『Vendetta 0』第四章:白き聖女と純潔の結界
国境を越えた瞬間、空気が変わった。
肌を刺すような寒気が消え、代わりに凛とした清浄な空気が満ちている。
雪は降っていない。風もない。ただ、静かで、清潔で——どこか息が詰まるような空間。
「……空気が、変わったねぇ」
牡丹がキセルを吹かした。
「ここから先は聖女様の結界内でありんすか。魔族も寄り付かないわけだ」
「グルル」
パトスが不快そうに鼻を鳴らす。
「清浄すぎて、逆に息が詰まりそうだ」
獣の本能が、過度な潔癖さを拒絶している。ヒューミリスには、その感覚が少し分かる気がした。
前方に、雪原の中にそびえ立つ巨大な氷の城壁。その奥に、白く輝く大聖堂。
西の大国——聖国領。
これが、その入口だった。
---
聖都の門をくぐると、静寂が出迎えた。
人々は皆、白を基調とした質素な服をまとい、伏し目がちに歩いている。
KOEIDOの喧騒とは、正反対の世界だ。
「なんだか、みんな元気がないですね……」
アマリスが心配そうに呟く。
街の中央広場では、多くの人々が座り込んで祈りを捧げていた。
ヒューミリスは目を細めた。
彼らの肌に、黒い痣が浮かんでいる。
「疫病か?」
近づこうとした瞬間——鋭い声が飛んできた。
「下がってください! その病は、穢れなき祈りでしか癒やせません!」
---
声の主は、広場の中央で杖を掲げていた一人の少女だった。
頭の先から爪先まで塵一つない純白の修道服。
銀色の髪をきっちりと結い上げ、硝子のように冷たく美しい瞳。
その佇まいは完璧だった。
隙がなく、乱れがなく、疑いがない。
「私は聖女カスタ。……貴方たち、異教の匂いがしますね」
カスタはヒューミリスたちを一瞥し——牡丹とパトスのところで、あからさまに眉をひそめた。
「特にそこの、肌を晒したふしだらな女性と、野獣」
「あら、ご挨拶だねぇ」
牡丹が扇子で口元を隠し、挑発的に笑う。
「わっちはこれでも『感謝』の美徳を背負ってんのさ。堅苦しいお姫様にはわからんだろうけど」
「なっ……! 神聖な都でそのような口を……!」
カスタが顔を真っ赤にした瞬間——広場の患者の一人が呻き声を上げた。
「うぅ……聖女様……熱が……」
カスタの表情が変わる。
怒りが消え、使命感だけが残る。
「いけません、もっと祈りなさい! 信仰心が足りないから魔の穢れに蝕まれるのです!」
必死に回復魔法をかける。
だが——黒い痣は、消えない。
---
「……無駄だ」
ヒューミリスが静かに言った。
「それは病気じゃない。呪いだ。しかも、祈りや魔法じゃ解けない術式が組み込まれている」
「何を……! 私の純潔の魔力で浄化できない穢れなど——」
「どいてくれ。俺がやる」
カスタの横を通り抜け、患者の前に跪く。
「触れてはいけません! 穢れが——」
ヒューミリスは右手をかざした。
目を細める。見えているのは、患者の体ではない。その内側を流れる「構造」だ。
(呪詛の術式。自己増殖型……なるほど、これは魔術だけじゃない。別の技術が混ざってる)
どこかで見た構造だ、とヒューミリスは思った。
まだ行ったことのない場所の——技術の匂いがする。
「消えろ」
指を鳴らす。
シュゥゥゥ……。
患者の体から黒い霧が噴き出し、一瞬で空中に霧散した。
痣が消える。顔に赤みが戻る。
「あ……体が、軽い……?」
---
カスタは、杖を取り落とした。
「馬鹿な……。祈りも、聖水も、何も使わずに……一瞬で?」
呆然と立ち尽くしている。
長年信じ、守り続けてきたものが、目の前であっけなく凌駕された。
「信仰は大事だ」
ヒューミリスは立ち上がりながら言った。
「でも、盲信は目を曇らせる」
淡々とした声だった。責めているわけではない。ただ、事実として言っている。
「貴方は……一体……」
カスタが震える手で、ヒューミリスの袖を掴んだ。
その瞳に浮かんでいるのは——恐怖ではなかった。
恐怖よりも、もっと強い何かが、そこに宿り始めていた。
(私の知らない力。私の知らない世界の理。……知りたい。もっと、この人のことを——)
「私は……貴方達の旅に同行させていただきます」
突然の宣言に、ヒューミリスは目を丸くした。
「は?」
「貴方のその力、神の御業か悪魔の所業か——この目で見極める義務があります。ええ、監視です! 決して個人的な興味ではありません!!」
顔を赤らめながら早口でまくし立てるカスタ。
「あらあら」
牡丹がニヤニヤと笑う。
「堅物聖女様も、意外とチョロいねぇ」
「うるさいです! ふしだら女!」
「ふしだらで結構。……でも、アンタ、ヒューミリス様に惚れてるでしょ」
「惚れていません!!」
アマリスが、二人の間に苦笑いで割って入る。
「ま、まあまあ……! カスタさん、一緒に来てくれると助かります。私たちには、回復魔法が得意な方が必要で——」
「アマリスさんの頼みであれば」
カスタは即座に頷いた。
そして牡丹を横目で睨む。
「……この不浄な女と同行することには、一切賛成していませんが」
「どうせ同行するくせに」
「黙りなさい!」
---
聖都を出る頃、夕暮れが空を染めていた。
パトスの背に乗り、一行は西へ向かって進む。
カスタは馬に乗ることを強く拒否し(不浄だと言って)、結局パトスの背の端っこに、牡丹から最大限距離を取って座っている。
ヒューミリスはアマリスの隣で、空を見上げた。
「にぎやかになってきたな」
「なりましたね」
アマリスが微笑んだ。
「フカセ様は、こういうの——嫌いじゃないでしょう」
「……そうかもしれない」
後ろでは牡丹とカスタが言い合いを続けている。
パトスが「うるさい」と一吠えして、二人が同時に黙った。
ヒューミリスは小さく笑った。
(守りたいもの、増えてきたな)
それは——重さでもあり、温かさでもあった。
--




