三つの国旗
男子のフリースケーティング。
エステルのフリー用の曲と、対として作られたのは、パレスチナの、平和を願う声をテーマにした曲。
始まりのヴァイオリンのソロ。悲劇の前兆の悲劇。
三回転ジャンプ。
そして、襲いかかる戦火。悲劇が引き起こす悲劇。
四回転、三回転、三回転。
祈るように天を仰ぐアリの表情は、悲しみと怒りに満ちている。
続く不協和音。繰り返される報復の連鎖。
蹴り上げるような動きを加えつつ、スピンを組み合わせている。憎しみをぶつけるような、荒々しい動作。
三回転、三回転、二回転。
ダブルアクセル。
やがて、果てしなく続く憎しみの連鎖に対して、疑問がわき起こる。静けさの中、澄んだピアノの一音。
報復が何をもたらしただろう?
ステップ。疑念に揺れるように、アリの顔が歪む。
束の間の自己満足。束の間の勝利感。
そして、新しい悲しみ。
それを終わりなく続けた果てに、救いはあるのか?
きっと答えは、否、だ。
四回転ジャンプ。
悲しみを抱えたまま生きることは、敗北ではない。
アリが微笑んだ。悲しみを秘めて、それでも前を見つめようとする、澄んだ瞳だった。
最終盤に、もう一度三回転ジャンプを加えて、アリは演技を締めくくった。
場内が大歓声に包まれた。万雷の拍手が降り注ぐ。
得点発表。
アリは、見事に金メダルを勝ち取った。
彼は、彼のもう一つの祖国、スウェーデンの国旗を掲げて、リンクの上を駆けた。
まだ。まだだ。
本当の本番は、エステルが勝たなければ訪れない。
女子のフリーが始まった。
アリと対の曲は、ショートプログラムの続きだ。
滑走前、彼女はアリの所へ顔を出し、その横にちょこんと腰掛けた。そして、囁いていた。
「私も、勝つ」
頷いたアリの手は、エステルの手に重ねられていた。
エステルの滑走順がやってくる。
低く唸るように響く金管楽器の音。終わらない戦い。報復の連鎖が、悲しみを広げていく。
三回転、三回転の、コンビネーションジャンプ。
続いてスピン。
もう止めなければ、報復は。その愚かしさは、憎しみにとらわれていたからこそ、よく分かる。
トリプルアクセル。
エッジを切り替えながらのステップ。
わかっている。これは、決して平坦な道ではない。
激しくもがくような動きは、きっと、彼女自身がぶつかり続けてきた、壁なのだろう。
でも、乗り越えなければならないのだ。
高く跳躍し、そこから、コンビネーションスピン。
たとえ壁にぶつかっても、前に進むことを諦めては、悲しみは永遠に終わらない。
三回転、三回転、二回転。
終盤に決めた大技に、けれども、エステルの表情はゆるまない。
遠くを見つめるような瞳で、そっと手を差し伸べる。
スパイラル・シークエンス。
《大丈夫。私は、一人じゃない》
そう語りかけるような、強さを秘めた微笑。
スピン。
二回転、二回転の、コンビネーションジャンプ。
それから、ぐっと前を睨むような目で、氷を蹴る。
四回転ジャンプ。
私は目を見開いた。私の横で、アリが微笑んだ。
会場がどよめきわたる。
加速度的にスピードを上げていく、コンビネーションスピン。高速スピンから、フィニッシュポーズ。
人を安堵させるような、力づけるような笑顔で。
「ブラヴァー」
私は思わず呟いた。
会場からの拍手に応えるエステルの笑顔は、やはりまだあどけなさを残していたが、去年よりもはるかに大人びたものになっていた。
アリが彼女を変え、彼女がアリを変え。
ともに一つの願いを抱いて進もうと決意した二人。
得点が発表される。
エステルも、金メダルだ。
「アリ!」
イスラエル国旗を持って、彼女が呼びかけた。
アリは笑顔で、二つの旗を持って、飛び出した。
エステルの持つ、イスラエル国旗。
アリの持つ、スウェーデン国旗。
そして、二人の持つ、パレスチナ国旗。
リンクにひるがえる三枚の旗に、惜しみない拍手が降り注いだ。
その響き、その時の感動を思い出すと、私は今でも、涙が流れることを止められない。




