美奈の魂が、聖杯の中心へ取り込まれていく。
「瑠美奈――ッ!」
ヒューミリスの叫びが、白い世界を揺らした。
聖杯の輪が高速で回転する。
虹色の光が巨大な柱となり、何もない天へ伸びていった。
『中枢核ノ固定ヲ完了』
『世界浄化プロトコルヲ実行』
『再構成開始』
白が。
世界を飲み込んだ。
---
光は、世界のあらゆる場所へ届いた。
魔族の軍勢が、大地の上で動きを止める。
咆哮を上げていた巨獣が、穏やかな粒子となって空へ消えていく。
呪いに覆われていた森から、黒い霧が晴れた。
腐り果てた大地を割り、緑の芽が顔を出す。
濁っていた川に、透明な水が流れる。
燃えていた都市から炎が消え。
傷ついた者たちの身体が、柔らかな光に包まれていった。
空を覆っていた暗雲が裂ける。
青空。
この世界の人々が、長い間忘れていた色。
それを見上げて。
誰かが泣いた。
誰かが膝をつき。
誰かが神へ祈りを捧げた。
「終わった……」
「魔族が消えたぞ!」
「私たちは救われた!」
歓声が広がっていく。
鐘が鳴った。
人々は抱き合い。
歌い。
旗を掲げた。
長い戦いの終わりを祝う、勝利の歌。
英雄ヒューミリスと。
聖女アマリスを讃える凱歌。
誰も知らない。
その聖女が、もうどこにもいないことを。
誰も知らない。
美しい青空が。
花咲く大地が。
自分たちの笑顔が。
たった一人の少女の魂を燃やし続けることで、保たれていることを。
偽物の世界に響く。
偽物たちの、勝利の歌。
---
どれほどの時が過ぎただろう。
一年。
十年。
百年。
ヒューミリスにとって、時間は意味を失っていた。
彼は世界の最上層に作られた玉座へ座り続けている。
聖杯から与えられた、管理者としての権能。
目を閉じれば、世界中の全てが見えた。
雨を必要とする土地へ、雲を運ぶ。
病に苦しむ者の身体から、毒を取り除く。
争いが起きれば、双方の武器を消し去る。
飢える者がいれば、大地を実らせる。
人々は神を称えた。
ヒューミリスを。
世界を救った英雄を。
彼が望めば。
誰一人として傷つくことのない世界を作れた。
そして。
実際に、そうした。
瑠美奈が命を捧げて守った世界だったから。
彼女の犠牲を無駄にしてはならない。
彼女が愛した人々を。
彼女が救おうとした命を。
自分が守らなければならない。
だから。
全てを完璧にした。
戦争のない世界。
病のない世界。
飢えのない世界。
子供が泣かず。
親が子を失わず。
恋人たちが穏やかに老いていく世界。
地上では今日も、人々が笑っている。
鳥が歌う。
花が咲く。
祝祭の鐘が鳴る。
完全な平和。
完全な幸福。
完全な世界。
玉座の隣には。
もう一つの椅子が置かれていた。
誰も座ることのない椅子。
ヒューミリスは毎日、その椅子へ話しかけた。
今日、どこで花が咲いたか。
どこで子供が生まれたか。
争っていた二つの国が、ようやく手を取り合ったこと。
返事はない。
「君が望んだ世界だよ」
誰も座らない椅子へ語りかける。
「皆、幸せそうだ」
返事はない。
「君が救ったんだ」
返事はない。
「瑠美奈」
何度呼んでも。
聖杯の中から、彼女の声が返ることはなかった。
世界は笑っている。
彼女がいないまま。
世界は続いている。
彼女を燃やしながら。
地上で、人々が歌っていた。
神と聖女を讃える歌。
かつての旅が、物語になっている。
ヒューミリスたちは勇敢に戦い。
誰一人として迷わず。
聖女アマリスは笑顔で世界へ命を捧げた。
そう伝えられていた。
彼女が泣いていたことを。
彼女が怖がっていたことを。
自分が、行くなと縋ったことを。
誰も知らない。
綺麗に整えられた物語の中で。
皆は英雄になった。
「……違う」
ヒューミリスの手が、玉座の肘掛けを掴む。
硬い石に亀裂が入った。
「こんなものじゃない」
人々の歓声が聞こえる。
平和を祝う歌声が。
彼の耳には。
死者の上で笑う声にしか聞こえなくなっていた。
「君がいない」
指が石へ食い込む。
「君がいないのに」
瑠美奈を知らない者たちが。
彼女の犠牲を知らない者たちが。
彼女が作った世界で、幸せそうに笑っている。
なぜ。
どうして。
彼女だけがいない。
「こんなのは……」
玉座が砕けた。
ヒューミリスは立ち上がる。
神の怒りに呼応し、空が震えた。
それでも。
地上の人々は、神が自分たちを見守っていると信じて祈り続けている。
「こんなのは、僕の望んだ結末じゃない!」
誰もいないはずの空間に。
乾いた音が響いた。
ぱらり。
紙をめくる音。
ヒューミリスが振り返る。
空だったはずの隣の椅子に。
一人の男が腰掛けていた。
仕立ての良い、漆黒のスーツ。
脚を組み。
手には一冊の文庫本。
男は、物語の続きを楽しみにする読者のように。
ゆっくりと本を閉じた。
「おやおや」
口元に、愉悦の笑みが浮かぶ。
「贅沢な悩みだね」
男――黒野玲は、眼下に広がる平和な世界を見下ろした。
「世界は救われたんだよ?」




