イスタンブルの街で
オリンピックの後、アリは、学業に復帰するため、競技生活からの引退を宣言した。
実母ヤスミーンは、彼をスケーターにするために、スウェーデンへと移住したのではない。彼に高等教育を受けさせて、やがてパレスチナのために働く人材とするために、移住したのだ。
アリはそれをよく理解していた。
スケートは、彼の心をアピールするために、大いに機能した。しかしそれだけでは、彼が成し遂げたいことを達成するためには、まだ不十分だ、と。
エステルは、プロスケーターの道を選択した。
翌夏、エステルから、イスラエルに、パレスチナに来てほしい、と連絡があった。
ラウルは、アリがいよいよ本格的に始めていた、孤児支援基金の活動の関係で、手の放せない用事があった。それで、私がついていくことになった。
ストックホルムから、トルコのイスタンブルへ。
そこで、エステルと合流した。
さすがに、アナスタシアは同伴できなかったらしい。この時、エステルの側に控えていたのは、ラヘルという女性だった。
最初にラヘルを見た時、アリは少し驚いたような顔をしていた。私も同じだった。ラヘルは、ほとんどアラブ人のように見えたのだ。
当然よ、とでも言いたげに、エステルは言った。
「彼女、イラク系なんだもの」
ラヘルは、アラブ人との混血を繰り返したユダヤ人の子孫だそうだ。そのため、イラクではユダヤ人として扱われるが、イスラエルではアラブ人として扱われるなどの、複雑な立場に置かれてきたのだという。
エステルはラヘルに対し、アナスタシアに対するようには甘えていないようだった。しかし、だからといって、警戒している様子はなかった。
テルアヴィヴに飛ぶ前に、二人と、そして私は、イスタンブル観光を楽しんだ。
イスタンブルは、ローマ帝国、ビザンティン帝国、そしてオスマン帝国と、三つの帝国の首都となった、トルコ第一の大都市である。
他宗教に対して寛容な政策をとったオスマン帝国の名残か、方々にモスクの尖塔が林立するこの町は、同時に、今もあちこちに、非イスラーム系の宗教施設が残る町でもあった。
トプカプ宮殿の中庭で、エステルは話し始めた。
「私の遠い先祖は、この帝国に助けられたの」
一四九二年、スペインで、ユダヤ人追放令が発布された。その時、何十万という人々が、改宗を拒んでスペインを脱出した。そのうちの一部が、オスマン帝国に逃げ込んだのだという。
オスマン帝国のスルタンは、彼らを受け入れた。
「私、ギリシア系の血が混じっているけれど、それは二系統あるの。片方は、ロマニオット。つまり、ビザンツ時代からのギリシア系よ。そしてもう一つが、スペインからこの帝国に移ってきた、セファルディーム」
愛しげに、彼女は目を細めた。
「この帝国がなかったら、私は生まれていなかった」
夕刻が近づく頃、私たちはガラタ橋を渡って、新市街の南端部、ガラタ地区にいた。この地区のシンボル、とんがり屋根が特徴的な、ガラタ塔の上に登る。
ライラック色に染まる空の下、町中のモスクの尖塔から、日没後の礼拝を呼びかける声が響き渡る。
「この辺りは、五百年以上前から、ユダヤ教徒が住んでいたって。だからこの塔の近くにはね、シナゴーグが、今もあるの」
そう言ったエステルは、両手を広げて、笑った。
「私、あなたと、この町に来たかった。この町では、ムスリムとユダヤ教徒が、何百年も共存したの。互いの違いを、それぞれに受け入れて、ずっと生活していた」
だから、と、彼女は続けた。
「私たちの願っていることは、とても難しいことだけれど、とても難しいことになってしまったけれど、でも、決して不可能じゃないと思うの。私たちは、きっと互いに共存していけるわ」
そうして、星が輝き始めた紫の空に手を伸ばした。
「この空の下で、ムスリムが、ユダヤ教徒が、そしてキリスト教徒が、ずっと共存していたの」
差異を乗り越えて共存する人々の姿を思い、私は、何と素晴らしいことだったのだろう、と、思った。
「もちろん、スルタンはムスリムだったから、ムスリムの方が優遇はされていたけれども……でも、やがて、同じオスマン帝国の民だからって、宗教で差別することをなくそうという動きも出たのよ。帝国が弱ってきた頃のことだけれど」
苦笑混じりにエステルはそう付け足して、けれども、と、また表情を引き締めた。
「こうやって共存した前例があるのよ。それをより良くして、復活させることは、きっとできるはずだわ」
黙って聞いていたアリが、頷いて、言った。
「差別のない、共存」
そうよ、と、エステルは頷いた。
「お互いはお互いとして尊重して、同じ世界に生きる人間として、互いに敬意を払って、そうして、助け合って生きられる時代が来るって、私は信じてる」
そして彼女は、首筋までを隠していた、長袖の上着を、脱ぎ去った。
赤くただれた火傷の痕が現れる。
その傷に触れて、けれども、彼女は微笑んだ。
「過去は変えられない。負った傷は消せない。でも、私があなたを尊敬できるようになったように、現在からは変えていけるの」
強い瞳で微笑んで、彼女は言った。
「この傷を抱えたままで、私はあなたを愛せる」
エステルの宣言に、アリは優しく頷いた。
ラヘルが、私に目配せをした。
私は、分かっているさ、と頷いて、彼女と一緒に、二人から少し、距離を置いた。




