「私は愛する」
二人が暗殺されたことは、世界中を揺るがした。
エステルが最後に口走った、あのヘブライ語の意味を、私は知った。
「私は愛する。私は許す。そして、愛する」
平和を愛するすべての人々が、二人のために、涙を流した。
ノルウェー当局は、全力を挙げて捜索したが、犯人の手掛かりはつかめずじまいだった。
以前、エステルが狙撃された時のような犯行声明は、今回はどこからも出されなかった。
ただ、いくつかのテロ組織が、二人を狙撃した犯人を称賛するような声明を、発表したのみだった。
ラウルはしばらく、食事も喉を通らないほど、悲嘆にくれた。それは私も同じだった。
だが、悲しんでいるだけではだめだと、私たちは互いに話し合った。
私たちが悲しみだけにとらわれることを、あの二人は決して喜ばないだろう、と。
犯人探しのように、世界中で憶測が吹き荒れた。
けれども、私たちは、その一切に耳を貸さず、ただ黙って、子どもたちへの支援活動を続けた。それが、二人が望む行動だと、私たちは信じていたから。
イスラエルの知人から、エステルが国葬にされたと、連絡が来た。兵役を拒んで罰された者に対しては、異例の措置だったが、世論は彼女に敬意を表したのだ。
ユダヤ教徒の彼女は、土葬にされた。一度狙撃された後、いつか殺されることを覚悟したように用意していた遺言に記された通りの、白い花嫁衣装で、墓に埋められたという。
ラウルは、アリを、ムスリムとして葬ってくれるように頼んだ。生前、彼は特にイスラームの信仰を告白はしなかったが、パレスチナに戻ったら、正式にそうするつもりであっただろうからとの、ラウルの配慮だった。
イスラームの掟通り、白い布にくるまれて、アリは、スウェーデンのムスリム移民たちの墓地の一角に、埋葬された。実母、ヤスミーンの埋葬されているのと、同じ墓地だった。
私たちは、アリの遺品を整理した。
金メダルとスケート靴とを見た時、私たちは再び、涙を堪えることができなくなった。
そうして、悲しみと戦いながら、日々を過ごしていた頃、イスラエルから、私たちを訪れる者があった。
ラヘルと、アナスタシアだった。
アナスタシアは、ビデオテープを持っていた。
「これは、エステルが『ロミオとジュリエット』と、『ヴェニスの商人』を踊った年に、最初に組んでいたプログラムです。モルデハイの猛反対と、コーチ陣の説得で、公にされることはなかったものです」
アナスタシアの言葉に、私たちは顔を見合わせた。
ビデオを再生すると、リンクの上で、エステルが元気に滑っていた。
ラヘルが、堪えきれない、というように、スンと鼻をすすった。
流れ出した曲を聴いて、ラウルが眉をひそめた。
「『サムソンとデリラ』?」
ラウルの問いに、ええ、とアナスタシアが頷いたので、私は驚愕した。
「サムソンとデリラ」と言えば、旧約聖書の有名な話だ。イスラエルの英雄サムソンが、ペリシテの女デリラに誘惑されて、誓いを破り、神に与えられた力の秘密を教えてしまう。その結果、彼は力の源であった髪を切られて捕らえられる。が、やがてまた髪が伸びて、力を取り戻し、ペリシテ人たちに復讐する。
女性スケーターがデリラを踊ることは、別に珍しくもないことだが、イスラエル人であることを公に誇っていたエステルが踊るとなると、話は別だ。
アナスタシアが、懐かしげな、寂しげな目で言った。
「このプログラムを組んでいる時、すでに、エステルはアリを愛していたんです」
パレスチナとは、ペリシテの土地、という意味で、ローマ人がつけたんですよ、と、アナスタシアは言った。
「だからこの『サムソンとデリラ』は、立場が逆なんです。サムソンはペリシテの英雄、デリラはイスラエルの女なんです」




