音楽を通じて
そう話してから、およそ一月が経過した。
エステルから、まだ連絡は来ていなかった。
アリは、基礎練習には余念がなかったが、まだプログラムを組みあぐねているようだった。
しかし、私が家で過ごしていた夜半に、アリから電話が掛かってきて、そして、告げた。
エステルから連絡が来た、と。
すぐに来て下さいと言うので、私は取る者も取り合えず、家を飛び出して、スヴェンソン家へ向かった。
アリは私を出迎えると、こっちです、こっちです、と、居間のコンピューターの方へ私を引っ張っていった。
彼があまりに良い笑顔をしていたので、私は、どんな良いことがあったのだろう、と思いながら、引っ張られるままに、彼についていった。
居間のコンピューターの前には、ラウルが座っていた。
「父さん、再生して下さい」
アリがそう言うと、ラウルは、うん、と頷いて、コンピューターの操作を開始した。
アリは笑顔で言った。
「彼女は、僕の心配なんかはねのけるぐらい、ずっとタフでしたよ」
私は、首を傾げた。
アリはさらに言葉を続けて、説明してくれた。
「先のシーズンの前から、西岸地区の音楽院に、作曲を依頼していたんです。ご存じですか? サイードの名を冠した音楽院……そこのスタッフに、彼女は、二民族の共存をテーマにした曲を、依頼していたんです」
作曲には、ユダヤとパレスチナ、双方の音楽家が協力したのだという。
「まだテスト版だそうですが、ユダヤとパレスチナ双方の、音楽を学ぶ学生たちの演奏による、完成版も、間もなく送られてくるそうです」
今度はラウルが説明した。そして、曲が再生された。
ヴァイオリンのソロから始まり、暗い曲調で始まるその曲は、やがて多くの楽器の音と混じり合い、時には不協和音を奏でながらも、最後には調和し、美しく響く一つの旋律へと変わっていった。
時折、呼びかけるようにあちこちから繰り返され、そして最後には、すべての楽器が、話し合うように奏で合う、一つのメロディラインが、とても印象的だった。
その曲の響きを形容しきる能力は、私にはない。
ただ、せめぎあう悲しみの中、それでも、生きようとする意志を、お互いを尊重しようという努力を、私はこの曲に感じた。
曲の余韻に浸りながら、演奏時間の表示を見て、私は驚いた。五分もなかったのである。
まさかこの曲は、と思って、アリを見た。
アリは、小さく笑って、言った。
「いくつか、同様に作られた曲があるそうです」
ラウルが、言った。
「これは、男子のフリースケーティングの長さに合わせて、組まれた曲だ」
頷いたアリが、次のを、とラウルに言った。
ラウルがマウスを操作する。
次の曲は、先ほどの曲とは違い、打楽器の連打から始まった。やがて、ピアノが、そして、ヴァイオリンが加わる。暴れるような音が、やがて、静かに落ち着いていく。そして、囁きかけるようなピアノのソロで、締めくくられる。
先ほどの曲よりも、明らかに短かった。私は、演奏時間の表示を見た。
「……女子の、ショートプログラム?」
「そうです。エステルは、この曲でショートを滑るつもりだそうです。フリー用の曲もありますよ」
私はその曲も聴いた。男子フリー用の曲に似ていたが、少し、響きが違うように思った。
私が首を傾げていると、ラウルが微かに笑った。
「多分、エステルの曲は、ユダヤ人側からの和平の希求なんだろう。そして、彼女がアリに送ってきた男子用の曲は、パレスチナ人側からなんだ」
ラウルの説明に、そうか、と私は頷いた。
アリが、さらに言った。
「でも、エステルが示すのは、占領地を解放する気も、入植地から出ていく気もなく、分離壁の建設を容認しておきながら、ただ平和だけを求めるような、そんなユダヤ人じゃ、ありません」
そう断言するアリの目は、とても温かかった。
そしてアリは、ラウルに向かって言った。
「僕はフリーを、この曲で滑りたい」
ラウルは、黙って頷いた。
私は問うた。
「この曲で、君は何を演じるんだね?」
アリは、「個人」になるんじゃありませんよ、と答えた。「人々」を演じるんです、と。
「みんなきっと、心のどこかで思っているはずだと、僕が信じていることを、僕は表現します」
そしてきっと、エステルもそうするでしょう。
そう言い切ったアリには、もう、最初にエステルに出会ったときのような、険悪さは欠片もなかった。
人は傷を抱えたままでも、互いに信じ合うことができるのだと、私はその時、強く感動した。
その時の喜びは、今でも私の心を慰めてくれる。
エドワード・サイード音楽院は実在しますが、もちろんこの小説を書いている人物とは何の関係もありません。




