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Vendetta Re-Verse ― 血と復讐の叙事詩 ―  作者: 慧梓
VendettaZero

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『Vendetta 0』最終章:境界の死線Ⅱ――散りゆく美徳

背後で、世界が白く弾けた。


空を覆っていた白銀の天使たちも。


父の帰りを信じていた三人の少女も。


全てが、一つの光となって消えていく。


爆風が荒野を駆け抜け、パトスの黄金の毛を激しく揺らした。


「エリュッ!」


ヒューミリスが叫ぶ。


パトスの背から飛び降りようとした身体を、テンペランスが後ろから掴んだ。


「離せ!」


「なりません!」


「まだ間に合うかもしれない!」


「振り返って、何ができるというのです!」


ヒューミリスが拳を振り上げる。


だが、それがテンペランスへ届くことはなかった。


光が消えた後。


そこにはもう、天使の残骸すら浮かんでいなかったからだ。


空は白く欠けたまま。


荒野には、風だけが吹いている。


「……何も」


ヒューミリスの腕から力が抜ける。


「何も、残ってないじゃないか」


答える者はいない。


アマリスが、震える手で彼の袖を掴んだ。


ヒューミリスは唇を噛み、俯いた。


「僕が連れてきた」


掠れた声が漏れる。


「クロノから預かって、まだ何もしてやれていないのに。僕が、こんな場所まで連れてきたから……」


「違います」


テンペランスが静かに言った。


「彼女たちは、自ら選んだ」


「そんなものは、選択じゃない」


「ならば」


テンペランスは、ヒューミリスの肩を掴んだまま、その顔を正面から見据えた。


「彼女たちの最期を、貴方が否定なさるのですか」


ヒューミリスの瞳が揺れる。


「命令ではなく、自らの意思で貴方を守った。そう告げた彼女たちの言葉を、嘘にするおつもりですか」


「……そんなこと」


「でしたら、進んでください」


テンペランスの手が離れる。


「我々にできるのは、彼女たちが繋いだ道を、途切れさせぬことだけです」


パトスが再び大地を蹴った。


誰も後ろを見なかった。


いや。


見られなかった。


振り返った先に何もないと、もう知ってしまったから。


---


世界は、南へ進むほど形を失っていった。


岩山は途中から色をなくし、白い塊へ変わる。


川は崖の途中で途切れ、水だけが空中に静止している。


鳥に似た影が空を横切ったかと思えば、同じ場所へ戻り、寸分違わぬ動きを繰り返す。


生きているのか。


それとも、かつて生きていたものの残像なのか。


確かめる術はなかった。


「空間の崩壊が加速しています」


カスタが周囲へ結界を張りながら告げた。


「先ほどの戦闘で、境界の安定性が失われたのでしょう」


「終焉の地まで、あとどれくらいだ」


「距離という概念が、既に意味を失いかけています」


ヒューミリスの問いに、カスタは首を横へ振る。


「近づいてはいます。けれど、どこまで進めば辿り着けるのかは……」


その時。


パトスが急停止した。


四肢が地面を削り、白い土煙を巻き上げる。


「どうした!」


「何かいる」


パトスの喉から、低い唸り声が漏れた。


前方。


地面に生じた黒い染みが、ゆっくりと広がっていく。


白しか存在しない崩壊した世界で、それだけがあまりにも濃い。


染みの中心から、何かが這い出してきた。


腕。


脚。


角。


巨大な人型を思わせながら、その輪郭は定まらない。


見るたびに形が変わる。


老人の顔。


獣の口。


骸骨の眼窩。


それらが幾重にも重なり、互いを食い合いながら一つの姿を作っていた。


『飢エタ』


声ではなかった。


言葉そのものが、頭蓋の内側へ直接流れ込んでくる。


『長イ』


『永イ』


『何モ、無イ』


黒い怪物が顔を上げる。


数え切れない口が一斉に開いた。


『喰ワセロ』


周囲の白い大地が、怪物へ吸い込まれていく。


岩が。


空気が。


光さえも。


存在するもの全てが、形を保てず黒い口へ飲み込まれていく。


「虚無の王……」


テンペランスが呟いた。


その声には、珍しく明確な緊張が宿っていた。


「知っているのか」


「神話の時代に封じられた魔王です」


腰の剣へ手を添える。


「己の空虚を満たすため、国を、生命を、果てには自らの肉体まで喰らい尽くしたと伝えられています」


『飢エタ』


虚無の王が一歩踏み出す。


ただそれだけで、地面が大きく抉れた。


『オ前ハ』


無数の顔が、テンペランスへ向く。


『同ジ匂イガスル』


テンペランスの表情が僅かに強張った。


「テンペランス?」


アマリスが呼びかける。


彼は答えず、腰に巻かれた鎖へ手を伸ばした。


幾重にも身体へ巻き付いた、黒い枷。


長い旅の間、決して外そうとしなかったもの。


「ヒューミリス様」


「何だ」


「ここは、私が引き受けます」


「また、それか」


ヒューミリスの声が低くなる。


「僕を先へ進ませるために、次はお前が死ぬと言うのか」


「まだ死ぬとは決まっておりません」


「今のお前の顔を見れば分かる!」


テンペランスは、少し困ったように笑った。


「貴方は、本当に嘘を見抜くのがお上手だ」


「笑っている場合か!」


「ええ」


テンペランスは剣を抜いた。


細身の刀身。


何の装飾もない、使い込まれた剣。


「だからこそ、ここは私が最も適任なのです」


虚無の王が大地を踏みしめる。


黒い波が広がり、触れた岩も植物も瞬く間に消滅した。


テンペランスは剣を構え、その前へ立つ。


「私の美徳は、節制」


静かな声だった。


「欲を律し、己を抑え、必要以上を求めぬこと」


身体へ巻かれた鎖を、強く握る。


「けれど、長い間、勘違いをしていました」


鎖に亀裂が走った。


「節制とは、欲を持たぬことではない」


一本。


また一本。


枷が弾け飛ぶ。


「欲に支配されず、己の意思で使うことだ」


最後の鎖が砕けた。


その瞬間。


テンペランスの身体から、黒い魔力が噴き上がった。


剣が変形する。


細身だった刀身が、生き物の顎のように裂け、無数の牙を備えた大剣へ姿を変える。


「その剣は……」


「暴食の魔剣」


テンペランスの瞳が、深い赤へ染まる。


「私が、最も恐れた力です」


『喰ワセロ』


虚無の王が腕を振り上げた。


空間そのものを削り取る爪が、テンペランスへ迫る。


彼は避けなかった。


大剣を横薙ぎに振るい、怪物の腕へ食らいつかせる。


金属が肉を断つ音ではない。


巨大な獣が、骨ごと獲物を噛み砕くような音。


虚無の王の腕が、魔剣へ吸い込まれていく。


『オオオオオオオオッ!』


怪物が初めて苦鳴を上げた。


「今です!」


テンペランスが叫ぶ。


「進んでください!」


「一緒に来い!」


「この者を倒せるのは、私だけです!」


黒い爪がテンペランスの腹を貫いた。


鮮血が、白い地面へ落ちる。


それでも彼は剣を離さない。


むしろ。


怪物の腕を掴み、自らの身体へ深く引き寄せた。


「テンペランス!」


「行け!」


初めて。


彼がヒューミリスへ向けて、命令するように叫んだ。


「貴方の背は、私が守る!」


虚無の王の無数の口が、テンペランスへ噛みつく。


肩が。


腕が。


腹が。


黒い闇に飲まれていく。


だが同時に、暴食の魔剣もまた、怪物の身体を喰らい続けていた。


食う者と、食われる者。


どちらが先に尽きるのか。


それだけを競う、原始的な殺し合い。


パトスが走り出す。


「待て!」


ヒューミリスが背後へ手を伸ばす。


テンペランスは、もう振り返らなかった。


己の肉を喰われながら。


怪物の魔力を吸い尽くしながら。


ただ、目の前の敵だけを見ていた。


『飢エタ』


虚無の王の声が弱くなる。


『マダ』


『足リナイ』


「そうですか」


テンペランスの頬に、僅かな笑みが浮かぶ。


「奇遇ですね」


魔剣を、怪物の胸へ深く突き刺す。


「私も、ずっと腹が減っていた」


虚無の王の身体が、内側から崩れ始めた。


無数の顔が悲鳴を上げる。


黒い巨体が縮み、魔剣へ。


テンペランスへ。


全て吸い込まれていく。


やがて。


怪物は跡形もなく消えた。


後に残ったテンペランスの身体もまた、指先から灰へ変わり始めていた。


禁じられた力が、彼自身まで喰らい始めたのだ。


遠ざかる仲間たちの背を見つめる。


もう、声は届かない。


それでも彼は剣を杖にして立ち、深々と頭を下げた。


「ご馳走様、でした」


穏やかな顔だった。


全ての飢えから解放されたように。


テンペランスは、灰となって風に消えた。


---


一人減った。


また一人。


パトスの背には、誰も言葉を発する者がいなかった。


ヒューミリスは拳を握りしめたまま、俯いている。


アマリスは彼の手へ、自分の手を重ねた。


けれど。


何を言えばいいのか分からなかった。


大丈夫だと告げることも。


きっと報われると慰めることも。


あまりに無責任に思えた。


「ヒューミリス」


牡丹が静寂を破った。


「顔をお上げなんし」


ヒューミリスは動かない。


「聞こえなんしたか?」


牡丹が、彼の額を指先で弾いた。


「痛っ……」


「痛いなら、生きている証でありんす」


牡丹は前を向く。


「死んだ者の分まで背負うなど、傲慢なことを考えるのは勝手でありんすけれど」


風に長い髪が靡く。


「そこで足を止めたら、わっちら全員、犬死にでありんす」


「牡丹」


「勘違いしなんし。励ましているわけではありんせん」


いつものように、少し棘のある笑みを浮かべる。


「主さんだけが、皆に愛されていると思うのが気に入らんだけでありんす」


カスタが呆れたように息を吐いた。


「貴女は最後まで素直ではありませんね」


「あら。聖女様は、えらい余裕がおありで」


「少なくとも、人の心を逆撫ですることを慰めだと思っている方よりは」


「言うようになりんしたなぁ」


二人は睨み合う。


いつもの光景。


それを見て、ヒューミリスの口元が僅かに緩んだ。


ほんの一瞬だけ。


だが、その瞬間を見逃さず、牡丹は満足そうに鼻を鳴らした。


「それでよろしおす」


次の瞬間。


空が、燃えた。


白かった空へ、黄金の炎が走る。


巨大な輪が開き、その中心から六枚の翼がゆっくりと降りてきた。


人の何倍もある巨体。


純白の鎧。


顔を覆う黄金の仮面。


六枚の翼一本一本に、無数の目が開いている。


その手に握られているのは、空から大地まで届くほど巨大な光の槍。


『侵入者ヲ確認』


冷たい声が世界へ響く。


『汚染度、許容値ヲ超過』


『浄化ヲ開始シマス』


熾天使が槍を掲げた。


数千の光が、翼に開いた瞳へ集まっていく。


「全員、伏せて!」


カスタが飛び降りた。


両手を大地へ叩きつける。


幾重もの魔法陣が展開し、一行の頭上を巨大な結界が覆う。


直後。


光が落ちた。


昼も夜もなくなるほどの、圧倒的な閃光。


世界そのものが砕けたような轟音。


カスタの結界が大きく撓む。


透明だった壁が白く染まり、無数の亀裂が走った。


「カスタ!」


「まだ、保ちます!」


カスタの口元から血が流れる。


「早く進んでください!」


「また残るつもりか!」


ヒューミリスが叫ぶ。


「この結界を維持したままでは動けません!」


「なら僕が戦う!」


ヒューミリスが武器へ手を伸ばした、その前へ。


牡丹が立った。


「いけんよ」


「どけ!」


「ここで神様ごっこをして死ぬおつもりでありんすか?」


牡丹の足元から、赤黒い花が咲き始める。


一輪。


二輪。


瞬く間に大地を覆う、血の色をした牡丹の花。


「主さんの敵は、あれではありんせん」


熾天使を見上げる。


「ここは、わっちらに任せなんし」


「私たち?」


カスタが眉を寄せる。


「牡丹。貴女まで残る必要はありません」


「あら、随分な言い草でありんすなぁ」


「私は結界の維持で動けません。ですが貴女なら、皆様と先へ――」


「嫌でありんす」


牡丹は即答した。


「主さん一人を置いていったら、後で自慢するでありんしょう?」


「何をです」


「世界を救った聖女として、わっちより綺麗な死に方をしたと」


「そんなことは――」


「わっちの知らぬところで、主さんだけ褒めそやされるなど、耐えられんのでありんす」


牡丹は笑った。


「これでも、嫉妬深い女でありんすから」


熾天使が再び槍を掲げる。


結界へ、二撃目の光が落ちた。


カスタの膝が地面へ着く。


亀裂がさらに広がる。


「馬鹿な人」


カスタは苦しそうに息をしながら、それでも僅かに微笑んだ。


「ええ。とうに知っておりんしょう?」


「嫌というほど」


「わっちも、主さんのことが嫌いでありんす」


「奇遇ですね」


牡丹がカスタの隣へ並ぶ。


「わっちもずっと、主さんが嫌いでありんした」


カスタが片手を伸ばす。


牡丹は一瞬だけ、その手を見つめた。


やがて。


自分の手を重ねる。


「だから」


カスタが言う。


「一人で逝かせるのは、癪なのでしょう?」


牡丹の目が僅かに見開かれる。


すぐに、いつもの不敵な笑みへ戻った。


「分かっているではありんせんか」


二人の手が強く結ばれる。


純白の結界と。


真紅の呪花。


正反対の魔力が混ざり合い、一つの巨大な術式を作り上げていく。


「パトス!」


カスタが叫んだ。


「皆様を!」


「もう、誰も置いていけない!」


パトスが吠える。


「ならば、ここで全員死にますか!」


カスタの声が、光の中を貫く。


「それが、散っていった者たちへの誠意だとお思いですか!」


パトスが歯を食いしばる。


「行きなんし、ヒューミリス」


牡丹が振り返る。


「わっちらの死を、無駄にしないでおくんなんし」


「嫌だ」


ヒューミリスは首を横へ振る。


「嫌だ……もう、誰も失いたくない」


「今さらでありんすなぁ」


牡丹は寂しそうに笑った。


「もっと早う言うてくれなんしたら、わっちも少しくらいは嬉しかったのに」


「牡丹!」


「さようなら、ヒューミリス」


カスタも彼を見る。


その瞳に、恐怖はなかった。


「どうか、世界を」


言葉が一瞬だけ止まる。


「いいえ」


カスタは首を振った。


「どうか、貴方自身が正しいと思う未来を」


パトスが走り出す。


ヒューミリスの叫びが遠ざかっていく。


熾天使は、逃げる一行へ槍を向けた。


『逃走ヲ確認』


『優先対象ヲ変更』


「させんよ」


牡丹が自らの胸へ爪を立てる。


皮膚を裂き、溢れた血を大地へ注いだ。


咲き乱れていた花々が、一斉に熾天使へ蔓を伸ばす。


六枚の翼へ絡み付き、無数の瞳を赤い花弁で覆っていく。


『汚染ヲ確認』


『排除――』


「浄化なさい」


カスタが立ち上がる。


胸元から、白い光が溢れ出した。


「命も、魂も、全て」


彼女の生命そのものを燃料に、結界が反転する。


守るための壁が。


敵を閉じ込めるための檻へ。


熾天使と二人の女を包み込み、完全に閉ざした。


光の槍が、カスタの胸を貫いた。


「カスタ!」


牡丹が彼女を抱き止める。


同時に、熾天使の炎が牡丹の身体を焼き始めた。


髪が燃える。


皮膚が崩れる。


それでも二人は、繋いだ手を離さなかった。


「痛うありんすな」


牡丹が呟く。


「ええ」


カスタの口元から、血が流れる。


「貴女と一緒だからでしょうか」


「最後まで嫌味な女でありんす」


「お互い様です」


二人は微かに笑った。


牡丹の花が、熾天使の身体へ根を張る。


カスタの結界が、限界まで収縮する。


「なぁ、カスタ」


「何です?」


「次に生まれる時は」


牡丹は少しだけ考えた。


「もう少し、普通に出会いたいものでありんすなぁ」


「お断りします」


「即答でありんすか?」


「また貴女に会ったら、きっと同じように嫌いになりますから」


「そうでありんすか」


牡丹は目を閉じた。


「なら、また嫌い合いんしょう」


結界の内側で、光と呪いが衝突した。


巨大な紅蓮の花が、空に咲く。


熾天使も。


カスタも。


牡丹も。


炎の中へ消えていった。


---


残されたのは、三人だった。


ヒューミリス。


アマリス。


そして、二人を乗せて走るパトス。


それだけ。


ヒューミリスは、もう叫ばなかった。


拳から血が流れるほど、強く握りしめている。


けれど、その痛みすら遠かった。


エリュ。


アル。


ジー。


テンペランス。


カスタ。


牡丹。


名前を思い浮かべるたび、胸の中へ穴が増えていく。


その穴を埋めるものは何もない。


「ヒューミリス」


アマリスが、彼の背へ腕を回した。


「私がいる」


ヒューミリスは答えなかった。


ただ。


自分へ縋る小さな手へ、そっと手を重ねた。


それだけで。


まだ自分が完全に壊れていないと、辛うじて分かった。


「見えたぞ」


パトスが言った。


前方。


白い空と白い大地の境目に、一本の亀裂が走っている。


縦に長い、光の裂け目。


その向こうには、何もない。


空も。


地面も。


色も。


ただ、完全な白が広がっている。


「終焉の地だ」


パトスが速度を上げる。


「ようやく……」


アマリスが息を呑む。


その瞬間。


世界が、二人を拒絶した。


亀裂の周囲から、黒いノイズが溢れ出す。


形はない。


意思もない。


ただ、存在してはならないものを消去するためだけに動く、世界そのものの拒絶。


それが津波となって、三人へ押し寄せた。


『修正』


無数の声が重なった。


『異物ヲ確認』


『排除』


パトスが黄金の雷を放つ。


雷光がノイズを焼く。


だが、焼かれた端から黒い波は再生した。


「効かぬか!」


『世界ノ外部ヘ接続スル異常ヲ検知』


『対象数、三』


『許容量、二』


パトスの耳が動いた。


「……そういうことか」


「何がだ!」


ヒューミリスが尋ねる。


パトスは答えなかった。


さらに速度を上げる。


黄金の四肢が白い大地を砕く。


亀裂まで、あと僅か。


ノイズが左右から迫る。


「パトス!」


「しっかり掴まっていろ!」


神獣の身体から、雷が噴き上がる。


鬣が光へ変わり、全身を黄金の炎が包んだ。


「何をするつもりだ!」


「我は、貴様をここまで運ぶと誓った」


パトスが笑った。


獣の顔では分かりにくい。


それでも確かに、誇らしげに笑っていた。


「その役目を、果たすだけだ」


終焉の地の入口へ、全速力で突っ込む。


だが。


亀裂は、二人分の幅しかない。


三人では、越えられない。


「待て」


ヒューミリスが気づく。


「パトス、待て!」


「アマリスを離すなよ」


「やめろ!」


パトスは跳躍した。


空中で身体を捻る。


その勢いのまま、ヒューミリスとアマリスを背中から投げ出した。


「パトスッ!」


二人の身体が、白い亀裂へ吸い込まれていく。


ヒューミリスが手を伸ばす。


パトスも、巨大な前脚を伸ばした。


けれど。


届かない。


「行け、ヒューミリス!」


パトスは大地へ降り立った。


二人と終焉の地を守るように、黒い津波の前へ立ちはだかる。


「振り返るな!」


ノイズが黄金の身体を飲み込んでいく。


毛が。


肉が。


骨が。


世界から削除されるように、端から消えていく。


それでもパトスは退かなかった。


四肢を地面へ突き立て、喉が裂けるほど吠える。


「貴様は、背負った命の数だけ前へ進め!」


「パトス!」


「神よ、刮目せよ!」


最後の雷光が、世界を真っ白に塗り潰した。


「これが――獣の意地だッ!」


咆哮が途絶えた。


---


音が消えた。


爆発も。


雷鳴も。


パトスの声も。


全てが、途中で切り取られたように聞こえなくなる。


ヒューミリスとアマリスは、白い地面へ投げ出された。


冷たくもない。


硬くもない。


けれど、確かに二人の身体を受け止める、奇妙な平面。


ヒューミリスはすぐに立ち上がり、後ろを振り返った。


「パトス!」


そこには。


何もなかった。


入口も。


亀裂も。


戻るための道も。


ただ、果てのない白だけが広がっている。


「パトス……」


返事はない。


「テンペランス」


声が白い空間へ吸い込まれる。


「牡丹。カスタ。エリュ、アル、ジー……」


何度名前を呼んでも。


誰の声も返ってこない。


アマリスだけが、震える身体で彼へ寄り添った。


ヒューミリスは立ち尽くしたまま、白い虚無を見つめる。


皆が命を繋いで。


皆が自分を押し出して。


ようやく、ここへ辿り着いた。


二人だけで。


あまりにも静かな世界の中心。


遥か前方に。


虹色の光が、一つだけ浮かんでいた。


幾何学的な輪郭を持つ、異質なオブジェ。


救いを求めて、誰もが目指したもの。


仲間たちの屍の果てに存在する、最後の希望。


――聖杯。


「……やっと」


アマリスが呟く。


ヒューミリスは答えなかった。


虹色の光を見つめながら。


ただ、動かない拳を握りしめる。


やっと辿り着いた。


それなのに。


彼の隣にはもう、喜びを分かち合う仲間が誰一人として残っていなかった。


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