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二人の空  作者: 蒼久斎
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ヨルダン川西岸地区へ

※ この物語はフィクションです。実在する人物・組織・国家とは、まったく関係ありません ※


「彼女、苦しんでました」

 アリの声は平坦だったが、重苦しく響いた。

 和平推進を声高に訴えながら、同時に愛国者であることを言明する彼女にとって、兵役義務は、板挟みの苦しみだ。

 敵対意識を内包する国家に囲まれながらも、小国イスラエルが、何十年も存続してきた、その最大の要因が軍事力であることを、知らない者はない。

 兵役は国家を支える力、存続させる原動力であると、エステルは理解している。愛国者を公言する彼女にとって、兵役拒否は、場合によっては、国家の存続を否定する行動と取られかねない。

 ましてや、イスラエルの罪をも背負って生きる、と、彼女はそう公に言っているのである。

 眉根を寄せた私に、暗がりの中で、アリは笑った。

「でも、彼女は、僕に言ってくれました」

 あの、イスタンブルの塔の上で。

「『私は、兵役を拒否する。敵を殺すことも、国を守ることかもしれない。けれども、敵対する人々と対話することは、殺すことよりも、もっともっと強力な防衛になると、そう信じる』」

 だから、軍隊にはいかない、と。

 彼女はそう言ったと、アリは微笑んで告げた。

 夜が明ける前に、私たちは少し眠った。

 それから、エステルは予告通り、報道スタッフを連れて、ホテルに私たちを迎えに来た。

 朝のテルアヴィヴは、真っ白に輝く町だった。

「あの地区は、近代建築の特色を色濃く残しているとして、世界遺産に指定されているんです」

 エステルが、その白い地区について説明してくれた。

「八十号線から、ベツレヘムに向かいます」

 そう言った後、彼女は、一呼吸置いて、言った。

「ヨルダン川西岸地区……イスラエルの占領地域ですが、パレスチナ自治政府の統治下にあります」

 アリが、ごくりと唾を飲み込んだ。

 パレスチナ。

 どれほど足を踏み入れることを待ち望んだだろう。

 けれども、どれほど厳しい現実が待つのだろう。

 小型バスで移動する。乗る前に、ラヘルが念入りに、爆発物が仕掛けられていないかチェックしていたのが、印象的だった。

 車中で、話は続けられた。

「かつては銃撃戦も起きましたが、現在は、ベツレヘムの治安は、西岸地区の中でも特に安定しています。首脳級会談を開くことが可能なほどにです。けれども、それはきっと、アリ、あなたの見たいパレスチナじゃない。そうでしょう?」

 エステルの問いに、アリは黙って頷いた。

「いちばんいいのは、ガザ地区へ行くことだけれど、政府はガザを実効支配するハマスを認めていない。だから私は、ガザ地区には入れない。行くなら、あなたたちをそのまま放り込むことになる。そんなことは、できない。それにあの一帯は、ハマス側のロケット弾発射やら、それに対する軍の報復攻撃やらで、とても危険。だからこそ、行く価値はあるかも知れないけれど、今はまだ、その時じゃないと思うの」

 だから、と、彼女は続けた。

「西岸地区最大都市、ラマラに行きます。それにそこには、あなたを連れて行かなきゃいけない場所が、いくつもあるから」

 アリは、眉根を寄せ、首を傾げた。

「それは、いったい、どこなんだい?」

「私が出資して、あなたの名前をつけた、パレスチナの孤児たちのための施設」

 それから、と、彼女は、今度はとても苦しそうな顔になった。そして、絞り出すような声で、言った。

「あなたの実の父親、イスマーイール・ハダドの、お墓」

 その言葉を聞いた瞬間、アリの表情が凍り付いた。

「父さんのお墓?」

 エステルは、ほとんど泣き出しそうな表情で、両手で頭を抱えながら、叫ぶように言った。

「ようやく、ようやく見つけたの……ユダヤ人の伝手も、パレスチナ人の伝手も、辿れるだけ辿って、ずっと探してたの……私があなたにできるのは、これだけだと思ったから」

 ああ、と、アリが、ため息ともつかない息を吐いた。

 車は、ベツレヘムに着く。

「ベツレヘムはアラブ人の町よ。言わずと知れた、キリスト教の聖地だから、元はアラブ人キリスト教徒の方が多かったけど……」

 そう言いながら、彼女は、やや赤みを帯びた大理石の、大きな教会を示した。キリスト教徒の巡礼者が、絶えることなく訪れる、生誕教会である。

「……でも、最近は、出生率の高い、ムスリムのアラブ人の人口の方が、多くなっているわ」

 そう説明して、ふと気づいたように、エステルはアリを振り返った。

「そう言えば、あなたの宗教について、私、質問したことがなかったわね」

 アリは、少し目を見開き、困惑とともに苦笑した。

「神は信じてる。でも、ムスリムには、なれなかったよ。周囲にいなかったから、どう信じたらいいのか分からなかった。養父のラウルは、無教会派のクリスチャンだから、僕はどちらかというと、キリスト教徒に近いかもしれない……でも、イスラームに改宗するのに、抵抗は全くないよ。一応、勉強もしてるし」

 その説明に、分かった、と、エステルは頷いた。

 それから、エステルは、また説明を始めた。

「ベツレヘムから、ラマラまでは、別にそんなに遠くないわ。でも、途中に嫌になるほど大量の検問所があるの。許可証はもぎ取ってあるけれど、散々足止めを食うことは覚悟しておいて」

 うん、と、アリは頷いた。

 それから彼は、空を見上げて、呟いた。

「これが、パレスチナの空、なんだね」

 エステルも頷いた。

「そうよ。ここはパレスチナ。あなたの祖国。その大地、その空の下に、今、あなたはいるの」

 空を見つめるアリの目から、涙が一筋、流れ落ちた。

 車に戻り、ラマラへ向かう。

 その車中、はい、と、エステルは一枚の紙切れを差し出した。のぞき込んだ私の目に、アラビア文字が飛びこんできた。なんと書かれているのか、読めない。

 しかし、アラビア語をかじったアリには、読めたらしい。目を見開き、確認するように、一文字一文字を、そっと指で辿っていった。

「『アリ・イスマーイール・ハダド・スヴェンソン』?」

 ええ、と、エステルは頷いた。

「向こうで、サインを求められることになると思うの。その時に、アラビア語でサインできるようにと」

 ただ、アリ・スヴェンソンと、アルファベットで書くよりも、きっと、親近感が湧くでしょう。

 エステルはそう言った。アリは、その文字列を、目に刻み込むかのように、何度も指で辿り、見つめていた。

 チッ、と、車内の誰かが舌打ちをした。

「さ、検問所がお待ちかねだ」

 テレビクルーの言葉はヘブライ語だったので、私には理解できなかったが、エステルが通訳してくれた。

 それから彼女は、私が行く、と、誰もに解るように、英語で宣言した。



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