『Vendetta 0』第五章:飢えたる剣、節制の果て
戦場の匂いは、血と油と硝煙だった。
聖国領の清浄な空気が遠ざかり、代わりに重く淀んだ空気が肺を満たす。
パトスの背から眼下を見渡すと、無数の旗が乱れ飛ぶ平原が広がっていた。
「小国家群」。
大小様々な国家が乱立し、昨日の同盟国が今日は敵になる、終わりのない戦場。
「……空気が悪いねぇ。ここには『粋』も『信仰』もありゃしない」
牡丹が扇子で口元を覆い、顔をしかめる。
「これが、戦争……」
アマリスが不安げに杖を握りしめた。
「南の王国とはまた違う、ドロドロしたものを感じます」
ヒューミリスは眼下の平原を見ていた。
無数の兵士。無数の旗。無数の死。
そしてその中央に——奇妙な「空白」があった。
戦場の中心に、誰も踏み込めない場所がある。
数千の兵士たちが、たった一人を遠巻きに取り囲み、恐怖で動けずにいる。
その中心で、男が座禅を組んでいた。
ボロボロの灰色の外套。
膝の上に置かれた、刃こぼれ一つない巨大な剛剣。
男は目を閉じている。周囲の喧騒を、完全に遮断しているかのように。
「あの男……強い」
カスタが青ざめた。
「パトス様と同格か、それ以上の気配を感じます」
「グルル」
パトスが低く唸る。
「獣のカンだが——奴は『飢えて』いるな。血に、あるいは勝利に」
「行ってみよう」
ヒューミリスはパトスを降下させた。
巨大な白銀の狼が戦場の中央に降り立った瞬間、兵士たちはパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
残ったのは——ヒューミリスたちと、座禅を組んだままの男だけ。
「……邪魔をするな」
男が薄目を開けた。
冷たい鋼の色をした瞳。極限まで感情を抑制した、静かな目。
「私は均衡を保たねばならん」
「均衡?」
ヒューミリスは男を見た。
「ただ我慢しているようにしか見えないが」
男の眉がピクリと動いた。
「我慢ではない。節制だ」
低い声が、静かに答える。
「力とは、振るうためにあるのではない。抑え込むためにある」
男は語った。
かつてその剣で多くの命を奪ったこと。
強すぎる力は世界を歪めること。
だから自らに厳格なルールを課し、食事すら最低限に抑え、力の行使を極限まで制限してきたのだと。
「腹が減っては戦はできぬ、と言いんすがねぇ」
牡丹が呆れたように扇子を仰いだ。
男は答えなかった。
その時、地平線の向こうから地鳴りが響いた。
逃げ去ったはずの兵士たちが——魔導兵器を率いて戻ってきた。
「あいつらだ! 賞金首の花魁と、銀色の化け物だ! 殺せェェ!!」
四方八方から砲撃が迫る。
男——テンペランスが立ち上がろうとした瞬間。
「ぐ……ッ」
膝が、折れた。
腹が、鳴った。
「グゥ~」
盛大に。
「……不覚」
空腹と疲労。節制の限界が、今この瞬間に来ていた。
「馬鹿だねぇ、アンタ」
牡丹が扇子を開き、結界を展開する。
「死んじまったら、節制もへったくれもないだろうさ!」
「下がってろ」
ヒューミリスが前に出た。
手を掲げる。
着弾寸前の砲弾が空中で静止し、光の粒子となって手のひらに吸い込まれていく。
テンペランスが目を見開いた。
「な……!?」
ヒューミリスは吸収したエネルギーを手のひらで圧縮した。
凝縮して、凝縮して——一つの輝く塊へ。
形は、リンゴに似ていた。
「ほら、食え」
無造作に放り投げる。
テンペランスは反射的に受け取った。
魔力の塊。常人なら触れただけで消し飛ぶエネルギー体。
だが——極限の空腹が、理性を凌駕した。
「……いただく」
ガブリッ。
齧った。
途端、全身から爆発的な闘気が噴き上がる。
抑制していたリミッターが外れ、その肉体が膨れ上がるような錯覚。
「美味い……! なんだこれは、力が……溢れてくる……ッ!!」
テンペランスが剛剣を構えた。
もはや迷いはない。
「我が剣は空腹なり。全てを喰らい尽くさん!!」
ズバァァァァァァンッ!!!
一振り。
衝撃波が地平線まで駆け抜けた。
魔導兵器の大隊が、空間ごと削り取られて消えた。
殺すのではない。文字通り、剣圧で——更地にした。
砂煙が晴れた。
テンペランスは我に返り、自分の手を見つめていた。
「私は……禁忌を破り、力を解放してしまった……」
「いい斬撃だったよ」
ヒューミリスが拍手した。
「抑えるだけが能じゃない。時には食らって、消化して、自分の血肉にするのも——節制のうちだ」
テンペランスは長い沈黙の後、ゆっくりとヒューミリスを見上げた。
「……貴殿の与えた糧、極上の味であった」
剣を鞘に納め、跪く。
「私の渇きを癒やしたのは、貴殿が初めてだ」
一拍。
「私の名はテンペランス・ジハード。……この剣と命、貴殿に委ねよう。私の食欲が世界を食い尽くすその日まで——貴殿の節制の下に」
「……」
牡丹が、新しい仲間をじっと見ていた。
「アンタ、腹が減ったらまた暴走するのかい?」
「……努力する」
「努力じゃ足りないねぇ」
「……善処する」
「善処でも足りないよ」
「では、尽力する」
「言葉を変えてるだけだよ!!」
カスタが呆れた顔で割って入った。
「貴方たち、もう少し建設的な会話ができませんか……?」
テンペランスは静かに立ち上がり、パトスを見上げた。
『……大食らいが増えたな』
「失礼な」
「否定できないだろう」
一行は六人になった。
平原を後にして北西へ向かいながら、ヒューミリスはテンペランスの横顔を見た。
剣を背負い、無言で歩く男。
その腹が、また小さく鳴った。
「……食うか」
「……いただく」
干し肉を渡す。テンペランスは無言で受け取り、静かに噛んだ。
「旨い」
「よかった」
それだけだった。
それだけで——なんとなく、信頼できる気がした。
ヒューミリスは前を向いた。
次は、南西の海を越えた孤島。
人形師が残したという、機械仕掛けの夢が眠る場所。
「未来島か」
呟きが、風に溶けた。




