『Vendetta 0』最終章:境界の死線Ⅰ――鉄の娘たち
島が、遠ざかっていく。
雲ひとつない空の下。
機巧仕掛けの島は、南へ進むヒューミリスたちの背後で、少しずつ小さくなっていた。
先ほどまで鳴り響いていた機械音も、クロノの気だるげな声も、もう聞こえない。
あるのは、パトスの大きな背が大地を蹴る音と、風を切る音だけ。
その背に乗りながら、ジーは何度目か分からないほど後ろを振り返った。
「お父様は、まだ見てくださっているでしょうか」
小さな声だった。
誰に尋ねたというわけでもない。
それでも、隣に座っていたアルは、すぐに答えた。
「当然です」
胸を張り、島の方角を見る。
「お父様は、この世界の全域を観測できます。私たちがどこにいようと、見失うはずがありません」
「そう、ですよね」
ジーは胸元で両手を組んだ。
安心したように、ほんの少しだけ笑う。
その二人の前に座っていたエリュは、何も言わなかった。
ただ一度だけ振り返り、遥か彼方に霞む島を見つめた。
「エリュ?」
ジーに呼ばれ、エリュは前へ向き直る。
「どうしました?」
「いえ」
エリュは首を横に振った。
「お父様なら、きっとこう仰ると思って」
「何と?」
「あまり後ろばかり見ていると、転ぶよ――と」
アルとジーが顔を見合わせる。
やがて二人は、小さく笑った。
「確かに、お父様なら言いそうです」
「あの方は、心配している時ほど、面倒そうな顔をなさいますから」
「ええ」
エリュも微笑んだ。
「ですから、前を見ましょう」
南へ。
父から託された新しい主人と共に。
世界を救うために。
少女たちは前を向いた。
その遥か後方。
誰もいなくなった管制室では、冷めた紅茶だけが、静かに机の上へ残されていた。
---
南へ進むほど、世界は壊れていった。
最初に異変へ気づいたのは、アルだった。
「停止してください」
パトスの背から飛び降り、地面へ膝をつく。
魔導書を開き、指先を白い地面へ触れさせる。
青白い術式が波紋のように広がった。
だが、数メートル先まで進んだところで、術式は突然途切れた。
「……反応が、ありません」
「魔力がないのか?」
ヒューミリスが尋ねる。
「違います」
アルは眉を寄せた。
「存在そのものが、ありません」
彼女が指差した先。
一見すれば、何の変哲もない荒野だった。
乾いた地面が続き、岩が転がり、遠くには枯れた木さえ見える。
しかし、よく見れば。
岩肌の模様は、同じ形を何度も繰り返していた。
風に揺れているはずの枯れ枝も、一定の間隔で全く同じ動きを再生している。
空を流れる雲は途中で切れ、切断面の向こうには、何も描かれていない白が覗いていた。
まるで、完成する前に放棄された絵画。
あるいは――。
「世界の端が、近い」
パトスが低く唸った。
黄金の毛が逆立っている。
「この先は、神すら形を与えなかった領域だ」
アマリスがヒューミリスの袖を掴む。
「終焉の地……」
「ああ」
ヒューミリスは白く欠けた空を見上げた。
「もうすぐだ」
仲間たちの犠牲。
失われた国々。
数え切れないほどの死。
その全てに、終わりを与える場所。
ようやく、ここまで来た。
「進もう」
ヒューミリスが告げた、その時だった。
――警告。
エリュたち三人の瞳に、同時に赤い光が走った。
「上空に高密度反応!」
アルが叫ぶ。
直後。
白く欠けた空に、亀裂が入った。
ガラスが割れるような音と共に、空間そのものが左右へ裂けていく。
その向こう側から、無数の影が降り注いだ。
白銀の装甲。
六枚の機械翼。
顔のない兜。
両腕へ接続された、巨大な魔導砲。
天使を模して造られた、殺戮のための機巧人形。
数十。
数百。
見上げた空を埋め尽くすほどの大群だった。
ジーの瞳が、敵の構造を高速で走査する。
「識別不能……いえ、違います」
声が震えた。
「この構造式、知っています」
アルもまた、敵を凝視していた。
「クロノグラフ式の機巧術」
ヒューミリスが息を呑む。
「クロノの技術だと?」
「基本構造は、間違いありません」
アルが魔導書を握りしめる。
「ですが、お父様の設計ではない」
白銀の天使たちが、一斉に砲口をこちらへ向けた。
「お父様は、機巧生命の安全機構を外したりしない」
ジーの声から、いつもの幼さが消えた。
「感情演算領域を削って、兵装制御へ転用することもありません」
エリュは無言で右腕を変形させる。
細い腕が展開し、巨大な魔導砲へと姿を変えた。
「お父様の技術を盗み」
砲口へ、眩い光が収束していく。
「命を守るための知識を、命を奪う道具へ変えた」
エリュの瞳が、冷たく敵を見据えた。
「許しません」
砲撃が放たれた。
閃光が空を貫き、先頭の天使数体をまとめて吹き飛ばす。
同時に、敵軍から無数の光線が降り注いだ。
「防御展開!」
ジーが両手を広げる。
透明な障壁が一行を包み込み、光の雨を受け止めた。
激しい衝撃。
障壁に幾重もの亀裂が走る。
「くっ……!」
ジーの足が地面へ沈んだ。
「数が多すぎる!」
テンペランスが剣を抜き、障壁を抜けてきた天使を斬り伏せる。
牡丹の放った呪いの花が、空中で次々と炸裂した。
カスタも結界を重ね、アマリスを守る。
だが、敵は減らない。
破壊された機体の隙間を埋めるように、亀裂の向こうから新たな天使が降りてくる。
アルの魔導書に、無数の術式が高速で浮かび上がった。
「敵軍の指揮系統を確認しました」
「止められるか?」
ヒューミリスの問いに、アルは一瞬だけ沈黙した。
「可能です」
だが、その声は硬かった。
「中枢へ侵入し、全機体の制御権を奪取します」
「なら――」
「ただし」
アルが続ける。
「敵の演算領域は、私たちと同じクロノグラフ式です。侵入経路を開けば、向こうからも私たちの中枢へ到達できます」
「どういうことだ」
「こちらが敵を壊すのと同時に、敵も私たちを壊せるということです」
ヒューミリスは言葉を失った。
アルが静かに魔導書を閉じる。
「それでも、他に突破する方法はありません」
「待て」
ヒューミリスがアルの肩を掴む。
「別の方法を探す。全員でここを抜ける方法を」
「時間がありません」
エリュが上空を見上げる。
天使たちは陣形を変え始めていた。
大群の中央で、巨大な光が膨れ上がっている。
荒野一帯を消滅させるための、殲滅砲撃。
「あれが放たれれば、全員が消滅します」
「だったら、なおさら急いで――」
「ヒューミリス様」
エリュが彼の言葉を遮った。
その声は、不思議なほど穏やかだった。
「命令してください」
「……何を」
「私たち三体に、この場へ残れと」
ヒューミリスの表情が固まる。
「貴方を先へ進ませるため、ここで敵を食い止めろと命令してください」
「できるわけがないだろ!」
荒野に、ヒューミリスの叫びが響く。
「クロノから預かったばかりなんだぞ! お前たちは、あいつが命を懸けて――」
言葉が止まった。
クロノは、もういない。
ヒューミリスたちは、そう信じている。
だからこそ。
その遺志を託された自分が、娘たちへ死ねと命令するなど、できるはずがなかった。
「進んでください」
アルが言った。
「これは、私たちにしかできないことです」
「嫌だ」
「ヒューミリス様」
「命令しない。そんな命令は絶対にしない!」
エリュは、しばらく彼を見つめていた。
やがて。
ほんの少しだけ、嬉しそうに笑った。
「そうですか」
右手を胸へ当てる。
「では、これは命令ではありません」
アルとジーも、エリュの左右へ並んだ。
「私たち自身の意思です」
ヒューミリスの瞳が見開かれる。
機巧少女。
人間に作られ、命令に従うために生まれた存在。
その三人が今、誰の命令でもなく、自分たちの死を選ぼうとしている。
「お父様は、私たちを道具として造ったのではありません」
エリュが言う。
「考え、迷い、選ぶことのできる娘として、私たちを造ってくださいました」
ジーが、不安そうに姉を見上げる。
「エリュお姉様」
「何です?」
「私たち、ちゃんとできるでしょうか」
「ええ」
エリュは即答した。
「私たちは、お父様の最高傑作ですから」
「帰ったら」
ジーは胸元で手を握る。
「お父様に、褒めていただけますか?」
一瞬。
アルが顔を伏せた。
エリュは、妹の頭へ手を置いた。
「もちろんです」
優しく髪を撫でる。
「きっと、抱き締めてくださいます」
「本当ですか?」
「私は、嘘をつきません」
それは。
彼女が生まれて初めてついた、優しい嘘だった。
---
「パトス!」
エリュが叫ぶ。
「ヒューミリス様たちを、終焉の地へ!」
「断る!」
黄金の神獣が牙を剥く。
「我は、仲間を置き去りにして逃げるための脚ではない!」
「貴方が残れば、誰が皆様を運ぶのですか!」
パトスの動きが止まる。
「役目を果たしてください」
エリュはパトスを真っ直ぐに見た。
「私たちも、そうします」
上空の光が限界まで膨れ上がる。
もう猶予はない。
「行ってください、ヒューミリス様」
アルの身体から、無数の光の糸が伸びる。
敵軍の演算領域へ侵入を開始したのだ。
「お父様が救おうとした世界を、救ってください」
ジーが障壁を最大出力まで広げる。
少女の身体から火花が散った。
「世界を救えば、また会えますよね?」
ヒューミリスは答えられなかった。
パトスが地面を蹴る。
強引にヒューミリスたちを背へ乗せ、南へ走り出す。
「待て! エリュ! アル! ジー!」
ヒューミリスが手を伸ばす。
三人の姿が、急速に遠ざかっていく。
エリュは追いかけようとせず、その場で右腕の魔導砲を構えた。
「ヒューミリス様」
風に消えそうな声。
それでも、確かに届いた。
「どうか、お元気で」
---
アルの意識が、敵軍の中枢へ侵入した。
無数の演算。
無数の防壁。
自分と同じ言語で構築された、悪意の迷宮。
『侵入者ヲ確認』
『排除シマス』
「お断りします」
アルの瞳から、青い光が溢れる。
「貴方たちが使っているのは、お父様の言葉です」
敵の制御領域を、一つずつ奪い取っていく。
「娘である私が、読み間違えるはずがありません」
白銀の天使たちが空中で痙攣する。
数十体が互いへ砲口を向け、同士討ちを始めた。
だが同時に、敵の侵入コードもアルの中へ流れ込む。
左腕が動かなくなる。
視界の半分が黒く欠ける。
「アルお姉様!」
ジーが叫ぶ。
「問題ありません」
アルは膝をつきながら、魔導書を開き続けた。
「予定通りです」
巨大な光線が、ジーの障壁へ直撃する。
障壁が砕ける。
ジーの右肩が吹き飛んだ。
小さな身体が地面を転がる。
「ジー!」
エリュが駆け寄ろうとする。
「来ないでください!」
ジーは片手を地面へ突き、再び立ち上がった。
失われた肩口から、火花が散っている。
「私が守ります」
「ですが、その身体では――」
「末っ子だからって、いつまでも守られてばかりではありません!」
ジーが両脚を踏ん張る。
再び障壁を展開する。
先ほどより薄い。
それでも、姉たちを守るように大きく広がっていく。
「私は、お父様の娘です!」
光線が降り注ぐ。
一発。
二発。
三発。
障壁に亀裂が走るたび、ジーの身体から部品が零れ落ちた。
それでも彼女は、倒れなかった。
「解析、完了」
アルが告げる。
「敵軍の中枢を、エリュお姉様へ接続します」
「分かりました」
エリュの右腕へ、敵全機の位置情報が流れ込む。
同時に、自爆装置の封印を解除する。
『警告』
『当該機能ノ使用ハ、機体ノ完全消滅ヲ意味シマス』
「承知しています」
『実行後ノ修復ハ不可能デス』
「構いません」
エリュは遠ざかっていくヒューミリスたちの背中を見た。
もう、声は届かない。
それでも。
最後まで、彼らが見えなくなるまで、見送った。
「アル。ジー」
二人の妹が、姉を見る。
「怖いですか?」
アルは少し考えた。
「未知の状態への移行には、不安があります」
ジーは正直に頷いた。
「少しだけ、怖いです」
「そうですか」
エリュは二人の手を握った。
「私もです」
三人の瞳が、同時に揺れる。
機械である彼女たちにも、死は怖かった。
だからこそ。
それでも選んだという事実は、誰にも否定できない。
「ですが、一緒です」
エリュが笑う。
「なら、きっと大丈夫です」
アルが、その手を強く握り返す。
ジーも、残った左手で二人に触れた。
上空から、最後の殲滅光が降り注ぐ。
エリュが自爆コードを入力した。
「お父様」
三人の声が重なる。
「私たちは、立派にできましたか?」
世界が、白く染まった。
白銀の天使たちが、光の中で次々と消えていく。
空を覆っていた大軍も。
三人の少女も。
何一つ残さず、光の飛沫となって散った。
---
遥か北方。
誰もいない管制室。
空になった椅子。
停止したモニター。
机の上に残された、一杯の紅茶。
遠い爆発の振動が、島の地面を微かに揺らした。
冷え切った紅茶の表面に、小さな波紋が広がる。
一度。
二度。
やがて、何事もなかったように静まった。
少女たちの問いに。
返事をする者は、もうどこにもいなかった。




