テルアヴィヴでの夜
イスタンブルにある、アタテュルク国際空港は、イスラエルのテルアヴィヴに直行便が通じている、数少ない空港の一つだ。
テルアヴィヴの、ベングリオン国際空港に向かう飛行機の中、エステルはすやすやと眠っていたが、アリは緊張に顔をこわばらせていた。
私は、アリに話しかけた。
「緊張しているね?」
アリは、首を、左右に振った。
「緊張だけじゃないんです……もう、心臓が破裂しそうなほど、どきどきしている。嬉しいような、悲しいような、そして、怖いような、複雑な気持ちなんです」
憧れた祖国の大地に、ついに入れる、喜び。
けれども、自分たちを追いやった人々の一人から、招かれなければ、決して踏むこともできなかっただろうという、鬱屈した思い。
祖国に帰るために降り立つ空港の名は、祖国を奪った男の名を刻む。
だが、きっと、アリの抱く複雑な思いの中には、彼自身の中に芽生え、根付いていた、エステルへの愛情があったのだろうと、私は思っている。
眼下に、テルアヴィヴの夜景が広がった。
ホテルにチェックインする。いかにも高級ホテルといった佇まいに、アリは少し気後れしていたようだったが、エステルは厳しい表情で言った。
「だめよ。イスラエルは、安全のために手間や費用を惜しんだら、即、死んでも不思議じゃない国なの」
このホテルは、セキュリティの高さに定評があるから、大丈夫だと思って選んだのだ、と彼女は続けた。
「私は、死なせるためにあなたを呼んだんじゃない。あなたを連れていかなきゃいけない場所があるの」
そう、どこか思い詰めたような表情で言って、それからエステルは、明日は報道陣を引き連れて歩くことになるから、しっかり休んでおいて、と付け足した。
「報道陣?」
私の言葉に、そうよ、と、エステルは頷いた。
「マスコミを連れて動くのは、記録や広報の意味もあるけど、安全対策でもあるのよ。カメラに囲まれた中じゃ、誰だっておいそれとは手を出しにくいわ。だから、テレビ局と話を付けておいたの。密着取材を許可するって言ってね。もちろん、国営放送じゃないわ。民間の放送局よ。国営放送にそんなことを認めたら、どんな風に都合良く報道されるか、分かったものじゃない」
半ば吐き捨てるように、エステルはそう言った。
「それから、念には念を入れて、アナスタシアと相談して、私たちが認める形での報道をしてくれるように、って条件をつけたわ」
その手回しの良さに、私は舌を巻いた。
「たいした手腕の持ち主だ」
私がそう言うと、エステルはおどけたように笑った。
「それが、私の取り柄なんだもの」
おやすみなさい、と言って、彼女は去っていった。
一応、ベッドには入ったが、私はなかなか寝つけなかった。それはアリも同じだったらしく、彼はついに、沈黙を破って、私に話しかけてきた。
「僕が学業に専念するため、引退を宣言したのと、ほぼ同時に、彼女も、プロになるために、競技からの引退を表明したでしょう?」
ああ、と、私は相づちを打った。
「競技からの引退を理由にして、彼女は、コーチ陣のほとんどと、絶縁したんです。もちろん、チーフ・コーチで、育て親の、モルデハイ・アヴィグドールとも」
一応、例のイスラエル在住の知人から、そのような話を聞いてはいたから、さして驚きはしなかった。
「エステルが今も交流しているのは、アナスタシア・バレンボイムぐらいなものです」
それも、見当がついた。
しかし、アリの次の言葉には、正直、驚愕した。
「でもそれが、当局の気に入らなかったらしい……兵役に参加することを要請する手紙が、来たそうです。彼女なら、十分に、免除される資格はあるのに」
イスラエルは、十八歳になれば、男女とも軍隊に入らなければならない。兵役義務のある国は、世界でも珍しくはないが、たいていは男子のみだ。男女への義務兵役を課す国は、まれである。
そんなイスラエルでも、一部のユダヤ人は兵役を免除されている。人が典型的なユダヤ教徒として連想する、黒ずくめの彼ら、ハシディームと呼ばれる、超正統派のユダヤ教徒たちである。
イスラエル「本土」では少数派となる、ムスリムやキリスト教徒、それから、ドゥールーズ派と呼ばれる人々は、義務ではなく、志願制となっている。
しかし、多くを占めるユダヤ教徒たちにとっては、兵役は、基本的に拒否を認められない義務である。良心的兵役拒否を行った場合、刑罰が待っている。
女子の場合は、条件付きで良心的兵役拒否を認められている。しかし、エステルの場合は、スケートの才能を理由にして、兵役そのものを「免除」することも、十分に可能だったはずなのである。
えー、先だって、ついに超正統派の兵役免除の法律が期限を迎えた、ってことには目をつぶっといてくれると有り難いです。




